#32
――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708
章四 《光源氏‐紫の上》なる対関係――家族:《観念の資本》の核(かまど)――
紫の上
式部卿宮の娘 藤壺の姪。
幼時に実母(按察大納言の娘)と死別 祖母(北山の尼君)に養われていた。北山でこれを偶然かいまみた源氏に異様な愛執を抱かせた。密かに慕う藤壺の面影を宿していたからである。〔という。〕
尼君の死後 自邸二条院に迎え入れた。明るく 稚純な性格は 藤壺への禁断の恋の苦悶を慰め 逆にまた藤壺への思慕を不断にかきたてる。〔若紫(巻五)〜花宴(八)〕。
新枕を交わしてからは実質的には源氏の正妻格となる。その幸運が世人に羨望されるのを 継母(式部卿宮の大北の方)だけは嫉妬して憎んだ。〔葵(九)〜賢木(さかき・十)〕。
もとより紫の上の造型の基盤には 継子が非運を逆転させる継子物語の鋳型があるらしい。源氏の須磨退居には 一切の財産管理を委任され留守を守りぬく。〔須磨(十二)〕。
明石の君の存在に嫉妬するが 姫君の養育を快諾 その愛らしさに母親への嫉妬心も薄れた。〔澪標(十四)・松風(十八)・薄雲(十九)〕。
また朝顔の姫君の存在にも悩むが 杞憂と知って安堵。藤壺亡き後の源氏には 絶対的な美質の女君として思いなおされる。〔槿(あさがお・二十)〕。
六条院完成後 源氏とともに東南の春の町に移る。〔少女(二十一)〕。
後年 源氏の正妻として女三の宮が降嫁。至福の人生に にわかに苦悩の影がしのびよってくる。それは源氏への恨みでもなければ 女三の宮への嫉妬でもなく 自らの苛酷な運命への痛恨であった。世間の物笑いにはなるまいと苦衷をおし隠して平静を装う。ここに精神と処世の態度とを区別して生きる新たな人生が開始される。女御の養育者として源氏からも明石の君からも深く感謝された。〔若菜・上(三十四)〕。
また六条院の女楽では抜群の印象を与え 源氏の情愛はいやますばかりである。しかし内心寂寥の紫の上には年ごとに出家の志が強まる。源氏は自らの孤独を恐れて 決してこれを許さない。女楽の後 突然発病 一時は危篤に陥る。ようやく蘇生するが その後も病気がち。源氏が出家を許さぬのを不満としながらも 自分の出家後に残される源氏の孤独を想像して納得もする。〔若菜・下(三十五)〕。
衰弱も癒えることなく死を予感 万事につけて感慨に沈む。源氏・明石中宮と歌を唱和した未明 四十三歳の生涯を閉じた。〔御法(みのり・四十)〕。
薄幸の少女であった紫の上が 源氏の特異な人生に深く組み込まれることによってのみ 無上の栄華に浴しえた。しかし それとさしかえに 苛酷なまでの憂愁に堪えねばならなかった。晩年の述懐に 苦悩こそわが生きる支えであった ともある。
(鈴木日出男:《源氏物語人物一覧》 前掲《源氏物語必携 別冊国文学№1》)
この簡潔なまとめによって 紫の上の生涯の概観を得ることができる。
われわれに残された作業は わづかに このあらましを 源氏との対関係の過程として 殊にその起伏となる階梯などを捉え合わせ これまでに行なってきた議論を あらためて捉え返すことにあるだろう。
もっとも 紫の上の存在は 市民的特殊性で 確かに あるものの またこのように華々しい過程を有するものであるものの 概念類型によっては捉え難い特殊性である。言いかえれば それだけ かのじょは 日常性領域として本来の活発な過程の中にいる。紫の上との対関係は 藤壺とのそれとは違った意味で 第一義的に 活発なのである。類型を強いて捉えるなら それは 一つの家族形式として変転推移するというものである。ただし この時は 一夫多婦もしくは 一婦多夫の形態が 許容されている。
紫の上には 子はなかった。たとえば 明石の君の姫君・のちの明石の中宮は 紫の上にとって はじめは嫉妬を伴ないながらの 一人の養女であった。源氏の須磨流謫に際しては――今日の一般家庭におけると同じように――その後事のすべてが 託された。朝顔の宮(桐壺院の弟・桃園式部卿宮の娘)と源氏との一件が落着したのち 六条院の完成とともに その邸の主宰である源氏の正妻格として あらためて 自立する。
- 六条院は 故六条御息所(かのじょは 源氏の愛人であって 物の怪の主となったと描かれている)の旧邸を修理して 四町におよぶ壮大な邸宅として造成された。春夏秋冬に区画され 東南・春の町には 光源氏と紫の上が住み 東北・夏の町には 花散里 西南・秋の町には 秋好(あきこのむ)中宮 西北・冬の町には 明石の君が それぞれ住んだ。花散里は ここでは 未出。桐壺帝の麗楽殿女御の妹。秋好中宮は 冷泉帝の中宮。故六条御息所の遺女である。――光源氏の権勢家としての時代に属す。
紫の上のひとりの女としての人生は しかし 光源氏の妻室として安定した栄えを見せた反面で 必ずしもそこに《寂寥・憂愁》がないものであるわけではなかった。源氏との対関係が 互いの人格の一体性として送られたと言い切ることは難しい。それは 源氏が 朝顔の宮に対して なおも例によって 懸想する事件をめぐって もっともよく現われている。
このばあい 事件じたいは必ずしも発展性のあるものでなかったが そしてむしろ――はじめの人物概観に見たように――これを契機に源氏の紫の上への心情は 好転し 紫の上は あらためて その対関係の内外で 自立しえたことになるのであるが ただ 前々からの一種の歪みは やはり尾を引いて たとえば かたちとして 上に見たような権勢家・光源氏の六条院生活の構図に 端的に表わされていくと見てよい。《うちつけの好きずきしさ》とアマテラス圏の保守のための政治的行為との中から 倫理などそっちのけで 何でもありと社会と化す。
そして この点を指摘することによって 物語の紫の上に関する叙述じたいは むしろ割愛したほうがよい。言いかえれば 紫の上の活発な出世間過程を描く物語の文学性 これは 作品全体の中にのみある。
市民社会学としては このような本来の芸術としての物語を鑑賞する視点を離れては 関心がない。言いかえれば だから 類型概念といった抽象の手続きを介さない《うたの構造》じたいの動態 これらは はじめから視野に入っていない。視野に入っているが それじたいを考察の対象としていない。逆に もし自己批評がゆるされるとするならば ここでは このような第一次性(市民スサノヲの活発さ)をけなすことによって それを顕揚してきたことになるかも知れない。
それにしても 光源氏とともに 長く人生をともに過ごすのは この紫の上ただ一人である。やがて かのじょは 六条院の生活秩序が整うにつれ しかし病にかかり 源氏に 自身の出家を乞う。しかしそのときも 源氏は
それはしも あるまじきことになん。さて 〔御身が〕かけ離れ給ひなん世に 〔私が一人〕のこりては 何のかひかあらん。・・・
と答えるばかりであった。しかも同時に かのじょには 出家を望む心がある。もしこのくだりのみ本文を引用するとすれば 源氏四十七歳 紫の上三十九(地の文では 重厄年の三十七)歳のとき 二人のあいだには 次のような会話がやり取りされる。
――〔私=〕みづからは 幼くより 人に異なるさまにて ことごとしく生ひ出でて 今の 世のおぼえ・有様 来し方に たぐひ少なくなんありける。されど 又 世にすぐれて 悲しき目を見るかたにも 人には まさりけりかし。・・・《〔紫の上=〕君の御身には かの 〔須磨への〕ひとふしの別れより あなたこなた 物思ひとて 心乱り給ふばかりのことあらじ》となん思ふ。・・・親の窓の内ながら 〔私の許に〕すぐし給へるやうなる 心安きことなし。
わが人生を無類と思うが その代償として不幸の経験も無類であった。それに対して あなたは須磨の別れのほかは 親の家にいるように安定したものであった。そのようにわたしはあなたを守りとおした。(秋山虔訳)
(若菜下――源氏と紫の上との談話のくだり)
源氏が こう語りかけるのに対し 紫の上は答える。
――のたまふやうに 〔私の〕はかなき身には 過ぎにたる よその思えはあらめど 心に堪へぬ物嘆かしさのみ うち添ふや さは 〔私=〕みづからの祈りなりける。You are right, of course. I do not much matter, and it must seem to most people that I have been more fortunate than I deserve. And that my unhappiness should sometimes have seemed almost too musch for me ---- perhaps that is the prayer that has sustained me.
(若菜下――承前)
また 紫の上は はっきりと対関係のこのような断絶を伴なった侶伴としてあったことは 事実である。したがって 六条院の生活構図に代表されるような家族形態――それを 家族と呼ぶなら――を別とすれば すでに述べたように 紫の上の市民生活の過程を 具体的に捉えるということも ここでは必ずしも課題とはならないと思われてくる。
- 当時の家族観については 一夫一婦方式に絡んで 夕顔や浮舟論でいくらか考察した。
それは 市民の特殊性であるというよりは――藤壺類型は この一特殊性になじむ概念を提供したものの―― もはや個別性 Einzelkeit の領域に属すことがらなのである。従って 市民社会学のよく説くところではなく 単位的な対関係もしくは個体を 個別的に(また 完結した一つの作品世界の中に) 扱う文学にのみ これを求めなければならない。紫の上物語は 物語の世界の中にのみあると思う。原典・口語訳および文学的研究書の中にこれを求めなければならない。それは 市民社会学が その考察対象の範囲としてばかりでなく 視点としても 都市(市民社会)をその基軸に据えることの 限界でもあり 必然性でもある。
個体としての市民スサノヲ だから われわれ自身を扱いながら 都市の自治態勢(だから罪に関しては 共同自治)という第二次的な視点に立って 文学の領域と通底するということである。第二次的だが もう一つの本質的な視点であることを繰り返す必要はあるまい。ただ ここでは市民社会学は やはり 環境の整備までをおこなう主体であることに 甘んじなければならない。
(つづく→2006-08-10 - caguirofie060810)