caguirofie

哲学いろいろ

#35

――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708

闋 空蝉の社会的解放――市民社会学の課題――

マルクス共産主義と粗野な共産主義とを対置して 後者を批判したとき その後者が 《出世間を先取りした空蝉形式(そういうイデア)》を表わしていないか。
すなわち 次の引用文の中では 《私有財産》と規定されたものを 《私的に領有された観念の資本(紫の上のうた)――だから 空しい涙をもって献げられた富の私的領有――》と読むべきである。

私有財産にたいして普遍的な私有財産を対置しようとするこの運動(つまり 粗野な共産主義)は 結婚(それは たしかに 排他的な私有財産の一形態である)にたいして 女性共有が したがって女性が共同体的な共通の財産になるところの女性共有が 対置されるという動物的な形態でみづからを告白する。
女性共有というこの思想こそ まだまったく粗野で無思想なこの共産主義告白された秘密だ といえよう。女性が結婚から普遍的な売淫へとすすむように 富の全世界 すなわち人間の対象的本質の全世界は 私的所有者との排他的な結婚の関係から 共同社会との普遍的な売淫の関係へとすすむのである。
この共産主義は――人間の人格性をいたるところで否定するのだから――まさにこうした(人格性の)否定である私有財産の徹底した表現であるにすぎない。普遍的な また力として組織されている妬みこそ 所有欲がそこで再生され そしてそれがただ別の仕方で満足させられている隠された形態にほかならない。
このようなものとしての一切の私有財産の思想は 少なくとも より富裕な私有財産に対しては 妬みと均分化の要求として立ちむかうのであって その結果 それらは競争の本質をさえかたちづくることになる。粗野な共産主義者は 頭のなかで考えた最低限から出発して こうした妬みやこうした均分化を完成したものにすぎない。
マルクス経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2) 私有財産共産主義

空蝉が いかに 《自己抑制の精神》から遠いものであるかを考えるべきである。
臣籍に降下したものの・れっきとした帝の皇子であり《観念の資本》体制の一員である光源氏に対して――《私有財産にたいして》―― 《自己の境涯をわきまえて自己抑制する》というそのことによって 《観念の資本》の普遍性を――そのような出世間・悟りを―― 対置しようとする(《普遍的な私有財産を対置しようとする》)。たとえば《国家的所有》としてというように 普遍的な私有財産を対置しょうとする運動は 紫の上(あるいは 葵の上)類型に対して(つまり《結婚に対して》) 後の六条院邸の構図が(つまり 《女性共有》が) 対置されるという動物的な形態でみづからを告白する。空蝉は 源氏によって引きとられ二条院のほうだが に住むことになるのだから。
けれども 共同観念社会においては 女性共有の思想は 空蝉の側からの男性共有の思想にほかならない。これは 揚棄されるべき紫の上類型という理念の まったく粗野で無思想なその告白された秘密なのである。

――いとかく うき身の程の定まらぬ ありしながらの身にて かかる御心ばへを見ましかば 《あるまじき我頼みにて 見直し給ふ後瀬もや》とも 思ひ給へ慰めましを。いとかう 仮なる浮寝の程を 思ひ侍るに たぐひなく思ひ給へ惑はるるなり。よし 今は 《見き》と なかけそ。(帚木)


「とてもこのような情けない身の運命が定まらない、昔のままのわが身で、このようなお気持ちを頂戴したのならば、とんでもない身勝手な希望ですが、愛していただける時もあろうかと存じて慰めましょうに、とてもこのような、一時の仮寝のことを思いますと、どうしようもなく心惑いされてならないのです。たとえ、こうとなりましても、逢ったと言わないで下さいまし」(渋谷栄一訳)

《普遍的な また力として組織されている妬みこそ》 すなわち ただの好色者として通っているという共同観念からそのままおこなう空蝉の源氏批評こそ 《所有欲がそこで満足させられている隠された形態にほかならない》。すなわち源氏に対する大方の《うたがひ》そのものの私的な収奪によって 所有欲もしくは愛欲が再生され そしてそれがただ別の仕方で満足させられるというのである。
《このようなものとしての一切の私有財産の思想は――共同観念の認識および先取りの思想は―― 少なくとも より富裕な私有財産に対しては 妬みと均分化の要求として立ちむかうのであ》る。《より富裕な私有財産に対しては・・・》とは 共同観念を前提とした身分関係の上位の存在に対しては 妬みと均分化の要求として現われると言う。
だから 継子・軒端の荻を源氏に譲ったのは そうとも取れるのは 空蝉のこの《均分化――粗野なコミュ二スム――の要求》を みづから 観念の資本家であるかのように振る舞って 実践したのであるかも知れない。
そうであって 《その結果 それらは競争の本質――観念の土地の獲得競争――をさえかたちづくることになる》。共同観念体制のもとで 権力秩序に従って 観念の土地を獲得すれば なにがしかの社会的なところを得るということである。《粗野なコミュニスト――観念の出世間主体の慈悲にあふれる菩薩道――は 頭のなかで考えた最低限から出発して こうした妬みやこうした均分化を完成したものにすぎない》。自己抑制の精神が 自分の継子を源氏に差し出したのである。均分化という慈悲のおこないなのだろうか。逆に紫の上が 六条院の四季の町における女性共有ないしそういった均分化に結局は 抗していたことは 象徴的な事態であろう。

  • なお マルクス経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)》に限らないが 一般に西欧の芸術体系は 日本語なら日本語に訳してしまうと 基本的な概念を あらかじめ規定した上でも なおかつ 日本語の体系(枠組み)に移し変えられて読まれざるを得ない。だから むしろ 概念を変えて 上のように読んだのだが そのことは別としても 訳文じたいが 全体として 別の一個の芸術品となりがちなような気がする。その点 ここでは西欧の原典の訳文の引用は 日本文としてその伝えるところを解することを 主要とするとはっきり断わっておくべきかと思う。はっきりと別の文脈で解釈していると 念のために添える。


ともあれ きわめて荒削りながら 原論として述べるべき点は ひととおり述べえたと考える。もう一・二節 引用をもって締めくくろうと思う。
ヘーゲル精神現象学上 (平凡社ライブラリー)》の中の序論は 名文であって 現代にあっては わづかに この名文の指し示す地点から 社会的に外へと目を向けさせられるという点を 付け加えるのみであると考えられる。紫の上類型が(もしくは 藤壺類型も) そこで 学として分析されていないとは言えない。

一方では 新しい世界の最初の現われは まだやっと その単純性に包まれた全体 もしくはその全体の普遍的基礎であるにすぎない。が他方では これまでの生存の富は 意識からみれば まだ想い出のなかで生きているにすぎない。

  • 紫の上ないし藤壺の対関係類型が 新しい世界の現われである。

だから意識は 新しく現われてくる形態に接すると 内容が拡がり特殊化していないのを嘆く。更にそれ以上に 形式がすっかり出来上がっていないため 区別がしっかりと規定されていないし 秩序を与えられてしっかりした関係をとっていないと歎く。
形式がすっかり出来上がっていなければ 学は一般的なわかりやすさを欠くことになり わずかの個人の秘教的な所有物であるかのように思われる。というのは 学がまだやっとその概念のうちに現存し 或はその内なるものが現存しているにすぎないから 秘教的所有物と言ったのである。

  • のちに触れるように 最初は 特に藤壺類型のごとく 人に知られず 密教圏から出発するのである。

また その現われが充分に展開されていないため 学の現存が個人的なものとなっているので 二三の個人と言ったのである。完全に規定されたものであって初めて 公開的なものであり 概念把握されうるのであると同時に 学ばれて すべての人々の所有物となり得るのである。学がわかり易い(悟性的な)形式をもつことは すべての人々に差し出され すべての人々にとって等しいものとされた学への途である。・・・
精神現象学上 (平凡社ライブラリー)

すなわち ここでは 初めは わづかに 源氏と藤壺とのあいだに密教圏を形成して始まった対関係が――すなわち 《秘教的な所有物》が―― やがて 政治的な形式を容れたスサノヲ類型へと革まることによって おのれを顕教として実現する。《公開的なもの》となり 《概念把握されうるもの》となっていく。こういった特殊性の発展の方程式を引き出すことができるのだが それとともに 特殊性よりも じつは より活発な過程としての個別性だるところの紫の上類型(または 個別的ゆえに 非類型と言ったほうがよいかも知れない)を この一文全体が 示唆しているように思われる。
個別性は 何らかのジャンルにおける普遍性とつながってあるとき――つまり 《私有財産 ないし 観念の資本の私的領有》の普遍性とでなく 素朴単純に 家族形態の普遍性とつながってあるとき――それは 過程として現われ 過程としてしか存在しないものであるにかかわらず 実は 初めに 全体である。その個別性が――もし ブッディスムにのっとるならば―― すでに初めに 全体である。ブッダの境地である。もしくは表現を変えるなら すでに初めに 終末( 'εσχατος・目的)を積極的に持つとさえ言ったほうがよい。(つまり 《終末》は そのまま 原理=初め であるだろう。)
むしろ 《紫の上》( madame murasaki ---- mura 〔都市〕が 国家よりも  saki 〔先〕) この類型は――手放しでこれを顕揚するのだが―― はじめに 特殊性の自立的発展の一形式を担う藤壺類型をも自らの内に容れた単位的な対関係であることを宿世づけられていたと言ったほうがよい。単位的な対関係とは 市民社会(やしろ)の《かまど der Herd 》であることを意味する。かまどからこそ 直接には藤壺類型に特有の革命性も 現出すると 総合的には 考えたほうがよい。そのように むろん作者・紫式部によってだが 予定されていたとも考えられる。
そこで 文学は 物語の系譜として この《紫の上》を 《すべての人々の所有物となり得る》ように ふたたび出発すべきであるとなる。市民社会学は――その固有のジャンル・都市自治行政としての経営学でなければならないものの―― 原論としては 一方で この文学への媒介となるべき表現行為であるもののように考えられる。他方 政治経済学とて この《紫の上》・家族の概念が その目的のおおきな大前提であることに変わりはない。等々。
最後に得られたものは きわめて青い認識の表明となってしまったが 源氏物語を顕揚し 観念の資本についていくらかを述べようと努めた市民社会学への一つの試みを 終えることにする。
(完)