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哲学いろいろ

#15

もくじ→2006-08-13 - caguirofie060813

方法としての人麻呂長歌(その五)

次の長歌には 人麻呂の不満が消えている。これをどう解釈するか。

   柿本朝臣人麻呂 新田部皇子に献る歌一首 併に短歌

やすみしし わご大王
高輝(て)らす 日の皇子
栄えます 大殿のうへに
ひさかたの 天伝ひ来る
白雪(ゆき)じもの 往きかよひつつ いや常世まで(261)

   反歌一首

矢釣山(やつりやま)木立ちも見えず降りまがふ雪にうぐつく朝(あした)楽しも(262)

《白雪の中を 馬を走らせて御殿に来る朝はほんとうに楽しい》(262)とうたう。新田部皇子(にひたべのみこ)は 天武天皇の第七皇子で 母は藤原鎌足の娘・五百重娘である。のち藤原不比等の没後 舎人親王と並んで重きをなしたと言われる。長歌では 《しきりにこの御殿にかよい いよいよ年久しくいつまでもお仕え申し上げたいものです》と述べている。ただし へつらいと見るべきではなく また必ずしも韜晦(とうかい)があるとも思われない。そうではなくて これが一つのあいさつ 一つのむしろ人麻呂の方から繰り出した和(こた)うる歌であろうと思われる。
ここでも 人麻呂の歌の真意がどこにあるのか しかしながら定かではないが 一つの明らかなことは このように長歌形式をもって挨拶をしなければならない関係にあったと言うことであろうとは思われる。そしてそれは 歌の内容と表裏一体の関係を成すと言わなければならないであろう。
まだ視点の定まらないまま 一つのかたちで結論づけて述べるとするならば 長歌は それとは趣きを異にする短歌群が かれの主観をむしろあざやかに映し出すのとは違って より現実の中に そしてその意味でありまいなかたちで 歌い出されわれわれのもとにあると思われることである。またこれは いくらかわれわれの主張を押し出して表明するとすれば 現代から見て こう言ったほうがよいと思われる結果の一結論である。またこのことは いづれ必然なのであろうと了解するのであり われわれはこれを避けて通ることはで難しく われわれ自身よくよく思惟すべきものであるように思われる。

  • 必ずしも そこに 原理・理論は見出せないであろう。

しかしこれでは 何も論じなかったに等しい。われわれは ここから 一歩進めて 最後にはこう結論せねばならないと思われる。
すなわち 最後に掲げた長歌一編を見ていただきたい。これは 長歌一首と短歌一首とから成っている。そして 問題の本質は この短歌のほうが――そしてその歌の内容はたあいないものなのだが―― 先に歌いだされた長歌反歌としてこそ またそうしてのみ 歌うことが可能であったろうと思われる。この事情は おおよそ他の長歌形式にも 同じ類型的なうたのあり方として成り立っているとも思われる。しかも われわれは 現代において このような 短歌(内なる主観)の序詞(あいさつ)であるとでも言うべき長歌を 必要としていない。または 俗に世辞としてそれは 実際である。しかも要は この世辞のあいさつとなった《長歌》が もはやその内なる構造が 誰の目にも実際には見えているということなのである。問題の本質はおそらく ここに求められる。
もちろんこのことは いわゆる文明のあり方とつながるものであり また生産における人びとの関係につながるものである。要するに広く社会生活とつながっている。したがって いわゆる資本(資本の関係と見れば むしろ 愛)にも だからあるいは広く 観念の資本としても それぞれつながったわれわれの存在・思惟・内省・行為の形式そのものの問題なのであろう。
事は このようにラディカルであるが それでは そこからさらに何を問題として求めるべきであるのか。――しかしこれこそは 一人ひとりの主観にかかわる問題である。主観の価値を価値自由的にうたう学問・科学・芸術行為は そのものとしては慎まねばならない領域にある。しかもわれわれはこれを つまり一人のスサノヲ者の内の《もっともわたくしなる領域》としてこれを その自我の普遍性 amatésité との連関のなかに それぞれのスサノヲイスムとして生きるそのあり方なのだと 一般化する。だから われわれのヤシロロジは このことの認識をもって その第一原理とする――それは 公理 axiome であろう――ことで 満足しなければなるまい。
しかしながら ここで 同時に このヤシロロジにおいて そのヤシロの奥なる存在(かみ)を見まつり(または 無神論者にあっては 見まつることを排して) ただ次のように表明して その表明を共同相聞歌(観念的な共同主観)として持とうとすることにも 抵抗を示すべきである。

〔視よ 今は恵みの時 視よ 今は救いの日である。〕
私たちの奉仕が批難されないように いかなることにも人に躓きを与えないようにし かえってあらゆることにおいてもカミの奉仕者として私たち自身を勧める。
すなわち 多くの忍耐にも 艱難においても 困窮にも 行き詰まりにも 鞭打ちにも 獄中にも 騒乱にも 労働にも 徹宵にも 飢餓にも 
純潔をもって 知識をもって 寛容ともって 慈愛をもって 聖霊において 偽りのない愛をもって 真理の言葉をもって カミの力をもって 
両手に持つ義の武器により 光栄と恥辱によっても 悪評と好評によっても カミの奉仕者として自分たち自身を勧める。
わたしたちは 人を惑わしているようであるが しかも真実であり 人に知られていないようであるが しかも知られ 死ぬばかりでありつつ しかも視よ 生きている。懲罰を受けているようであるが 常に喜んでいる。貧しいようであるが 多くの人を富ませ 無一物のようであるが すべてを所有している。
コリント人への手紙第2 (ティンデル聖書注解) 6:2−10)

この文字からは解放されて 自由な万葉を――新たな詩歌を――結実させねばならない。長歌の時代は 終わることができたのであり いわば現代の長歌は 踊っている。現代のヤシロを称して 劇場社会 la société théâtrale と言った人があるが それは この長歌の構造が透けて見えて 人びとがそれぞれみづからの・長歌領域における演出と演技とによって 来たるべきヤシロのかたちを模索するがゆえにである。人は変わらないであろう。もしくは そのペルソナ(長歌)脱いだところで 変えられてあるだろう。しかし ヤシロのかたち(A‐S連関のかたち)は変えうるであろう。なぜなら その初めの成立は 同じ人間の知恵によって形成されていったものなのであるから。方法としての人麻呂長歌は このことを語っているだろうか。
その短歌群のうたをもって この長歌( système A - S )を 動きのあるものとして 作り変えようと言いたげであろうか。《われわれは これからどうなるのか わからない》 しかし ここから一歩を踏み出していくであろう。ここから一歩を踏み出していくことは出来ると語っているだろうか。
このような結論は 《わたくし》のものである。それは 芸術的・学問的な歌の鑑賞からはほど遠い。しかし これを その短歌群のほうのうたの構造が示唆するカトリシスムとして押し出そうとでも言うのであろうか。また 学問の方法さえをも まったく転換してしまおうと言うのであろうか。
ともあれ 次のように言うことは許されるであろう。すなわち 万葉集は われわれにとってなお 現代の謎であると。《この謎において わたしたちは 栄光から栄光へ変えられる》とはもはやわれわれは 言わない。
それでは? それでは?
われわれは この次には 現代におけるヤシロロジの一系譜 その具体的な立論をつかまえて 具体的にこれを評価・批判しなければならないであろう。それは 次の仕事に属する。ここに長々と引用した長歌の死滅を放置しないための営為となる

  • 繰り返して言って 長歌形式は 微妙な位置にあると思われる。

(つづく→2006-08-29 - caguirofie060829)