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哲学いろいろ

#11

もくじ→2006-08-13 - caguirofie060813

方法としての人麻呂長歌(その一)

長歌形式だから どうこうということは ないであろう。ただ 人麻呂の歌について まだ言い及んでいないものの中から ここでは 長歌〔およびその反歌ないし短歌との一組み〕を取り上げて 方法への考察をつづけたい。
長歌形式のうち 巻一および巻二の前半の次の数編はすでに別のところで取り上げた。

長歌/反歌・短歌
巻一 29/30・31(近江荒都歌)
36/37(吉野宮讃歌)
38/39(同上)
45/46〜49(軽皇子の阿騎野宿の歌)
巻二 131/132〜134(石見相聞歌)
135/136・137(同上)
138/139〔・140〕(同上の別伝)

したがって ここでは その他として 巻二の挽歌としての長歌ないし巻三の雑歌としてのそれが 中心となる。

  • このほかには それぞれ雑歌として 巻九の一組(1761・62) 巻十三の二組(3253・54と3309)の三篇を残すのみとなる。

巻二の挽歌は長い長い長歌を含めて 複雑である。それは アマテラス圏(つまり ここでは 宮廷)の歴史過程を取り上げており 時間複合(ヤシロ=S圏と スーパーヤシロ=A圏とのコンプレックス)として複雑である。まずは 巻九・雑歌の部の次の長歌一編を取り上げることから始めよう。

      鳴鹿を詠む一首 短歌を併せたり
三諸(みもろ)の 神名火(かむなびやま)に
立ち向かふ 三垣(みかき)の山に
秋萩の 妻を枕(ま)かむと
朝月夜(あさづくよ) 明けまく惜しみ
あしひきの 山彦とよ(響)め 呼び立て鳴くも
(1761)
反歌
明日の宵 逢はざらめやも あしひきの山彦とよめ呼び立て鳴くも
(1762)

《秋萩という妻と共に寝ようと 夜の明けるのを惜しんで 鹿が 山彦を響かせ呼び立てて鳴いている(長歌)。明日の夜逢わないはずはないのに(反歌)》というただ これだけの歌である。
またこの一編は 《右の件の歌は 或いは曰はく 柿本朝臣人麻呂の作なりといへり》という歌のあとの左註によってのみ 人麻呂とつながる ただそれだけのうたではある。
もっとも この歌一編がここに置かれたのは その直前の歌(長歌反歌の一組)との兼ね合いにおいてであろう。この直前の歌は S圏のまつりとしてのいわゆる《かがひ(耀歌・歌垣)》を詠んでいる。これを捉えて《鹿が 呼び立て鳴く》と受けたものであろうと考えられる。

     筑波嶺に登りて耀歌会(かがひ)をする日に作る歌一首 短歌を併せたり
鷲の住む 筑波の山の
裳羽服津(もはきつ)の その津の上に
率(あども)ひて  未通女(をとめ)壮士(をとこ)の
行き集ひ かがふ耀歌に
人妻に 吾も交じはらむ
この山を 領(うしは)く神の
昔より 禁(いさ)めぬ行事(わざ)ぞ
今日のみは めぐしもな見そ 言も咎むな
(1759)
反歌
男(を)の神に雲立ちのぼり時雨(しぐれ)降り濡れ通るともわれ帰らめや
(1760)

《今日だけは愛しい人も見るなかれ とがめだてもするな(長歌)。男体山に雲が立ちのぼって時雨にすっかり濡れても私は帰ろうか 帰りはしない(短歌)》と言って このかがひという共同相聞歌のまつりに打ち興じるすがたを語っている。まるで 黄金時代であるかのようである。
これに対してわたしたちは ただちに理論的な判断をくだすことができる。一般に 万葉集の相聞歌は すでに機会あるごとに見たように 《S圏のまたはS者としての もっともわたくしなる領域》をうたって その観念の共同化としての共同相聞歌性を拒否する主体実践的な歌であった。

  • そして このいまの《鳴鹿を詠む》歌も この意味で 筑波嶺のかがひの歌のあとに対比させて置かれたものであろう。

そして現代の歌謡曲は アマテラス語によるかけ合い(かがひ)つまり そのような共同相聞歌の世界へと進んで来ていると思われる。したがって言いかえれば この筑波嶺の一見 あざやかに明るいかがひの歌は むしろ 初期国家成立の以前の 前古代市民的な一般の対関係のかたちを残存させて詠んだものなのであろう。つまりこれは いまだ古代市民=《原型的なA‐S連関》主体の確立のあいまいな情況にあって だからアマテラス語がいまだ成立しない段階の 共同相聞歌のかたちを歌ったものなのであろう。
そこでは いまだ個体としての市民は 現われていない。
《人妻と吾妻》との境界が 明確に主体的に 観想されざる情況での 共同相聞歌である。だから東国は 《あづま》――この人も あの人も あづま――なのだと言うというのは しゃれにしか過ぎないが ともあれ まつりの日・《今日だけは》とした上で そのような初期インタムライスムの時代の人びとの関係が 現われるという場面なのであろう。したがって この人麻呂の作と言われる鳴鹿を詠む歌は いささか道徳的に これを批判している。
しかし 考えてみれば この初期インタムライストたちのかがひという共同相聞歌の世界は あるいは江戸時代のわが国にまで 存続したとも見られる幸福な社会のありようを映している。それは 幸福であるゆえに 動物的に幸福であるゆえに この長歌一編で《足日木之 山彦全動 呼立哭毛》と詠んで そうっと スサノヲイスムの中のアマテラシテの喚起を待たねばならない歴史のやみの部分である。
これは 長歌形式の問題ではないが もし長歌形式がその後 おおむね衰退した 衰退して差し支えなかったとするなら やはり長歌形式の問題にも及んで来る。どういうことか。
おそらく 古代市民的な国家の一員としての古代市民である人の歌は 旋頭歌形式の上下の句々の応答 および 短歌形式の相聞によって これらへと 揚げられ成立したと考えられる。

  • 短歌形式とは 二つの和歌(こたふる歌)によるもの。相聞とは もちろん 男女間の対関係にかぎらない。つまりもともと広く市民二角関係のあいさつの歌である。

このとき 長歌形式は この過程における過渡的な形態であったと考えられる。過渡期という言い方はあまり好きではないが。
端的に考えて 長歌は 初期インタムライスムからナシオナリスムへの移行期のうたの形式 言いかえれば 新たな古代市民による旧い前古代市民への訣別のうたの形態である。このように考えられる。

  • だから 短歌形式 はては俳句形式が つねに より新しいと言おうとするのではない。

ともあれ 人麻呂長歌を考える上で最初に取り上げたこの巻九の歌は このことを暗示して われわれに伝えられて来ているように思われる。
したがって この線で まさしく 挽歌に長歌形式が多く見られるのは 時代としての旧新の交替を寓意するかのごとく 亡き人に対する・そしてそれは実は遺された人に対する 現在という時点の確認の歌であったと推理するのは 理にかなっている。わたしは 何もこの側面を強調しようとは思わないが ここでの論点は これを強調して明らかにすることになる。それでは 巻二の挽歌としての長歌形式に 移ろう。


ただちに あのもっとも長い歌を取り上げてみよう。

  • ただし その前に ここで 長歌形式という問題に対して 次のような概括的な理解を見通しておくことは 必要である。
  • 稲岡耕二編《別冊國文学#3 万葉集必携》(1979)から 簡単に次のような問題の整理をあらかじめ共有しておきたい。《万葉集研究史2 事項別》の中から 簡単に次のような理解が得られる。
  • 旋頭歌

・・・短歌形式の生成との関係でも問題となるところであるが いったい 旋頭歌という形式が歌謡的に普遍性をもって存在したか疑問でもある。旋頭歌形式の存在のしかたからみて 口誦から記載への過渡期の中で人麻呂によって試みられた一つの形式とも考えられる。

  • 口誦と記載

万葉歌を口誦との関わりにおいて捉えることは 伝誦歌や伝誦による変形を考えること等のかたちで成されてきたが それは多くの場合 創作歌に対しての視点であり 小島憲之〈“トガ野”の鹿と“ヲグラ”山の鹿〉〈万葉〉九号(昭和28・10)(《上代日本文学と中国文学 中》昭和39)の提起しているような口誦と記載の交錯する

  • これを われわれは 前古代市民から古代市民への移行と見るわけであるが

文学史的段階としての万葉歌(特に初期)の時代を捉えることがじゅうぶん明確にかつ有効に方法化されてきたとは必ずしもいいがたい。 

  • 短歌

短歌形式の生成を 片歌→旋頭歌→短歌というかたちで把握することは・・・有力な見方として定着している。しかし 旋頭歌という形式を一般的普遍的に存在したものと捉えられるかどうかなお疑問もあり 検討が進められる中であらためて問い直されるであろう。

文学的様式(歌体)としての長歌の成立と展開は 口誦から記載への文学史的転換を軸として把握されねばならない。
(以上 神野志隆光稿) 

等々。
ここでは――われわれのここでは―― 文学史的な解決を試みることからはほど遠い。ただ 方法としての人麻呂長歌が このような文学史的な問題とかかわりを持つことに触れておくまでである。
次に長歌を見る。
(つづく→2006-08-25 - caguirofie060825)