caguirofie

哲学いろいろ

#4

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

第一章 やしろ資本推進力について

第四節 観念の資本は 男の女に対する関係である

第一節にかかげた《おもろさうし》の第一巻頭の1番のおもろは たとえば次のようなかたちで 収録されているものの読み方の一例であった。

一 聞得大君ぎや
  降れて 遊びよわれば
  天が下 平らげて
  ちよわれ
又 鳴響む精高子が
又 首里杜ぐすく
又 真玉杜ぐすく
(巻一・1)

ここでは まず次の点に注目したいと思う。やしろ資本連関(第一次的には マキョなる共同体)の一員としての個人(または 家族)において その互いの関係の中に 観念的に表象されていた《せぢ》が 逆立したかたちであれ 同じくこの家族関係を離れた存在であるところの神女のおもろの中にも 同じものとして うたわれている。この事態である。又《せぢ》が 一つの焦点である。
《降れて》の主語が それ(せぢ)であり また 《鳴響む精高子》というときの《精》は このせぢのことにほかならず この一句が全体で せぢの霊力ゆたかな人の意であり 聞こえ大君の異称にほかならないといった形の中にあるからである。
言いかえると 前節に示した構図にも見るように やしろの資本再生産の観念的に表象された推進力は やしろの各段階すべてに 共通であり それは この一つの《せぢ》だということである。また すべてのおもろは このせぢに支配されていると言っても 驚くにはあたらない。
近代市民のヤシロ的な出発は そもそも この母斑の世界たるおもろの構造からの脱出だった。その再編成であった。また ここでは・いまでは 再編成ということに 重点があるだろう。聞こえ大君のおもろ構造は この母斑の世界のいわば純粋模型のようなものであるが モデル形態のほうが いまの論議にとって対比があざやかになり都合がよい。あるいはさらに もし ここでの手法として 結論をつねに あらかじめのように 交じえていくことに意義を見出して進むとするなら この母斑の世界を前史として われわれの主張は この前史からまったくその母斑を脱ぎ捨てたいわば本史へ移行するというのではなく 前史から進んで後史に立って なお母斑の世界に寄留してのように 再編成していくというのが それである。
本史を或る種の仕方で形態として 想定しなければ われわれは何を為すべきか いかなるせぢ連関を形成すべきかを知らないと思ってはならないであろう。前史から後史へ変えられ 後史に立って その新しいオモロ構造(やしろ資本連関)をとおして 見えない本史を見てすすむというのが 新しいオモロ(せぢ連関)の前提だと考える。
それには 旧いオモロ構造を再編成してすすむその動態にこそ やしろ資本主体つまり自己を問い求め見出すという自己の存在を 確立していかなければならないし これが 循環的にさえ――滞留して―― 後史の動態であると考える。このことが わづかに 母斑の制度 制度としての母斑を――つまり経済学的に――変革してすすむということと 相即的であるのだと。
このためには せぢ連関が――むろん ふるい原始心性としてだが――優勢であるところの沖縄のおもろさうしの世界 これが きわめて有効な鏡(つまり むろん 鏡そのものを見るのではなく 鏡をとおして見るべきものとしてである)だと言ったのである。

そこで たとえば

文明社会では 人間がいつも多くの人たちの協力と援助を必要としているのに 全生涯をつうじてわずか数人の友情をかちえるのがやっとなのである。・・・人間は 仲間の助けをほとんどいつも必要としている。だが その助けを仲間の博愛心( benevolence )にのみ期待してみても無駄である。むしろそれよりも もしかれが 自分に有利となるように仲間の自愛心( self-love )を刺激することができ そしてかれが仲間に求めていることを仲間がかれのためにすることが 仲間自身の利益になるのだということを仲間に示すことができるなら そのほうがずっと目的を達しやすい。
(A.スミス:国富論 (1) (中公文庫) 1・2)

というとき この思い(一種の観念の資本推進力として)は おそらく オモロのせぢをアヒジョして言っているのではなく せぢとしての資本主体どうしの関係を 対象化・客観化して 理性的に論理的に認識して示したものであろう。せぢは 博愛心でも自愛心でもなく このような近代市民の合理的なオモロの中にも 殊に経済人としてのだが 思考や知解と意志の行為および過程として むしろ保存されている。

  • 合理的なホモ・エコノミクスの思いなるむしろマイナスのせぢ連関といった形態(せぢの形式=内容を脱ぎ捨てた形態)であるとしても。

スサノヲ・キャピタリストのおもいを わざわざ せぢのアウフヘーベンしたものであると断わる必要はないが しかしこれらの経済人の行動の総和としてのやしろ資本過程が 《神の見えざる手によってみちびかれていく》と言おうと言うまいと つまり それは 個人の知解し意志するところを超えて全体としてまず自然史的な過程として すすめられる つまり 卑近なことばとしては 運なる要因が少なからずはたらくであろうと見る ぶんには この《せぢ》説を言われなく引っ込めずとも よいであろう。
つまり スサノヲ・キャピタリストらのおもいが たとえば 繁栄をとおしての平和と幸福といったような一つの共同観念のおおいとなって はたらくと表象されるとき それが むしろ 原始心性としてのせぢの二番煎じである要素が よりいっそう濃いという逆説も生まれるのではなかろうか。

  • うえの蔽いは 蔽いかぶせられる側面もありうる。このときは やはり個人のおもいと共同観念のおもろとは 逆立して連関している。
  • つまり アダム・スミスが言うには 個人個人のおもいが ほとんどそのまま実行されていくことによって 結果的に総体的に 繁栄にみちびかれると言うのであり これに対して はじめに繁栄なる総体的な観念があって このオモロの共同のもとに 個人個人のおもいと行動とが実行されるという場合が 考えられる。

こう考えるならば すでにいくらか色褪せたとは言えそれによってわれわれが生存しているスサノヲ・キャピタリスト近代市民のおもいの出発点をも もう一度 吟味して見なければならない。むろん このことは すでに広く論議されていることがらであり われわれの観点からこれをなしたいと思う。しかし少なからず結論は 提示したと考える。


わたしたちは ここで もっと大胆に述べることができる。
たとえば

社会の利益を増進しようと思いこんでいる場合よりも 自分自身の利益を追求するほうが はるかに有効に社会の利益を増進することがしばしばある。
見えざる手に導かれて 自分では意図してもいなかった一目的を促進することになる。
国富論 (1) (中公文庫) 4・2)

それは 個人の貪欲さや営利心は それれが自由に発揮できる状態におかれている場合には 結局 社会全体の分配を適正で合理的なものにする というスミスの信念である。・・・たとえ現実は 《私悪》が公共の福祉にむすびつかないようなことがあっても それは一時的な現象であり 結局 消費財の分配は次第に均等化されるであろう というのがスミスの信念(――つまり おもろ――)であった。
スミス的な理神論からすれば 現在あるところの事物の秩序から逆に万能の神の存在を類推することが強調されていたのだから 個人の利己的本能――《自愛心》や《利己心》――は 資本投下の仕方についても 個人の消費生活の態様についても 結局 個人的な本能におわることなく 社会公共の福祉にむすびつかなければならないはずのものだったのである。

国富論 (1) (中公文庫)

国富論 (1) (中公文庫)

 《 led by an invisible hand 》についての訳注)

というようなオモロが おもろ第1番と遠くかけ離れているとは思えない。

  • いや 遠くかけ離れつつ 大きく 一つの円環をさえ形作っているかに見える。

〔神のせぢの〕降れて
鳴響む精高子が 遊び(謡い舞い)よわれば
〔王は〕 天が下 平らげて ちよわれ

という原始心性は 《自愛心や利己心〔――あるいは これらの副産物としてのような博愛心――〕》を まだ開花させていないぶんだけ 観念のせぢに支配されており 自愛心等を積極的にあたかも第一義にうたうぶんだけ 上のスミスのオモロが近代市民の思惟=行為形式を代表すると見るかぎりでその近代理性は この聞こえ大君のおもろの構造のなかに取り込まれているのではないだろうか。もしくは時に ゆえなく脱出してしまったのかも知れない。

  • スミスが 自愛心のみを うたったかは 争われなければならない。

問題は せぢなる共同主観(それは 《関係》である)を 対象化し客観化しつつ なお主観の外に出してしまわないことにあるのではないだろうか。

  • 旧いせぢ(また せぢに対する見方)は 内的に棄てることであり 合理主義というオモロを それのみを 新しい内的なせぢとすることも出来ない。

マキョの中に住む人びとの――素朴な・第一次的な・出発点としての――アマテラス統治者たる按司を さらに襲う(=継ぐ)王は やしろに一人 もしくは 生産態勢などの組織に社長として一人 しかいないが 聞こえ大君は 人間の知解および意志の行為能力として それぞれ市民スサノヲのやしろ行為過程の中に いろんな形のせぢとして 存在するのではないだろうか。せぢは 逆に言えば 近代理性のそのような思惟=行為形式の中に 余計なものとして 保存されているのであり また 獣ではないが天使でもない人間にとって 保存されているべきであり しかも 個人個人のおもいをちょうど共同観念的にやしろ全体に誘導するようにその手段として 保存しているべきではない。近代理性は 原始心性紙一重の距離と関係にあると言ったほうがよい。
かんたんに言うと 聞こえ大君のおもろでは せぢのやしろ諸関係が 市民一般にとっては 逆立しているのであるから この逆立を さらにもう一度 逆立させればよい。そのとき せぢなる原始心性を排除するようにして個としての近代理性が 思考し意志するのではなく この母斑から抜け出ようとする近代精神は その思考と意志とにおいて 原始心性をたしかにいま見ており しかもこの呪縛された心理を 排除するのではなく 用いることによって 逆立を再倒立させることができる。言いかえると 近代理性は その超原始心性によって せぢなる共同主観を 邪魔物扱いしてしまったのではないだろうか。

聞得大君ぎや 聞こえ大君が
世(よ)添(そ)りせぢ 世を守護しうる霊力を
みおやせば 按司添いにさしあげれば
千万 世 按司添いは 末永く
添わて ちよわれ 守護していたまえ

(巻一・3)
ここで 次の再展開の作業をほどこすことができる。すなわち 

  1. 按司添いなる王は むしろ抽象的にやしろ資本過程そのものであるのではないか。
  2. 聞こえ大君は やはり抽象的に 内なる」思惟=行為形式(その能力)である。
  3. したがって せぢは これを対象化しつつも 自己と他者との主観の共同性(《関係》概念)として保存している。
  4. そうして全体として やしろの上部の構造でのこのオモロを 一個の市民のおもいにまでアマクダリさせているということ。

これらの作業をほどこすなら スミスの理神論と変わらないうたである。これらの条件を見るなら 次のものと 遠いへだたりが存在するのではあるが。
しかも この近代市民の精神が むしろ個として独立していくことによって せぢなる《関係》を敢えて離れたぶんだけ それは うしろに過去を引きずる母斑としてではなく まえにまぼろしの未来を追い求めるスーパー原始心性の人となってしまう公算がおおきいのだ。そうして もちろんのこと 上に挙げたような母斑の克服の過程は その具体的な作業をともなって われわれ近代市民が いまもおこなっている生活の態様でしかありえない。
聞こえ大君=とよむ精高子が これを生活の場にアマクダリさせてのむしろ人間の或る種の仕方で何なにを欲するところの意志(その行為能力)であるとするならば 大君は 女性であるから――オモロの世界では 《きみ》は すべて 女性である―― ここでは やしろ資本主体としての姿を そのように男女両性の関係(時に せぢ)において 観想することを欲したことになる。
言いかえると 母斑の世界に呪縛される(原始心性としてのせぢである)のも 母斑の世界を乗り超えようとする共同主観(対象化された近代理性によって用いられるところの・また用いる近代精神としてのせぢ)も ともに 或る女性的なものであるかも知れない。知解・意志などの叡智は 女性的なものであるかも知れない。したがって やや大袈裟に言うと われわれは 歴史(やしろ資本過程)の共同相続人に とうぜんのごとく 性として女であるところのスサノヲ市民を排除しない。

  • この論点は いわゆる経済学的な分析が明らかにして示すことを ようなさないか もしくは つねに 現実の歴史の先行に対して後手にまわるであろう共同主観である。
  • 近代市民の精神が この男女両性の平等を そのおもいに うたったとするなら それは 聞こえ大君=とよむ精高子を排除することから出発したかも知れない。せぢの外に出て せぢなる共同主観・関係を 近代理性によって また それのみによって 共同主観なる蔽いとしてのオモロ(法律だとか倫理規範)の中に うたったもののようである。
  • 《天が下》のやしろ資本連関(それは むろん 人間関係である)が 原始心性としても 個人の利己的な本能としても またそれらをのり超えようとする力としても せぢなのであるから むしろこの十字架の中に人は立たなければならないと思う。理神論も これを結局は言った。無神論は それとして言わずしかも 現実のせぢ関係として コミュ二スム共同主観を言ったもののようである。

(つづく→2006-09-22 - caguirofie060922)


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