caguirofie

哲学いろいろ

#22

――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708

章二補 《観念の資本》小論Ⅱ ――夕顔の系譜としての浮舟論――

これに対して 共同主観の優位な社会では どのように考えるか その点から入って次に継ごう。
いま 対関係における選択(したがって 約定)の自由は つねに市民社会の生産行為関係が 何らかのかたちで
解消されたとき初めて 現実のものとなると見るのは 唯一神体系にもとづく共同主観の立ち場である。それは 対関係を基軸に据える市民社会学とは違って 総体としての社会科学の立場でもある。また 生産行為の関係とは 各社会階級という狭義のナシオナリテの 経済的側面の 複合性を指して言っている。

したがって 婚姻貞潔の完全な自由な 資本主義的生産とこれによってつくりだされた所有関係とが除去されて いまでもなお配偶者の選択にきわめて強い影響をおよぼしているすべての副次的な経済的配慮がそれによってとり除かれたときにこそ はじめて一般的に達成できるのである。
そのときには 相互の愛情以外に もはやどんな動機も残らないのである。
エンゲルス家族・私有財産・国家の起源―ルイス・H・モーガンの研究に関連して (岩波文庫 白 128-8) 第二章)

われわれは さらに進んで 巻五十四・夢浮橋の最後に到る。
つまりそこではもはや 入水後に浮舟は 尼となってひそかに身を長らえている。従って 物語の・現存する限り 全巻の最終部分である。そこからは 浮舟およびかのじょを取り巻く人びと(横川の僧都や薫ら)のそれぞれの考えを対比させるかたちで 引用してみよう。次のように描かれる。

・・・僧都の御文・・・

今朝 ここに 〔薫=〕大将殿の物し給ひて 〔御身=浮舟の〕おほむ有様 たづね問ひ給ふに 初めより あやしやう 〔拙僧は〕くはしく 〔薫に〕きこえ侍りぬ。〔薫の〕御心ざし深かりける御中を 〔御身は〕そむき給ひて 怪しき山賎(かつ)の中に 〔尼にて〕すごし給へること。かへりては 仏の責め 添ふべき事なるをなん うけたまはり 驚き侍る。《いかがはせむ。もとの御契り 過(あやま)ち給はで 〔薫の〕愛執の罪を晴るかし聞え給ひて 一日の出家の功徳 はかりなきものなれば なほ 〔功徳を〕たのませ給へ》となむ。ことごとには 〔拙僧〕身づから 〔小野に〕さぶらひて 申し侍らん。かつがつ この小君(=浮舟の弟=薫の使い) 〔御身に〕きこえ給ひてむ。 The general came this morning and asked about you, and I told him everything. You have turned your back upon human affections and have chosen to live among mountain people. This I know. Yet I was disturbed to learn the facts, and have come to fear that, contrary to your intentions, what we have done might call down the wrath of the holy powers. We must be resigned to it; and now you must go back, surely and without hesitaiton, to the general, and dispel the clouds of sin brought on by tenacious affections. Draw confort from the thought that a single day's retreat brings untold blessings. I shall myself go over the problem carefully with you. The lad who brings this can no doubt give you a genereal description of what has occurred.

・・・〔薫の〕御文・・・

更に 聞えん方なく 〔御身の〕さまざまに罪重き御心をば 僧都に 思ひ許し聞えて 今は 《いかで 浅ましかりし 世の夢語りをだに》と 急がるる心の 我ながら もどかしきになむ。まして 人目は いかに。

と 書きもやり給はず

法(のり)の師とたづぬる道をしるべにて思はぬ山に踏み惑ふかな

Out of deference to the bishop, I shall excuse the rash step you have taken. Of that I shall speak no further. For my own part, I am seized with so intense a longing to speak to you of those nightmarish events that I can scarcely myself accept it as real. I cannnot imagine how it might seem to others.
As if unable to find adequate words, he continued with a poem:

I lost my way in the hills, having taken a road
That would lead, I hope, to a teacher of the Law.

・・・《いかが 〔返事を〕きこえん》など 〔浮舟は僧都の妹尼に〕せめられて
――心地の かき乱れるやうにし侍る程 ためらひて 今 〔返事を〕きこえむ。昔のこと 思ひ出づれど 更におぼゆることなく 《怪しう いかなりける夢にか》とのみ 〔私は〕心も得ずなん。少ししづまりてや この御文なども 見知らるることもあらむ。今日は なほ 〔此の御文を〕もてまゐり給ひね。所違へにもあらむに いと かたはら痛かるべし。
とて 〔御文を〕ひろげながら 〔妹尼=〕尼君に さしやり給へれば・・・
―― Let me collect myself just a little, please, if you don't mind. I try to remember but I cannot. It is all like a strange, frightening dream. I think possibly I may be able to understand when I have calmed myself a little. Send it back, please, today at least. There may have been a mistake.
Not even refolding the letter, she pushed it towards the nun.
(夢浮橋――巻末)

長い引用になったが ここでは 三者または四者の意見に関して言えば まず横川の僧都のそれが 薫の意向から遠いものでないことは 確かである。しかしながら 浮舟の思うところが 僧都の妹尼からさえも 遠いことも 事実である。端的に言って ここには われわれは あの《特殊性 Besonderheit 》が 夕顔の系譜として いかなる自立的発展をとげうるのか その一例を見出すはずである。
この過程が たとえばエンゲルスの表わす視点から それほどかけ離れたものでないことも また明らかなわれわれにとっての現実なのである。こう言い得るであろう。
ここでのわれわれの問いは ブッディスムの無限性なる視点が いかなる歴史的射程を持ちうるか また それは 観念的な成就の一形態にすぎないものであるのか このようであった。これに対して われわれは 直截の回答を持ち合わせていないと言ったほうがよいであろう。ただ こうは言える。すなわち エンゲルスの視点をも形成した歴史的な共同主観の源において 次のような認識が持たれていたということ それもれっきとした歴史的事実だということである。

つまり人間が欲するままに生きることが 真実となるであろう。
なぜなら かれはあの祝福において悪しく生きることを欲しないし また欠如するであろうものを欲しないし さらに欲するものは欠如しないであろうからである。
愛されるであろうものはすべて現在するであろう。
現在しないものは欲求されないであろう。
アウグスティヌスアウグスティヌス三位一体論 第十三巻・第七章)

これは 神的世界への思いいれではなく それは 唯一神体系においても 質料(素材)じたいは 確かに 神にとっても その創造の与件としてあるものなのであり この創造者にとっても 手に負えない récalcitrant ものであるとされるといった視点の 市民社会学の観点からする一つの望見を 示唆するにすぎないと思うからである。つまり そこで たとえその唯一神が 質料と形相とから成るすべてを 創造したと見ると言われるものであっても そのとき この素材については 手に負えないものであるのかも知れない。
これは 対関係の偶有性を主張する根本的な所以であると思うからである。

  • もっとも 手に負えない質料であっても それが 神の似像としての人間であるなら それは つねに神の似像という栄光の中に歩むとされる視点も 付け加えておかねばなるまいが。

もし ここに立脚するならば クリスチア二スム的――あるいは広く 共同主観的な――愛の形式の問題は 本質的にではないが 現世内存在として それを逸れて さらに特殊性の自立的発展としての動態的(反美学的)過程を なおわれわれは求めることができ また求めるべきであろうと思われるのである。
われわれは この意味で――横着にも―― 浮舟論を微妙に逸れて その同じ軌道の上に なお そのような現世的な・だから罪なきとしない対関係の過程を 求めて進むべきであろう。また言いかえればエンゲルスの指し示す言わば包括的な理念の問題をも微妙に逸れて ぬかるみの中の対関係 その意味でのここで源氏における別種の一革命的発展の過程を 望み見るべきであろう。このことこそが 市民社会学の重要な任務となると言ってよい。
われわれは ただちにこの課題を 《光源氏‐藤壷》なる対関係に見出すものであり 次章に これが考察を続けてしかるべきと考える。
われわれのドグマは 浮舟論の止揚を 藤壺‐源氏論に求めるということになる。
(つづく→2006-08-01 - caguirofie060801)