caguirofie

哲学いろいろ

#30

――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708

章三補 《光源氏‐明石の君》なる対関係――観念の資本の《世間(差別)》形態――

供の良清と源氏との会話を次に引こう。――

――近き所には 播磨の明石の浦こそ なほ 殊に侍れ。何の いたり深き隈はなけれど ただ 海の面を見わたしたるほどなむ あやしく 異所に似ず。ゆほびかなる所に侍る。かの国の前の守 新発意の 女(むすめ)かしづきたる家 いと いたしかし。 The house of the former governor ---- he took his vows not long ago, and he worries a great deal about his only daughter ---- the house is rather splendid.〔守は〕大臣の後(のち)にて 〔世に〕いでたちもすべかりける人の 世のひがものにて 〔宮中に〕まじらひもせず 近衛の中将を捨てて 〔自分より〕申し給はれりける司なれど 〔播磨=〕かの国の人にも すこしあなづられて 《何の面目にてか 又 都にも帰らむ》と いひて 頭もおろし侍りにける。 He is the son or grandson of a minister and should have made his mark in the world, but he is an odd sort of man who does not get along well with people. He resigned his guards commission and asked for the Harima post. But unfortunately the people of the province do not seem to have taken him quite seriously. Not wanting to go back to the city a failure, he became a monk.を すこし奥まりたる山住みもせで さる海づらに出でゐたる ひがひがしきやうなれど げに 〔播磨=〕かの国の中に さも 人の籠り居ぬべき所々はありながら 深き里は 人離れ心すごく 若き妻子の 思ひ侘びぬべきにより かつは 〔守は〕心をやれる住まひになむ侍る。
   〔私は〕さいつころ 〔播磨に〕まかり下りて侍りしかば 〔入道は〕京にてこそ 所得ぬやうなりけれ 〔明石には〕そこら遥かに いかめしう しめて造れるさま さはいへど 国の司にて し置きけることなれば 残りの齢ゆたかに経べき心がまへも 二なくしたりけり。後の世の勤めも いとよくして 〔入道は〕なかなか 法師まさりしたる人になむ 侍りける。
と 申せば
――さて 〔入道の=〕その女(むすめ)は
と 〔源氏は〕問ひ給ふ。
――けしうはあらず かたち・心ばせなど 侍るなり。Pretty and pleasant enough. 代々の〔播磨=〕国の司など 用意ことにして 〔入道に〕さる心ばへ見すなれど 〔入道は〕更にうけひかず 《わが身の かく いたづらに沈めるだにあるを 〔我が子は〕この人一人(ひとり)にこそあなれ 〔娘の出世を〕おもふさま 殊なり。 He may have ended up an insignificant provincial governor himself, he says, but he has other plans for her. 〔娘が〕もし われに後れて その心ざしとげず この 〔私が〕おもひおきつる宿世たがはば 海に入りね》と 〔入道は〕つねに 遺言しおきて侍るなる。 He is always giving her last instructions . If he dies with his grand ambitions unrealized she is to leap into the sea.
と 聞ゆれば 〔源氏=〕君も 《をかし》と聞き給ふ。〔供の〕人々 《海龍王の后になるべき 〔入道の〕いつき女(むすめ)ななり》 《心だかさ 苦しや》とて 笑ふ。《 A cloistered maiden, reserved for the king of the sea 》 laughed one of his men. 《 A very extravagant ambition. 》
(若紫――明石入道の女の話のくだり)

長い引用となったが この明石入道の《心だかさ》については まず あの《〈親のおきてに違へり〉と 思ひ嘆きて 心ゆかぬやうになん〔過ごす〕》という空蝉が 想い出されもする。問題は それほど違わないようである。また 《〈をかし〉と聞き給ふ。 Genji smiled. 》ところの源氏じしんの問題であるかも知れぬ。
市民社会の単位的な対関係――だから 幾何学的体系における生産・所有の主体――である家族が 繊細な共同観念網の中へ なおも蜘蛛の巣を張って 公的な――実は 私的な――二項・三項関係を形作っていこうという動きである。
源氏は 自らは この蜘蛛の糸をつむがない。わづかに《をかし》と思って この蜘蛛の巣を 内に引き入れそれを切り結ぼうとする。源氏じしんは 半ば無意識である。そんな市民として 作者は 終始 描いている。
ちなみに この市民社会学の視点 これが 作者にこの物語を書かせたすべてであると思う。市民社会が うたの構造を呈するものであるから その学は 《物語》なのである。

  • なお 《物語》学を訴える向きもあるが それは 市民社会学学であって 観念のスサノヲ・キャピタリスト社会学でしかない。
  • われわれは 明示的に 藤井貞和源氏物語の始原と現在》(ほかに源氏物語論など)を その代表に挙げて 間接的批判としての市民社会学を継がねばならない。藤井は 紫式部の描いた物語の仮象世界に分け入って そこから こちら(あるいは 紫式部)に向かって 言葉を投げかける。仮象世界における繊細の精神・共同観念が 現実性を 直接持つものであるとき かれの主張は 成功している。(たとえば 11.結婚とタブー。)仮象世界における繊細の精神の《我がはからい》による繊細性(蜘蛛の糸)にのっとるとき かれの主張は 堂々巡りに陥る(9.王権・救済・沈黙 また 10.《思ひ依らぬ隈な》き薫。)

すでに 明石入道によって紡がれた蜘蛛の糸にまきこまれる素地を 若くして作られてしまった源氏は それが 八年後 仕合わせにも 実現する。

明石の入道 行ひ勤めたるさま いみじう思ひすましたるを ただ この女(むすめ)ひとりを 〔幸せをと〕もてわづらひたる気色 いとかたはらいたきまで 時々 〔源氏に〕もらし憂へきこゆ。〔源氏の〕御心地にも 《をかし》と 聞きおき給ひし人なれば 〔源氏が〕かく おぼえなくて 〔明石=娘のところに〕めぐりおはしたるも 《さるべき 〔前世の〕ちぎりあるにや》と 〔源氏は〕おぼしながら なほ・・・〔明石の娘に〕けしきだち給ふ事なし。
(明石――明石入道の焦燥のくだり)

明石の入道の 論理(企業活動)は 次のごとく つむがれる。ある夕月夜 源氏が琴を弾き 入道が 琵琶・筝の琴にて 応じるとき

――〔筝=〕これは 女(をんな)の なつかしきさまにて しどけなう弾きたるこそ をかしけれ。
と 大方にのたまふ。said Genji, as if with mothing specific in mind. 入道は 〔娘のことかと〕あいなくうみ笑みて The old man smiled.
――〔御身が〕あそばすより懐かしきさまなるは いづこのか侍らむ。And where, sir, is one likely to find a gentler, more refined musician than yourself ? なにがしが 延喜の御手より弾き伝へたる事 三代になむなり侍りぬるを 〔私は〕かう 〔運の〕つたなき身にて この世の事は 捨て忘れ侍りぬるを 物の 切にいぶせき折々は 〔私が〕かき鳴らし侍りしを あやしう まねぶ者(=娘)の侍るこそ 自然(じねん)に かの 前大王の御手に通ひて侍れ。山伏のひが耳に 松風を 〔娘の琴の音と〕ききわたし侍るにやあらむ。いかで 〔御身に〕しのびて 〔娘の琴=〕これ きこしめさせてしがな。 On the koto I am in the third generation from the emperor Daigo. I have left the great world for the rustic surroundings in which you have found me, and sometimes when I habe taken more gloomy than usual I have taken out a koto and picked away at it; and, curiously, there has been someone who has imitated me. Her playing has come quite naturally to resemble my master's. Or perhaps it has only seemed so to the degenerate ear of the mountain monk who has only the pine winds for company. I wonder if it might be possible to let you hear a strain, in the greatest secrecy of course.
(明石――入道 琵琶を奏し 源氏を婿にと約すくだり)

言わば この約定に従って 明石の君との対関係は 現実に 発進する。ここでは 源氏は かれが 自らの存在の一方の本質である・罪なき人スサノヲ性を 否定しようとするが故に 罪を内に止揚することになる出世間者(アマテラス=)スサノヲに転化する過程にあることにおいて けだかき聖性を帯びる人物として現われる。逆に言えば おぞましき唯我独尊の位置にある者として現われる。
よくも悪くも これ 密教圏の顕教化――現世内の成道――の一瞬である。
紫式部は はじめにそういう人物として設定した方程式にのっとって それを仮象として描くのみである。理想の男性像であるか否かの問題ではない。事は 市民社会の歴史法則にかかわる。蜘蛛の巣のなおその底に 静かに流れるその《かまど das Bedürfnis der bürgerlichen Gesellschaft 》にかかわる。
主人公たちは つねに この仮象の世界に動いているのであって かれらが現実性を持つのは わづかに この作者の執筆の視点の現実性いかんによると思われる。

  • なお 前言と逆のかたちとなるが この点に触れて 藤井貞和には 次のような指摘がある。有効である。

主人公たちは それぞれ相対的に自立の方向を歩むことによってばらばらにさせられているが ――つまり物語的世界は解体の一方をつっぱしらざるをえないが それにもかかわらず源氏物語の持続がかろうじてなされているとすれば 主人公たちのひとりびとりが 見られている存在になることによって 否定的に相関関係を保つしかない。
しかし 主人公同士が厳密に相互に見られている存在になりきることはできない。もしそのようになりきることができるとすれば 作者そのひとが不用となってしまうからである。作者は不透明性のかげになって主人公たちにつきまとう。互いに見られる存在になりきることが厳密にはありえないとすれば かれらを見る視点は 主人公たちの人間を超えたなにものかであるだろう。
藤井貞和源氏物語の始原と現在》8. 光源氏物語主題論 三)

  • これは ちがう角度から 同じ地点に到達した一つの結論的視点をなすだろう。
  • なお 共同主観の立ち場に拠る場合には ナザレのイエスなる人物像のばあいを別として 一般に《人間を超えたなにものか》によって 市民社会の歴史法則が 暗示される。もしくは 時に 明示される。
  • ブッディスム圏と言ってもよいと思うがその地域においては 原理的に=初めに ブッダならブッダという人物像として それが描かれ共有されているだろう。(この視点は M.ウェーバーの《倫理的預言 etische Prophetie 》と 《模範予言 exemplarische Prophetie 》の概念が 参照される。)

(つづく→2006-08-08 - caguirofie060808)