caguirofie

哲学いろいろ

#11

――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708

章一 《光源氏‐空蝉》なる対関係――ナルキッサ空蝉批判――

さらに これらのことは 同じような意味あいになるが 次のようにも解される。

われわれは 市民社会学の始点を ナルキッサの社会的解放という命題のうちに持ち ここまで述べてきたとするなら おそらく 次の一論点に移りつつあるというべきである。
空蝉においては かのじょが すでに伊予の介(常陸の介)との婚姻関係にあるとするなら この現代にも通じる一夫一婦の対関係およびその共同体関係としての制度によって 必ずしも社会的に解放されたと見ないのであるが ひとまず ここで同時に 次の課題として この一夫一婦方式 または 対関係の唯一性形式という理念の問題にとぶことになろう。
ただちにこの点 輪郭を象ろうとするならば 源氏においては それを 《限りなう心をつくし聞ゆる人》である藤壺にではなく また かのじょに《いとよう似奉れる》――じっさい 藤壺の姪である――紫の上との対関係にでもなく この章一の継承としては 帚木以下の三巻のセットとして同じ体系の中に登場する夕顔との関係において 先に見出し考察しておくのが よいと思われる。章二は 夕顔論である。
そこで この章の残りとしては その締めくくりとして あるいは次章への予備的考察として 概括すべきことは オホクニヌシ‐スセリヒメの美的形式としての対関係 または 社会的形態としての一夫一婦方式についてである。オホクニヌシ段階で すでに 情感の共同性(愛)として 一夫一婦方式が 原形・抽象的に 表象された。そうだとするなら 空蝉の中にも この方式が 表象されていなかったとは言えない。そういうかたちで――初めからの想定に基づく限りで―― 考え進めるのがよいと思われる。
もっとも いま概念的に言って この一夫一婦方式が 社会の制度として成立するのは キリスト教の愛の形式 もしくは キャピタリスムの生産行為形式 これらの普遍的形態の中においてのみである。この点からも 考察を補っておこう。
一般に次のように言える。
キリスト教の愛の形式――唯一神体系のもとでの対関係形式――は 実際には 人が その信仰を持とうと持つまいと キリスト教じたいの共同主観の系譜としてキャピタリスムという生産形態を社会が採るとき 間接的にしろ押しなべて 人の現世‐内‐存在の中にも 侵入し もしくはおのづから生成しているものである。

  • キャピタリスムの盛期には キャピタル(貨幣を媒介にした幾何学的価値)が 物神として 唯一神たりえていた一面がある。そして この変形すなわち 現実的な唯一神体制のもとで 一夫一婦制の枠の外の(=婚外の)愛欲が 一般に プラトニックなものとなる――もしくは その逆のものとなる――こういった点について 考えたことがある。(純粋社会学序説)

ただし反面で このキリスト教的な対関係形式が それほどアジア的市民にとって異質のものでないことは 古事記等の記述をもって 裏書しておくべきである。(信仰の様式が 同質かどうかという問題としては言っていない。)さらに このオホクニヌシ段階の愛の様式から進展して ヤマト朝廷の生成から大化の改新に至ってその確立のもとに 可能性としての現実的な新たな愛の形式として 形成されようとする経緯も 指摘しうる。
オホクニヌシ段階のそれを シントウ的シントイスムとしての(原形もしくは素形としての)《Amaterasu - Susanowo 》連関をその土壌としたものとするならば 日本という社会形態・ナシオナリスムが 確立されたときには たとえば ヒンドゥー・ブッディスム的に《アジャータシャトル( Amaterasu )‐ブッダ( Susanowo )》連関が形成された土壌というものが 指摘されうるからである。あるいは 大化の改新の直接の理念である聖徳太子の十七条憲法(たとえば 《国に二君なく 民に両主なし。――第十二条》)といった土壌が指摘されうる。
すなわち 対関係としても 《対関係に二夫なく二婦なし》といった視点が生まれえたとしてもおかしくないからである。
これは 一夫一婦制の変な弁護を意図してのことでは むろんなく また 日本の歴史において この理念は 明確な現実の系譜として たどられうると言うのも難しい。ただ このような理念的な愛の形式は 問題が 重婚・離婚・浮気などといった事態にあるというのではなく やはり 生産行為関係の真正なる動態性を見守るという視点にかかわると思われるからである。言いかえれば 歴史のかまどとしての市民社会が 停滞的な領域に陥らずに 発展するというのは 対関係が 家族を形成して自らの政治的形態を揚棄して 再生産の形態を 愛において形作ると見るからには 共同主観的な一夫一婦の方式は その動態的要因でありこそすれ 避けて通れないと考えられるからである。
これが 実際には ナルキッサにとっての家族の問題として もしくはそのようなナルキッサの社会的解放の問題として 捉えられることであった。その限りで また 浮気(好色)ともかかわるであろう。
なお 物語においては まだ言い及んでいなかったが 一種の《対(たい)ナルキッサ関係 ‐ うちつけのすきずきしさ》連関は 明確に 源氏の《対(たい)空蝉関係 ‐ 対(たい)軒端荻(=空蝉の継子)関係》の連関として描かれている。空蝉に拒まれた源氏は それと知らずながらも 軒端荻(のきはのをぎ)と自らを結ぶ。もっとも このことを具体的に捉えようとすることは むしろ興味本位の事柄へと移行すると思われるので――作者も 軒端荻との対関係を 重視しているとは思われない―― これに対しては 作者とともに 解放という視点を 掲げるのみとしたい。
ここでは 空蝉というナルキッサの出現は――西欧の共同主観による社会体系の側面を 別とすれば―― ナシオナリスム社会形態の成立以後のことであると確認しておきたい。いま一度規定すれば 《君に二つの政(まつりごと)なく 臣は朝(みかど)に貳(そむ)くことなし》(日本書紀 孝徳天皇即位前紀)といった共同体関係の事態である。あのオホクニヌシ類型は ここへ 上昇しようとしていたと考えられる。大雑把な見方においてである。
なお 一点だけ前もって考えるとすれば ナルキッサは 実は むしろ共同主観的な対関係の唯一形式を 観念的にしろ見とおしていたのではないか。源氏とともに うちつけのすきずきしさなる対関係を 内的に 止揚していたのではないか。こう考えられる。ナルキッサなる主体がである。そして ここにおいて 《自己抑制の精神》は生きる。
しかし――しかし なお―― 空蝉=ナルキッサ論を掲げて その社会的解放へと向かわなければならないと思われることには まず 時代の生産行為様式に 現代から見れば 制約としか考えられない身分制があることは別としよう。そうではなく いま上で触れた《自己抑制の精神》は それが 観念の資本(また資本家)として そうなのであって これは 現実的ではないからである。現実に 源氏とともに 源氏との対関係形成の局面において 共同主観してそうあるというのではないと考えられるからである。観念の傘を差し出して その中に入ってくるなら 生産的な対関係を・つまりは愛を 互いに形作りましょうと言っていたし 言っているのみだったからである。その結果の《自己抑制の精神》なのである。
もしくは 自らの代わりに 軒端の荻を源氏に与えたというように うたの構造の世界において それを試みたのみだということ また 作者もそう描かねばならなかったということ このような情況は まさに共同観念の停滞的な対関係=愛なのである。代わりに継子を差し出すという人身操縦のごときことも行なっている。いまの うたの構造というのは 共同観念としては ある種 無効のうちに実効性を持つかのごとく 威力を発揮することがあると同時に 共同主観としては=生産的な愛としては 無力の世界なのである。
われわれは 章二・夕顔論に移る前に なお補章をもうけて この空蝉論を補足しよう。
(つづく→2006-07-20 - caguirofie060720)