caguirofie

哲学いろいろ

#13

――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708

章一補 《観念の資本》小論Ⅰ――空蝉論つづき――

空蝉と源氏とのやり取りは こうである。観念の資本のいわば傘を差し出したり その傘の中にわざと入ったりして 会話がつづく。

――など かく 〔私を〕うとましき物にしも〔御身は〕おぼすべき。おぼえなき様なるしもこそ 《契りある》とは 〔御身は〕思ひ給はめ。〔御身が〕むげに 世(=男女の仲;対関係)を思ひ知らぬやうに おぼほれ給ふなむ 〔私には〕いとつらき。 "Why must you so dislike me ? Don't you know that the unexpected encounters are the ones we were fated for ? Really, my dear, you do seem to know altogether too little of the world."
と恨みられて
――いとかく 〔私が〕うき身の程の定まらぬ ありしながらの身にて 〔御身の〕かかる御心ばへを見ましかば 《あるまじき我れ頼みにて 見直し給ふ後瀬(のちせ)もや》とも 〔私は〕思ひ給へ慰めましを。いとかう 仮りなる浮き寝の程を 思ひ侍るに 〔私は〕たぐひなく思ひ給へ惑はるるなり。よし 今は 《見き》と 〔口に〕なかけそ。 "If I had met you before I came to this, then I might have console myself with the thought----it might have been no more than self-deception, of course----that you would someday come to think fondly of me. But this is hopeless, worse than I can tell you. Well, it has happened. Say no to those who ask if you have seen me."
とて 〔空蝉の〕思へるさま げに いと ことわりなり。
(帚木――源氏が空蝉の寝所に忍ぶくだり)

ただちに論証はしないが このやり取りは 言っている内容が それぞれ互いに相手の思っていることをあたかも奪い取ったかのごとくである点がおもしろい。
そして このような《うたの構造》において 契約とその給付とのそれぞれの《時間や行為の実態》が 互いに分割されて非連続のものとなっているというよりは 今度は むしろ 互いに未分化の状態にあると思える。その意味は 《現実的給付》について 実際にその物の引き渡しが実行されるとき初めて 対関係(契約)が成立した見なされるていのものだというにある。この延期された成立ゆえに 自己抑制の精神と言われる。これについて作者が ここで 《いと ことわりなり》と述べて 肯定的である地点を やや超えて さらに考えてみよう。

〔契約のとき〕あるしるしにおいて おのれを表明する合意と そして給付とは 教養ある諸民族にあっては 別々になっている。ところが粗野な諸民族にあっては この二つが一つになりかねない。セイロン(スリランカ)の森林に住んで商業を営む連中は 自分たちの所有〔物〕をそこへ置いといて 他の連中がやってきてそれを取っては代わりにかれらのものを置くまで じっと待っている。このばあいは 意志の無言の表明が 給付と別ではないのである。
ヘーゲル法の哲学〈2〉 (中公クラシックス) §78追加)

事は 一方(つまり共同主観の側面)で 自己の労働行為をすでに外化した生産物どうしの交換にすぎないものであり 他方(共同観念の対関係側面)では 労働主体としての自己自身の実存にかかわるものとなっている。だから このような契約にかんする原則的な理論は ここでは 一般に 互いになじまない議論だと考えられるかも知れない。あるいは作者のここでの肯定的な視点は それに基づいているというべきであろう。約定が表明され合ったからと言って 事が 実存にかかわるものである限り その実行は そのまま《没自己的な帰結》となっては現われるものではない。これは 人格そのものでなくても 土地や家を取引するときなど けっきょく最後まで 給付の最後まで 見届けておかずにいないことはありうる。
源氏と空蝉とのあいだに――このような対関係の問題を 物のやり取りの場合に比べていて いささか 不適切かも知れないが―― まだ何ら 互いの約定の表明などありはしなかったというのが まず確認しなければならない事態であるのだろう。その上で なおその上でフィヒテの視点 つまり 約定にしても本気であったかどうか分かるわけがないという疑いが来る。たとえ本気だっだとしても 意向が互いになお別なふうなものでありうる。その限りで 初めの漠然とした契約について その破棄は 当然の一可能性なのであるという視点である。
この視点にかんしては われわれは 先の物語作者の肯定的な評価とともに それを認めざるを得ない。ナルキッサの社会的解放は そこまでは及ばない。いや 及ぶかも知れないが 人間の智恵と能力とでは 為すすべもないように思われる。そう言わざるを得ない。
あるいは この領域は うたの構造が えも言われぬ甘えの構造へと反転し そこに言わば落ち着くという場面を示すとも見られる。共同主観の系譜からも フロイトが この領域を 学 discipline の対象として追究するとは思えない。そのニュアンスとしては 《自然児はこれを放っておくしかない》といった意味のことを言っていたように記憶する。あるいは マルクス歴史観にしたところで この領域はそれを 共同主観の歴史的発展過程が動因となって 主導するということはあっても それを直接 再編成しようとかしないとかの議論は 無縁と見なしていると解してよいだろう。
言いかえれば この領域においては 歴史主体でありかつ日常生活の主体であるわれわれ一人ひとりの自由な愛および愛欲の過程に任されている。もちろん マルクスらによって 任されたわけではない。また それは 文学の領域に入るというものである。
文学と 市民社会学との接点 といった観点からは なおいくらか この特殊なうたの構造領域に対して 発言しうるかも知れない。
《涙こそ 永遠である。 les pleurs 〔 sont 〕éternels. 》とナルシスに語らせたのは ヴァレリであった。それは 一つの西欧市民社会的なナルキッサの社会的解放の内容であった。わが紫式部は 源氏の涙を 次のように描く。

・・・《また かやうのついであらんことも いとかたし。さしはへては いかでか〔来べき〕。御文(ふみ)なども 通はん事の いとわりなき》と思すに いと胸いたし。奥の中将(空蝉の侍女)も出でて いと苦しがれば 〔空蝉を〕ゆるし給ひても また 〔空蝉を〕ひきとどめ給ひつつ He feared he could not find an excuse for another meeting. He did not see how he could visit her, and he did not see how they could write. Chûjoô came out, also very unhappy. He let the lady go and then took her back again.
――〔文を〕いかでか聞ゆべき。世に知らぬ 〔空蝉の〕御心のつらさも 〔私の〕あはれさも 浅からぬ  世の思ひ出では さまざま 珍らかなるべきためしかな。" How shall I write to you ? Your feelings and my own ---- they are not shallow, and we may expect deep memories.Has anything ever been so strange ? "
とて うち泣き給ふ御気色 いとなまめきたり。He was in tears, which made him yet handsomer.
(帚木――承前)

と。とにかく 対関係が実質的に 成立しなかった。この空蝉のいまは《自己抑制の精神》の 《げに いと ことわりなり》といった作者の言を受けて いまは足を踏み入れまじきうたの構造域から 遠ざかろうとする源氏の心理過程の問題である。もっとも そのあとで かれは 別様に例の感情として《ねたう おぼしいづ》るのであり それだけに終わらない特殊な対関係形式ではある。いまは これにて やんぬるかなである。
(つづく→2006-07-22 - caguirofie060722)