caguirofie

哲学いろいろ

#7

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

第一章 やしろ資本推進力について

第七節a 見えない《せぢ》関係をとおして 自己を了解する

せぢは 不可視の霊力であるなら スサノヲのアマテラス化という市民=公民化にとって それを対象化して捉えることがから始め――だから これを《せぢ》ということばで表現するのだが―― その関係世界の中にいまだ寄留し さらに具体的に対象化しつつすすむ作業が新しいせぢ関係の動態であるように思われる。

  • 一般にまた基本的には スサノヲの自己到来の一瞬およびその持続の過程としてのアマテラス化(アマアガリ)は 内的に・とうぜんあくまで内面的に 果たされていくと考える。上では 外的に 市民でありかつ公民として自立することを言おうとしている。これは やしろにおける人間関係でもあるから その基軸には 想定として せぢ関係が捉えられるのではないかと言おうとしている。また 生活日常の具体的な場面などで これは せぢの問題だといった捉え方ができるのではないかと考える。

次のおもろが もし なお一般に原始心性の情況の中にあって この上の作業をおこなったのだとするなら それは ある鏡としての役割をにないうると思う。もしくは 謎において――そして 言うとすれば ある象徴において=何か表現されたものとしてのアマテラシテにおいて――その鏡のごとくなにものかを映すであろうと考える。

すでにかかげたおもろである。

ゑ け 上がる辺(い)のみづかわ(太陽)
ゑ け 咲い渡るの桜
しけしけと 〔朝日の〕降れ差ちへ
今日(けお)より あいいてるむ

ゑ け てだが穴の瑞日(みづかわ)
(巻十・531)

《てだ(=照ら)=太陽》は 東方(あがるい)に《穴》があって そこから昇ると信じられたいた。《降れ差ちへ》とは 《降り射して》。その輝くさまは 《しけしけと》である。《あいいてるむ》は 《未詳語。文脈からすると 相い照るらむ(照り渡るであろう)の意か》(外間守善)とする。《相い》と言っていることも微妙だが 太陽が毎日のぼるのに 《今日より》としたところにも 微妙なせぢ関係というより 主観 これの動態が思われたのである。その主観の動きは おそらく 自己到来・自己還帰の問題であると考えたい。内面的な自己還帰の一瞬がやってきたのである。そのような一時点が具体的に捉えられている。そのときには あたかも 想定の限りでは せぢのはたらきだとなる。
あとは 他のおもろにも出てくる対句の部分が付け加えられた。

ゑ け 朝凪(ど)れが し居(よ)れば
ゑ け 夕(よう)凪(ど)れが し居れば
ゑ け 板清らは 押し浮けて
ゑ け 棚清らは 押し浮けて
ゑ け 船子 選で 乗せて
ゑ け 手楫 選で 乗せて
(巻十・531)

  • 《ゑ け》の添えられていない形でのこれら三つの対句は ほかでも頻用されている。

板清ら・棚清らは ともに船の名である。これら船を浮かべて 船子・舵取りを選んで乗せて 朝凪ぎ・夕凪ぎがするなら(――文法的には 《しているので》――) 《今日より あいいてるむ》と言った。朝凪ぎ・夕凪ぎは もし経験的な船の航行の場がおもわれているなら 《無風では 航海に不便であるから 実際は航海にほどよい軟風の吹いている状態》と解せられる(外間守善)。また 宗教的な儀礼において そのようなせぢ=霊力をつけられての出発を 船の旅路に喩えたとも言われている(倉塚曄子)。
しかし 《今日より》出発する新しいせぢ関係(――人生は 旅であるから。また 母斑の海を航く船旅にたとえられる。――)には 《朝凪れ・夕凪れが しよら》ないわけではないと 考えられた。そこでなお 《今日より》と詠んだのは 《咲い渡るの桜に しけしけと 陽の降れ差ちへ その上がる辺のみづかわを見て 〈ゑ け〉と叫んだ――つまり こころの中に叫んだ――》そのスサノヲの自己了解の時点に発したのだと思う。そうでなくてはなるまい。
このときかれは たしかに 船子や手楫を 選んでいなくてはなるまい。あらゆるせぢ連関において 他者のだれをも軽蔑しないがゆえに かれは 選んで乗せるのだと思う。人を選ばないことが 人を尊重することだというのは 少なくとも女性をすでに 歴史の共同相続人から排除している結果だと思う。《せぢの問題》など 原始心性にとってだけ 問題となり 近代人たるわれわれには存在しないと言うのは 上がる辺のみづかわに ゑ けと発するスサノヲ語を忘れた スサノヲ語を軽蔑する 女性を共同相続人(共同主観者の列)からはずす誤った近代精神の所産ではないのか。

  • ちなみに 

それ(共同主観)は 本質としての人間および自然の 理論的にも実践的にも 感性的な意識(スサノヲ語)から出発する。
経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2) 3・2.括弧内は むろん引用者。)

ところが このスサノヲ語が アマテラス語共同観念において 包み込まれるというナシオナリスティックなせぢの中に逆立して連関する事態について すでにわたしたちは触れていた。

ヘーゲルは 国家(A−S連関体制なるオモロ)》から出発して 人間(S)を主体化された国家(観念の資本制としてのせぢ連関)たらしめるが 民主制(スサノヲイスム)は 人間から出発して国家(ヤシロ資本連関の総和)を 客体化された人間たらしめる(それとしての せぢ連関においての存在たらしめる)。
マルクスヘーゲル国法論批判〔ヘーゲル法哲学批判序論―付:国法論批判その他 (国民文庫 30)〕)

と言うとき ヘーゲルのここでの一面としての観念の資本制が 成立することが それである。つまり ともあれ 歴史的に 国家は 成立している。
《ゑ け》と発するスサノヲ語が 共同観念やアマテラス語において オモロされる。

一 ゑ け よう 聞(きこ)へおわもりや
  ゑ け よう 島世(しまよ) 討(う)ち取りよわちへ
又 ゑ け よう 鳴響むおわもりや
又 ゑ け よう 今日の良かる日に
又 ゑ け よう 今日のきよかる日に
又 ゑ け よう 聞へ按司添いや
又 ゑ け よう 鳴響む按司添いや
又 ゑ け よう 大君は 崇(たか)べて
又 ゑ け よう 精高子は 崇べて
(巻十・532)

《聞へおわもり》は 神女の名前である。国中を討ち取りたまいて(島世 討ち取りよわちへ) ゑ けと発して 船を漕いで行こう(《よう》は 掛け声)という。王(聞へ按司添い・鳴響む按司添い)あるいは 聞こえ大君(大君・精高子)のもとに 今日の良かる日に 今日の清かる日に と。

  • 《大君は 崇べて》は 大君を崇めて・尊んで・敬っての意。

したがってわたしたちは この観念の資本制としてのせぢ関係が 歴史的に一度 やしろ資本連関の海域いっぱいに 観念的に 拡大し 上昇(アマアガリ)したことを見出す。また このひとまとまりの観念の資本制としての一個のやしろ形態が ほかのもう一つのそれによって 征服され植民地となった歴史を知っている。さらに これらの観念の資本制連関が 一つのやしろ形態として独立するか あるいは もっとまとまりのよい大きなヤシロ形態の中に入って落ち着いてゆくかの歴史を経てきており いまでも 観念の資本制じたいが 共同観念のオモロとしては 蜃気楼閣であることを知っている。

  • 国籍がちがうことによって なぜ 親しき人びとどうしが殺し合いをするほどにまで その国家の枠組みとしてのオモロを 大切にしなければならないのか。それは いつわりのアマテラス語によるのでないなら どうしてか。この識見高い近代精神のアマテラス語理論が どうして 原始心性のままでないと言えるのか。むしろ 原始心性を折って曲げてねじ繰り返した結果の変質オモロではないのか。

これらを――ここでは―― 男の女に対する関係の いわば前史から後史へ(――言いかえると ヘーゲルの一面としての 国家論から民主制へ――)の変遷にたとえて 捉えようというのである。
(つづく→2006-09-25 - caguirofie060925)