caguirofie

哲学いろいろ

#25

――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708

章三 《光源氏藤壺》なる対関係――《観念の資本》の動態的過程――

物語の筋を一つづつ追っていくことには ここでの本意がないが しかし 特殊性の自立的な発展を跡づけるためには それは 避けて通れない部分も 多い。この特殊性とは しかも既存の共同観念が 確かに禁じるところの新しい対関係(だから それは 一つの形式なのだ)を形成しようとするからには その意味で 社会科学主体=秩序の側 に抗する特殊性である。ここでは 次のくだりを つづけて引用したい。
同じ年の秋(だから 藤壺は懐妊中である) 試楽が 催された。

  • 試楽とは 当日の催し以前に 試みに催される舞楽である。当日は 禁中以外で行なわれるから 見物できない藤壷のために 桐壺帝が 御前で 催したのである。

この席で 源氏は 青海波(唐楽で二人舞い)を 舞った。その翌朝 なお懸想の文を 意中の人に贈る。

いかに 〔舞いを〕御覧じけむ。〔私は〕世に知らぬみだり心地ながらこそ〔舞ひけれ

物思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の袖うちふりし心知りきや
Through the waving, dancing sleeves
could you see a heart so stormy that it wished but to be still ?

あなかしこ。
(紅葉賀――試楽のくだり)

これに 藤壺が 返事を送らなかったとは言えない。

唐人の袖ふることは遠けれど起ち居につけてあはれとは見き
Of waving Chinese sleeves I cannot speak,
Each step, each motion, touched me to the heart.

大方には〔思ひ侍らず〕 You may be sure that my thoughts were far from ordinary.
(紅葉賀――承前)

ここでは すでに かれらの対関係が それが一つの密教圏にありながら その特殊性は 新しい共同観念の原形をなすと見るべきである。
何故なら かれらが 自分たちの対関係が 公的な場においては 別の対関係世界とのすでに対立的な二項関係を形作っていることを知らないわけではないと見るのが われわれの視点だからである。
ここで 公的二項関係のその相手方とは 言うまでもなく 対関係形式の現行の顕教圏として 現在の共同観念体制の側である。すなわち桐壺帝から 弘徽殿の女御腹の・右大臣方の春宮へとつづく治世形態である。また まつりごと(政治・また祭祀・宗教としての共同観念)の顕在的な形態だから 顕教である。

  • なお 共同観念の動態圏としての密教が 顕教密教 susanowoïsme amatérasiste であるとするなら 共同主観の動態論は むしろ密教的な密教(マイナスxマイナス=)として顕教 susanowoïsme susanowoïste となろう。
  • これは 互い(密)に互い(密)を乗じて 共同観念的な市民社会では 顕的顕 amatérasisme amatérasiste に それほど違わない。それでも これが おのれ(密的密)を保っている場合には それは 夕顔の美意識展開が 時間的に猶予された形式としての動態論である。動態性の形式は そこでは 夕顔 evening faces (ミネルヴァのふくろう)として いつもやってくると言うべきであろう。

ここでは もう少し思い入れをして読むべきかも知れない。まずもし 弁証法 Dialektik が 自然法の一形式として 真正なる歴史法則であるとするなら ここに明確に打ち出された密教(スサノヲ主権論)としての源氏-藤壺なる対関係は 必ずや その顕教化をのちに実現するであろうと すでに 見ていい。
何故なら 公的二項関係が すでに出来あがっていたのであり それは一般に 両項の《観念の資本》=《うたの構造》の相互の対立関係なのである。途中それらの項を形成するそれぞれの人間が いづれか ついえてしまうか あるいは一方が他方を抹殺してしまうかしない限り それぞれその資本の社会性(うたの優劣)が すべてを決するからである。言いかえれば いづれが優って その資本の剰余形成が大きいか・そのうたの構造がゆたかであるか これで すべてを決すると思われるからである。

  • 公的二項関係は はじめは市民の対関係から出たと思える崇仏派と排仏派 源氏と平家 徳川と豊臣 尊皇と佐幕派 等々のそれぞれ対立関係として 過程された歴史的系譜を思うべきである。

もっとも 反面で 源氏物語のばあいは すでに初めから その主人公の誕生のときから その勝利が予定されていた(桐壺の巻)。《朝廷(おほやけ)の後見役として身を立てる》という予定である。そして 紫式部にとっては 現実に たとえば藤原道長というひとりのモデルの存在があったことと言い 当然 絵空事を書いたのではないが そのこと以上に そこに かのじょの解剖した日本という社会の市民社会学原理を  最初において 織り込もうとしなかったとは言えないのである。
かのじょは だから 日本社会全体の・一視点としての うたの構造を 物語の発展過程に織り込み または その概念的な発展過程にのっとって 諸人物を形作り登場させた。その動態的要因を担うべき市民として――しかも ひとつの革命の主体として―― あらかじめ 光源氏という人物を 当然みづからの価値観(芸術体系)として持っていた。だから 桐壺の巻の初めから 言わばその生誕の以前から 主人公は 理想人物として想定される。
われわれは それを 対関係の問題としてみる限り その中でもさらにその典型を この光源氏藤壺の類型に見出すのであるが われわれが 日本において 学としての市民社会論をこころざす限り この一系譜は 明確に 科学しておくべきだと考える。

  • なお この顕教密教の公的二項関係は この試楽の座において 青海波が 二人舞いであることによって 作者は それを舞う二人のそれぞれに 代表させていると見てよい。すなわち 源氏(密教)と頭の中将(顕教)とである。
  • これは 反面で 紫式部は 予定の路線に従って それぞれ 片や 桐壺帝‐故桐壷更衣‐藤壺女御の項と 片や 桐壺帝‐弘徽殿の女御‐春宮の項とをそれぞれ代表させ すでに 次のように描いて 前者の勝利を重ねて設定・公言しているかのようである。これには われわれは いささか食傷気味である。

源氏の中将は 青海波をぞ 舞ひ給ひける。片手には 大殿の頭の中将 かたち・用意 人には異なるを 〔源氏と〕たち並びては 花のかたはらの深山木なり。入りかたの日影 さやかにさしたるに 楽の声まさり 物のおもしろき程に おなじ舞の〔――源氏のは――〕あしぶみ・おももち 世に見えぬさまなり。・・・春宮の〔弘徽殿〕女御 〔源氏が〕かくめでたきにつけても ただならず思して
――神など 空にめでつべき 〔源氏の〕かたちかな。うたて ゆゆし。
と のたまふを 〔弘徽殿の〕若き女房などは 《心憂し》と 耳とどめけり。
(紅葉賀――巻頭・試楽のくだり)

ただ 注目してよいと思われることは 顕教の項を代表するこの頭の中将は 右大臣の四の君つまり 弘徽殿の女御の妹を娶って そのように 春宮側にあるのだが しかしもともとは 左大臣の実子であり源氏の義兄でもあるといった点であろう。
ひと言で要約して 観念の資本主義は 質料(商品)の契約・交換の体系としての資本主義と比べて その剰余の価値形成そしてその所有(時に領有)の点で 両項(つまり 社会階級=縦断的階級)が 互いに より錯綜的であるということが 確認されうる。

  • 源氏と頭の中将との事例から 象徴的に そう解される。

それはまた 商品社会においても よくも悪くも――言われているように―― より人間的また人間中心的な色彩を帯びると捉えられる。従って 観念の資本構造の 内部錯綜的な 顕教密教の両項による相互らせん状的な発展過程をとると仮説される。
(つづく→2006-08-03 - caguirofie060803)