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哲学いろいろ

#12

もくじ→2006-08-13 - caguirofie060813

方法としての人麻呂長歌(その二)

次の長い長い長歌で 高市皇子(たけちのみこ)とは 天武天皇の第八皇子で 六七二年の乱に大功を立て 草壁皇子の没後 太政大臣となり持統十年(696) 没した人物である。

   高市皇子の城上(きのへ)の殯宮(あらきのみや)の時 柿本朝臣人麻呂の作る歌
かけまくも ゆゆしきかも
言はまくも あやにかしこき
明日香の 真神の原に
ひさかたの 天つ御門(みかど)を
かしこくも 定めたまひて
神さぶと 磐隠ります
やすみしし わご大君の
きこしめし 背面(そとも)の国の
真木立つ 不破山越えて
高麗剣(こまつるぎ) 和蹔*1(わざみ)が原の
行宮(かりみや)に 天降(あも)り座して
天の下 治め給ひ
食(を)す国を 定め給ふと
鶏が鳴く 吾妻の国の
御軍士(みいくさ)を 召し給ひて
ちはやぶる 人を和(やわ)せと
服従(まつろ)はぬ 国を治めと
皇子ながら 任(ま)け給へば


大御身(おほみみ)に 太刀取り帯ばし
大御手(おほみて)に 弓取り持たし
御軍士を あどもひたまひ
斉(ととの)ふる 鼓の音は
雷の 声(おと)と聞くまで
吹き響(な)せる 小角(くだ)の音も
敵(あた)見たる 虎が吼ゆると
諸人の おびゆるまでに
捧げたる 幡(はた)の靡は
冬ごもり 春さり来れば
野ごとに 着きてある火の
風の共(むた) 靡くがごとく
取り持てる 弓弭(ゆはず)の騒き
み雪降る 冬の林に
飃風(つむじ)かも い巻き渡ると
思ふまで 聞きの恐く
引き放つ 矢の繁けく
大雪の 乱れて来たれ
服従はず 立ち向かひしも
露霜の 消なば消ぬべく
行く鳥の あらそふ間(はし)に
渡会(わたらひ)の 斎(いつき)の宮ゆ
神風に い吹き惑はし
天雲を 日の目も見せず
常闇(とこやみ)に 覆ひ給ひて
定めてし 瑞穂の国を
神ながら 太敷きまして
やすみしし わご大王(おほきみ)の
天の下 申し給へば


万代(よろづよ)に 然しもあらむと
木綿(ゆゆ)花の 栄ゆる時に
わご大王 皇子の御門を
神宮に 装ひまつりて
使はしし 御門の人も
白栲の 麻衣着
埴安(はにやす)の 御門の原に
茜さす 日のことごと
鹿じもの い匍(は)ひ伏しつつ
ぬばたまの 夕(ゆふべ)になれば
大殿を ふり放(さ)け見つつ
鶉なす い匍ひもとほり
侍(さもら)へど 侍ひ得ねば
春鳥の さまよいぬれば
嘆きも いまだ過ぎぬに
憶ひも いまだ 尽きねば
言(こと)さへく 百済の原ゆ
神葬(かむはぶ)り 葬りいまして
麻裳よし 城の上の宮を
常宮と 高くまつりて
神ながら 鎮まりましぬ
然れども わご大王の
万代と 思ほしめして
作らしし 香具山の宮
万代に 過ぎむと思へや
天の如 ふり放け見つつ
玉だすき かけて偲はむ かしこかれども
(199)
   短歌二首
ひさかたの天知らしぬる君ゆゑに日月も知らず恋ひ渡るかも
(200)
埴安の池の堤の隠沼(こもりぬ)の行方も知らに舎人(とねり)はまとふ
(201)
哭沢(なきさは)の神社(もり)に神酒(みき)すゑ 禱祈(いの)れども わご大王は高日知らしぬ
(202)

語意の注釈は 専門書にあたっていただくとして 歌の註解は もはや必要としないほどであろう。*2 関が原の戦いを終えて もはや武力を押しとどめるという新しい江戸時代の到来を歌いくくるかのごとく または 鎌倉幕府という新しいインタ・イエ(藩)イスムから成るA-S連関制の成立に際して 殊に軍事的に功のあった源義経を悼むがごとく 高市の皇子の歌が――または その時代への継承と訣別のうたが――うたわれている。また このように長くこそ うたわれなければならなかったと言いうる。
ここで 歌人その人は 醒めている。残った人びとに対して 冷たい。そしてその現代に対して熱いことによって かれらにこの歌の旋律を 共同相聞歌ふうではなく 主観相聞歌のなかに 風吹かすのである。そしてこれに尽きるとわれわれには思われる。
ここでは いちいちその長歌を掲げることは もはやしないが 次に もう一編 皇子への挽歌を取り上げて その後に 名もない横死者への挽歌を 長歌形式という主題の中に取り上げて行こうと思う。
次の歌は 上の歌と時期的にあい前後するが 天武・持統両帝のあいだに生まれた草壁皇子への挽歌であり かれも 六七二年の乱に従軍し 天武十年 皇太子となり 持統三(689)年 没した人物である。おそらくこの歌を掲げることによって 草壁の子である軽の皇子(のちの文武天皇)の《阿騎野に宿りしし時の人麻呂長歌一編》が 人麻呂のうたの構造において つながりを持つものとなろう。なお 《殯宮(あらきのみや)》とは 《殯は 崩御薨去の際 本葬までの間 仮りに棺に収めておくこと。その宮が殯宮》である。

   日並皇子の殯宮の時 柿本朝臣人麻呂の作る歌 併に短歌
天地(あめつち)の 初めの時
ひさかたの 天の河原に
八百万 千万(ちよろづ)の神の
神集ひ 集ひ座して
神分(はか)り 分りし時に
天照らす 日女の尊(ひるめのみこと)
天をば 知らしめすと
葦原の 瑞穂の国を
天地の 寄り合ひの極(きはみ)
知らしめす 神の命(みこと)の
天雲の 八重かき別きて
神下し 座(いま)せまつりし
高照らす 日の皇子は
飛鳥(とぶとり)の 浄(きよみ)の宮に
神ながら 太敷きまして
天皇(すめろき)の 敷きます国と
天の原 石門(いはと)を開き
神あがり あがり座しぬ
わご王(おほきみ)
          皇子の命の
天の下 知らしめしせば
春花の 貴(たふと)からむと
望月(もちつき)の 満(たたは)しけむと
天の下 四方(よも)の人の
大船の 思ひ憑(たの)みて
いかさまに 思ほしめせか
由縁(つれ)もなき 真弓の岡に
宮柱 太敷き座し
御殿(みあらか)を 高知りまして
朝ごとに 御言(みこと)問はさぬ
日月の 数多(まね)くなりぬる
そこゆゑに 皇子の宮人 行方知らずも
(167)
   反歌二首
ひさかたの天見るごとく仰ぎ見つ皇子の御門の荒れまく惜しも
(168)
あかねさす日は照らせれど ぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも
(169)
   或る本の歌一首
島の宮勾(まがり)の池の放ち鳥 人目に恋ひて池に潜(かづ)かず
(170)

ここで 人麻呂は あらためて カシハラ・デモクラシの理念(ミュトス)を掲げている。
天武朝ののち 持統朝において 《あかねさす日(持統天皇)の隠らく惜しも》という情況 つまり六七二年の乱のあとのA-S連関体制の成立のさらにその後の或る種の転回(方向の偏り)を捉えるべきかのように 共同主観から共同主観への移行を なおも執拗に あらためて うたうかのようである。
したがって 軽の皇子の阿騎野での歌とつながって 《かへり見すれば月 傾きぬ》と言って 草壁の死を惜しみながら しかし 《東の野に陽炎の立つ見え》るとうたって 《あかねさす日(持統帝)》に対して 軽の皇子(のちの文武天皇)を 新たな《かぎろひ》に擬しているかのようである。それによって 《日並皇子の命の馬並めて御猟立たしし時は来向かふ》と 新たな共同主観の時代の到来に臨むと言いたげである。 
長歌形式とは 本質的にこのような時代移行にかかわる歌体であるのであろう。また 少なくともここでは この事例の指摘のほかに 意味を持つものとは思われないのである。
次に もしA圏(このばあい 主導圏)の人びとへの挽歌がこうであるとするならば 一般S圏次元での挽歌としての長歌をも見ておくできであろう。
(つづく→2006-08-26 - caguirofie060826)