caguirofie

哲学いろいろ

#14

――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708

章一補 《観念の資本》小論〓 ――空蝉論つづき――

われわれは すでに 《オホクニヌシ‐スセリヒメ》類型を止揚した。つまり もはや現実に確立したのである。そう考えて 再出発している。
それは 市民社会が オホクニヌシのムライスム共同体形態から ヤマト〔‐イヅモ等々〕のナシオナリスム社会形態へと発展し その歴史的に一つの本質としての共同体関係のもとにおいてこそ 新たな自由なるオホクニヌシ対関係なり うたの構造なりを 持ちえたのだし 追求していくのであった。ここで 現代において 国家を――アナーキズム風に――止揚しようとする動きについては これを警戒し しかも ただ この市民社会としても本質的な枠組み(様式)である社会形態としての国家の構造をこそ 明確にし 再編成すべきという課題のもとにあるのだろう。
まず 社会形態ヤマト共同体は 確かに オホクニヌシ共同体の彼岸として形成された。または その意味で象徴的に言って オホクニヌシ‐スセリヒメなる対関係という市民形式の特殊性の 自立的な発展の一段階でもあるのだろう。上昇は終えたかも知れないが それで すべてが終わったかどうかは まだ 決められない。逆に この彼岸形態としての国家を 未来の社会形態へと移行させる必要があって移行させようとするとき この《体制または政治的国家の彼岸なるあり方と共倒れになる》ことを 避ける必要もある。
それは 市民社会のあり方としての《 Amaterasu - Susanowo 》体系(そして そこに内在する存在の形式)のその本質性が そこに物語られているとも考えられるからである。止揚されたオホクニヌシ類型を踏まえた 概念としての源氏類型は この体系の成立によって 初めて 可能となったことをも考えておかねばならない。
国家――殊に キャピタリスム=ナシオナリスム形態としての――が確立されてこそ 源氏類型が 新たに 市民の対関係という特殊性の自立的な発展を得ることができ 現実となった。このことは ナルキッサの社会的解放にとって その可能性および限界性を 明らかにし確認する意味では 重ねて強調しておくべきだと考えられる。
原則的には ヘーゲルが次のように述べるとき その絶対性の視点を相対化するならば その国家形態に対するその本質性の指摘は 正しいと言うべきである。ここで ヘーゲルは 特殊性 Besonderheit としてのオホクニヌシ類型 またはその一原形として見た共同体(《古代諸国家》)が その《自立的発展》の過程において 一つの歴史的な概念としての国家社会形態へと 自己形成したというふうなことを述べている。《古代》というとき 前古代市民の社会から古代市民の社会へ発展する過程の全体を言っている点に注意。

特殊性の自立的発展は 古代諸国家においては 突如として押し寄せてくる習俗の頽廃として また国家(つまり素形としての国家――引用者)滅亡の究極原因として現われる契機である。
これらの国家は あるものは族長的および宗教的原理というかたちで あるものはもっと精神的ではあるがもっと単純な倫理の原理というかたちで ――総じて原始的な自然的直観を拠りどころとしていたために この自然的直観の分裂と自己意識の無限な自己内反省とに耐えることができず この反省が頭をもたげ始めるやいなや それにまず心術(心情)の面で ついで現実の面で屈したのであった。
なぜなら古代的(むしろ前古代市民的つまり素形としての)諸国家のまだ単純な原理には 真に無限な力が欠けていたからである。真に無限な力は 理性の(それが含む普遍と特殊との――ここのみ訳者補注)対立関係を徹底的な激しさにまで押し進めて 対立する両項(オホクニヌシ〔スサノヲ〕‐ヤマト〔アマテラス〕連関)を離れ離れのものにし そうしてこの対立関係を圧倒してしまい こうしてこの対立関係のうちにおのれを保ち おのれのうちにこの対立関係を統合しているような そういう一体性のうちにだけ存するのである。
ヘーゲル法の哲学〈2〉 (中公クラシックス) §185)

《アマテラス‐スサノヲ》連関なる社会形態ということであった。《オホクニヌシ‐スセリヒメなる対関係としての特殊性の自立的な発展》だと捉えたのである。さらに この《特殊性の自立的発展》が 近代において スサノヲ(市民)・キャピタリストのそれであったことも 重ねて留意しうる。そして キャピタリスムを採用した市民社会は 社会形態(国家)を ヘーゲルの言う《アマテラス圏‐スサノヲ圏》の対立的な一体性からさらに進んで 世界史の中で それぞれ互いに交通・交易する種(ナシオン)としてのそれへと止揚する過程にあると言われる。
世界史の中のそれぞれ単位的な社会形態としての《Susanowo - Amaterasu》構造が 分解してしまうとは思われない。少しくどくなるが 《国家》を ヘーゲルの言うように 《倫理(=対関係)的理念の現実性・・・すなわちはっきりと姿を現わして おのれ自身にとってのおのれの真実の姿が見紛うべくもなく明らかとなった実体的意志としての倫理的精神》(§257)であるとは 思わない。そう言い切ったままにしておかない。
すなわち世界の精神が おのれの法を 世界審判としての世界史において 各民族精神に対して執行する》(§340)とも 見ない。世界審判は 普遍的精神の法を おのおのの対関係に対して 執行するものであるかも知れないとは考える、いづれであっても この条件のもとに 社会形態は 中位の類概念として やはり《 Amaterasu - Susanowo 》システムを保つと考える。そうして 問題は 対関係(その発進・発展の過程)に始まり 対関係の止揚へと始まると思われる。
日本の社会においては オホクニヌシ類型を止揚した源氏類型から始まり その始点を 対(たい)空蝉関係において持たなければならないと考える。
物語においては 雨夜の品定めのくだりにおいて ほんとうの意味で女性への蒙が開かれた源氏が 最初に出会う女性が この空蝉であったことは むしろ紫式部市民社会学において 象徴的な意義があったと考えられるのである。

  • 初めて蒙が開かれたと言ったけれど ただし それ以前の憧憬のまとであった藤壺への対関係の原形式が 壊されずに 保たれたという一面も存在する。


最後に 次章へとつなぐ意味において こう考えられる。
《観念の資本》主体の社会的解放 これが 特殊性の――つまり ここでいま 原形なる対関係としてのオホクニヌシ類型の――自立的な発展の過程において捉えられることと言った。ただ この点が 現代において 日本という社会形態の歴史の中にのみ問い求められるということは 視野が狭いと言わなければならない。

個々人のおのれのうちでの無限な自立的人格性という原理 すなわち主体的自由の原理は 内面的には キリスト教において出現し 外面的には したがって 抽象的普遍性と結びついたかたちでは ローマ世界において出現した。・・・
この原理は 歴史的にはギリシャ世界より後のものであり この原理の奥底にまで降りてゆく哲学的反省も ギリシャ哲学の実体的理念より後のものである。
ヘーゲル法の哲学〈2〉 (中公クラシックス) §185)

ここで 西欧的社会体系の中で 対関係のカテゴリにおいて ――序において見たように――言わば
ギリシャ教(へレーネー‐メネラーオス類型)‐キリスト教(アベラール‐エロイーズ類型)》連関
の広義の類型が形作られたとすれば そしてそれが たとえば日本で
《シントイスム(オホクニヌシ類型)‐ブッディスム》連関(:源氏類型)
として形作られたものに呼応すると仮りにしても 現代では 
広義のキリスト教の愛の形式(広義の《アベラール‐エロイーズ》類型)
と 
広義の神仏習合的な愛の形式(源氏類型)
とが さらに互いの錯綜的な構造を伴なって 経験されている。(しかも この対関係の形式が 市民社会へと ひいては 社会形態へと つながるものだとも考えた。)この問題は――それが 現実の課題であるとするなら―― それはもはや 予告したように 対関係の崇高なる理念としての唯一形式を扱おうとする次章のそれであるが 図式的には 神神習合の形式でもあるように思われる。すなわち 此方では 神仏習合としての神(神々)と 他方ではヘレニスム‐ヘブライイスム習合としての神との それら総合的な習合(または 非習合)の形式だと考えられる。このような概念図をもって 光源氏の対関係類型は どこまでの射程を持ちうるか これを 考察していきたい。 
(つづく→2006-07-23 - caguirofie060723)