caguirofie

哲学いろいろ

#34

――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708

闋 空蝉の社会的解放――市民社会学の課題――

紫の上類型が 市民社会学の基調をなす主題であるとすれば 空蝉論は――すでに触れたように―― 市民社会学の第一の課題である。
また 《光源氏‐空蝉》連絡というように 一対の関係が 市民社会学の手段であり方法である。関係 しかも 実際の人間関係 これが必要不可欠である。学としての媒介 媒介としての学 そのためとして 空蝉論をあらためて掲げ このわれわれの原論を闋*1(おわ)ろうと思う。


浮舟( a boat upon the waters )の浮舟であること これは 自然史過程に任すほかにない。自然史過程またその方向の偏りに任せる。つまり 浮舟なる人の気が変わるのを待てばよい。突然変異に俟つ。
空蝉( the shell of the locust )の空蝉であること これには 学としての媒介の余地がある。言いかえれば 過程としての紫の上類型の方途に 介入してくるからである。この介入に対しては その火の粉を振り払わねばならないという緊急の必要からも 学が媒介する。
空蝉じしん 無限性を捉えている。悟りを得たと思っている。観念上の成就だと われわれは 見る。その限り かのじょ自身 紫の上類型に関与している。また 関与してくる。
つまり 対関係の実際のスサノヲイスムにのっとった成就形態であるこの紫の上類型に かのじょ空蝉は 自身が 関与しており それどころか その類型をも成就していると思っている。わたしは紫の上よ わたしが紫の上なのだわと深く思っている。そして――かのじょは つつしみ深く 謙虚であることを信条としており―― 少なくとも 自分ではない紫の上が 源氏の伴侶としてあることをも 概念的に・悟りとして 熟知している。出世間の方途を まがりなりにも(観念成就) 承知しているのだ。
この承知しているという点において かのじょは なにかと紫の上の周囲に来て 口を出す。このように関与してくるとき われわれは その介入に対して 対関係の自立的発展のために 過程的に 無媒介として媒介の労をとらなければいけない。
紫の上の過程的な現実化が 女性への批判 母性への敬愛の表明にあったことは 同時に 男性への批判 父性の復権の主張にもあると言い直すことができる。この後者の意味で 空蝉論は 紫の上の主題に相即的である。市民社会学の最終楽章は 予定にのっとって 空蝉を論じ続ける。


いったい 《敢えて賢かれ》という一つの学としての表明は この空蝉に対しては 通用しない。かのじょは 自らの内に出世間の悟りを宿すことにおいて すでに 《敢えて賢かる》存在である。学は ここで かのじょに対して 無媒介の媒介を――つまり 化学反応で言う触媒のごとく――敢行せざるを得ない。
一般に 空蝉の巻において かのじょは 《後日の源氏の接近に対しても 受領(伊予の介)の後妻という境遇をわきまえて拒みつづける。三度目の接近には 小袿(うちぎ)を脱ぎすべらして隠れ 憧れをおしころす》(鈴木日出男)と 要約される。この《小袿を脱ぎすべらして隠れ 憧れをおしころす》ことが 《敢えて賢く 出世間の――実は 観念的な――成就に身を置く》ことであり 空蝉の空蝉たる所以である。そのようにしても 紫の上類型に――考え方の上で・思想的には――関与し介入し始めている。
これは しかも 《出世間》の先取りといった形式である。このとき この女性への批判は あたらない。実際 それは《自らの境涯をわきまえた自己抑制の精神》であるにほかならない。つねに そのようにブッダの境涯を 自らの姿で示そうとしている。と同時に それとともに この母性への敬愛の表明も 達し得ない一形式が 形作られている。
もし 対関係が市民社会のかまどであるとすれば かのじょは まずこの対関係の形成をもって出発すべきであった。ともかく なんらかの とにかく 両性の合意を基にした信頼関係 そのような一つの対関係の形成を果たすべきであった。のに それを経ずに 一挙に 市民社会の出世間形態(ブッダの境涯)へと飛躍する。
これに対しては――すでに触れていたような――《空蝉の思惟に対する源氏の不可知的 あるいは関与不能のありよう》といった男性批判そして父性の復権の表明がある。自己抑制の精神に満ちた空蝉であるにもかかわらず 源氏は なんとしたことかと。まず これは 実は そのような男性批判も 空語に終わらざるを得ないような自足形式が すでに女の側で熟していると考えるべきである。われわれの学は まず こう主張する。《不可知》であってよく 《関与不能》であって何の心配も要らない。つまり 関与し得ないという関与のあり方において 実際に 関与しているのであり むしろそのようにしか 関与できないというのが われわれのやはり主張である。

  • われわれの悪魔の声は こう言っていた。この自己抑制の精神 つつましやかさを蹴破ってやってきて欲しい こう空蝉は訴えているのだと。自分から ブッダの境涯を裏切ることは出来ない ゆえに 狼よ おまえから 破りなさいと。もしそうなら 観念のブッダの成就である。蜃気楼閣である。


この自足形式から しかし 愛を紡いで蜘蛛の巣を張って 現実の出世間を果たそうとするのは 明石の入道であった。空蝉は この明石の入道類型を追わない。その父の死後において その娘・明石の君のごとく 父の遺志を守ることもない。ここでは やや短絡的に 男女両性の本質的な世間(差別)といったことの指摘も有効であろう。男と女の社会的なあり方や情況に関して 互いのあいだに やはり差別があるように考えられる。少し脱線しよう。
このような両性のむしろ本質的な差別については コリント人への第一の手紙(パウロ)の一節を引いて すでに述べた。クリスチア二スムの系譜の市民社会学として すでに捉えた。この系譜が 市民社会学として なお その差別形態に 関与しうると見るのは たとえばアウグスティヌスによって 次のようである。

特に使徒パウロ)は 

男は神の似像であり 栄光であるから 頭に蔽いを被ってはならない。しかし女は男の栄光である。(コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)11:7)

と・・・語っている。・・・女はその男と共に人間のこの実体全体が一つの似像となるように神の似像である。しかし女はかのじょ自身だけの場合 男の助け手として考えられるから 神の似像ではない。ところが男は自分自身だけで 女と結合して一つのものになったときと同じように 十全かつ完全な神の似像である。・・・
それは 全体として真理を観想するゆえに神の似像である。・・・精神は永遠なものを志向すればするだけ 神の似像によって形成されるのであるから 自己を節制し 抑制するように引きとめられるべきではない。したがって 男は頭に蔽いを被ってはならないのである。
しかし物体的・時間的な事物に巻き込まれるあの理性的な行為にとって より低いものへ余りに突き進むのは危険である。だから それは頭の上に抑制されるべきものを意味表示する蔽いを示す権能を持たなければならない。・・・

  • そうとう顰蹙やら批判やらを買う言説を引用しているのだが だからこそ もう少し文脈を広く引用しておきたい。

だから 私たちが私たちの精神の霊において新たにされ 創造主の似像にしたがって神の知識において新しくされる新しい人であるなら 疑いなく 人間は身体によってではなく 心の或る部分によってでもなく そこに神の知識が存在し得る理性的な精神によって 創造主の似像にしたがって造られたのである。
この更新によって 私たちはキリストのバプテスマをとおして神の子らとされ 新しき人を着つつ たしかにキリストを信仰をとおして着るのである。だから 私たちと共に恵みの共同相続人であるとき 誰が女をこの共同から遠ざけるであろうか。・・・
女は身体の性によって男と異なっているから その身体の蔽いによって宗教的な典礼で 時間的なものを管理するため下に向けられる理性のあの部分を象徴し得たのである。そのため 人間の精神がその部分から永遠の理性に固着し それを直視し それに訊ねることをしないなら 神の似像は留まらない。この精神は男のみならず女も持つことは明らかである。
アウグスティヌスアウグスティヌス三位一体論 第十巻第七章〔九〜十二〕)

ひと言で言って 時間的なものは――市民社会学にとって―― 対関係の形成において 発進すると言う。しかも その《時間的なものの管理》は 女性(母性)が担うとの指摘である。この対関係において 両性が互いに《新しき人を着る》ということは 《観念の資本》の創造である。うたをうたうことである。この観念の資本が――紫の上類型を一つの萌芽として―― 西欧的にしろアジア的にしろ 資本主義の生成・確立・発展・崩壊・揚棄の過程において はじめて その十全なひろがりを見せて 姿を現わすことになる。
この過程が 実に長い歴史的営為を経て 形成されようとすること また逆に それは 高々二千年という・人類の歴史から見てほんの少時にしかすぎないということ これを思うべきである。光源氏類型の現代は およそこのような《 East and West meet. 》といった局面を表わすもののように思われる。
空蝉が もし《出世間――真理の観想》を先取りする一女性であったとすれば かのじょは 《時間的なものを管理するため下に向けられる理性のあの部分を象徴し得》ない一形式の中におさまった存在なのではないか。
これは 明らかに 二人の男の内どちらとの対関係において時間的なものを管理するかに 根源的に 惑う浮舟とは 異質の存在形式である。浮舟の非は 匂宮および薫のそれぞれ非であって しかも誰の非でもない。それは 時代の非であり 《観念の資本》主義一辺倒体制の限界性を――紫式部じしんが――暗示させており しかも暗示させるのみである。
空蝉の思惟に対する源氏の不可知 これは 誰の非でも 時代の非でも ない。わづかに 空蝉が かのじょ自身 そのことを望んだにすぎない。そこに 現実の《出世間》が存在しないとするなら それは 空蝉じしんの非である。
《出世間の概念――創造主の似像》に 対関係を通じてでなく 自ら《無媒介に身をゆだねようとし 一度 逆立ちして歩いてみようと企て》た結果にすぎないからである。それは 逆立ちした紫の上類型である。ちいさな逆立ちが 一日ごとに日を経るにしたがって やがて おおきな非となっていくと 実はわれわれは 言おうとしている。
この類型は 《観念の資本‐資本(社会資本)》体制においても――つまりキャピタリスムの時代になっても――なお 存続しうるものであり どの時代が来ても 生まれようとするかのものである。もしそうであるとすれば 市民社会学は つねに これが社会的解放を 第一の課題としていなければならない。なぜなら この空蝉形式こそが 過程としての紫の上類型の一階梯にほかならないとも言わねばならないからである。
空蝉の社会的解放こそが 社会の空蝉からの解放である――逆立ちした紫の上からの解放である――と言わねばならないからである。

  • 必ずしも 理論的に空蝉を 批判しておらず それどころか まだまだ その定義さえも 弱いところがある。ただ これこそは 感覚の問題だとも言いたい。何も言説としては 空蝉類型は 証拠を残さない。

(つづく→2006-08-12 - caguirofie060812)

*1:闋:[ケツ / おわる・いこう]門がまえに 葵の草冠を除いた部分を書く。