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哲学いろいろ

#12

――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708

章一補 《観念の資本》小論Ⅰ――空蝉論つづき――

空蝉なる女性を いかに理解すべきであるか。また どこからは理解する必要はないか。あるいはわれわれの仮説にもとづくならば ナルキッサ=《観念の資本》主体とは いかなる市民の存在形式であるのか。この点を さらに追究してみたい。
次章に捉えようとする夕顔は その夕顔の巻の前に 雨夜の品定めのくだりにおいて 作者自身が 一つの女性論として展開している。だが この空蝉に関しては そこでの分類には入らない例である。範疇を逸脱している。また もし――章一の最後に述べたように―― 共同主観による社会体系としての《資本》体制のもとにおいては 愛欲の過程が 家族の一夫一婦形態という幾何学的制度の中におさまり この枠組みの外においては 本来活発な愛欲の過程が あたかも商品が他の商品をおのれの方へなびかそうとして互いに抽象的(物神的)な関係を結ぶかのような情況に呼応して 一般に プラトニックな(表面的で演技的な)形態を採ると見るならば 仮りに 《観念の資本》体制というような人びとの交通形態が 歴史経験的に存在するとして この体制のもとで その愛欲過程は いかなる形態を採り得るのか。もしくは別の想定としては 一夫一婦制の外で 活発な過程を採り その枠組みの中では むしろよそよそしいプラトニックな形態を呈するという経験が 存在するといった場合が事実であるとするならば どうか。
つまり言いかえれば 《観念の資本》主体といった市民の存在形式が仮りにあるとするならば そこでの対関係は――いまは 確かにもはや 一夫一婦方式を一つの前提とはしているが―― どれだけ活発な過程を持ちうるか。または どこが活発なものでありえないか。これらを考察することが この補論の目的である。


ナルキッサ――自分自身に憑いた物の怪的な存在――であることが 愛欲の活発な過程を阻害する要因となり 仮称《観念の資本》主体として 《観念の資本 ‐ 資本》体制の停滞性領域をかたどるというのが 前章に述べた仮説的原則論であった。この原則論を 経験的側面にそくして 敷衍し かつ 実証しておこうと思う。言いかえれば ナルキッサの社会的解放の方程式は いったい どのように動くのか これである。


まず 原則論の原則論をとらえよう。例によって ヘーゲルに拠る。われわれの前には すでに 《社会思想-社会科学》構造という連関があった。これは 法の哲学的に言いかえれば 《有限性(世間)‐無限性(出世間)》の構造という一視座である。
ヘーゲルによれば ナルキッサ・観念の資本主体の存在様式 これは この構造の中の無限性領域が 《悪しき無限 die schlechte Unendlichkeit 》を呈するその形態と解される。逆に言えば 《家族》という・複数の精神または人格の有限なる一体性 これを形作りえない無限性(悪しき悟り)であると解される。共同観念の内におけるナルキッサ存在を 共同主観の中に 類型的に 移し変えて捉えようとすれば 次の事情のもとにある。
生産物(商品でもよい)の交換に対する契約 Vertrag ――その意志の側面は 約定 Stipulation である――と その契約の実行(生産物の給付)との 協働・分業の中における対関係過程の構造は 次のように把捉される。

約定は 契約における意志の面 したがって契約における法的なものの実体的なものをふくんでいる。
約定によって私は ある所有とこれにかんする特殊な恣意を放棄したのであって それはもう他人の所有となっている。したがって私は約定によって直接に 給付の義務を法的に負わされているのである。
ヘーゲル法の哲学〈2〉 (中公クラシックス)§79 太字は原文の傍点)

いまは 対関係つまり愛という主題であるのに このような取引きの問題を出してきて 困ると思われるであろうが このやばさは いま 強行突破することにする。要するに 売った よし買ったと合意が決まれば その物の引渡しの義務が ただちにその時点で生じると言っている。これを 乱暴に 恋の約定という事態にあてはめる。
そこで 契約からその実行に至る約定のこのあくまで対関係(二角関係)の一連の過程が もしここで 乱されるか もしくは 約定の成立じたいが 初めにあやふやであったというようなことが起こるかするなら 次のように説かれなければならない。繰り返し言って 契約において直接的で明確なしるしがなくても その何らかの表明行為からその履行に至る過程が 何らかのかたちで乱されるなら 次のようにである。

〔しかしながら〕約定という表明は 表明一般ではなくて 成立した共通の意志をふくんでおり 意向とその変更との恣意はこの共通の意志のうちに揚棄されたのである。それゆえ問題は はたして相手が内面的に別なふうの意向になっているかどうかの可能性ではなくて はたして相手がそうする権利(主体性)をもっているかどうかの可能性である。
法の哲学〈2〉 (中公クラシックス)

ここでただちに 物語の世界に移ろう。また 共同観念の座標へと戻ろう。
空蝉と源氏とのあいだに 対関係が形成されうるか否かの問題は たとえそれが 源氏による一方的な寝所への忍び入りに発したにせよ――裁判所に訴えて拒否を公的に明らかにするといった意向を別にすれば―― 〔問題は〕《はたして市民としてもしくは生産主体として 空蝉が 対関係の相手となりうる存在であるかどうかその可能性》なのだということになる。まず こう帰結される。
それに対して もしこの視点を取らないとする場合の――いまふたたび 共同主観体系の座標に戻って考えるのだが――約定もしくは契約に関するいま一つ別の説は ヘーゲルは次のようにしりぞける内容のそれである。

フィヒテはかつて つぎのような主張を立てた。すなわち〕《契約をまもる責務は 私にとってはただ 相手の開始する給付とともにはじめて始まる。なぜなら 私は相手の給付以前には 相手が自分で言った言葉がはたして本気であったのかどうかにかんしては不知の状態にあるからである。それゆえ 相手の給付にさきだっての私の責務は道徳的な性質のものでしかなく 法的性質のものではないのである》と。・・・
〔ここでは〕相手が給付を開始しても 私のがわにも依然として不法(契約破棄)の恣意がのこっている。
(同上)

そうして

意志が 身振りの正式手続きのうちに あるいは それ自身はっきりきまった言語のうちにもつ現存性(つまり《世間-出世間》の連関構造として)は すでに 知性的意志としてのその意志の完璧な現存在であって 給付はただこの意志の現存在の帰結 没自己的な帰結でしかないのである。
〔それにしても 実定法においては いわゆる同意契約と区別された いわゆる物的契約なるものが存在する。そして後者は 同意にさいしてさらに現実的給付(《物 res 》《物の引き渡し traditio rei 》)が加わるときにのみ完璧と見なされるという意味をもっている。だが そんなことは ことがらに何のかかわりもないのである。〕
(同上)

すなわち その表明が たとえ《身振りという手続き》によるものであっても それが一定の市民社会の生産行為関係として 《正式》のものであったとしたら その約定は 対関係の過程として――相手がある場合であるからには 《共通の意志》として―― はじめに成立するのであって その《相手による契約の実行(給付)以前には 相手が自分で言った言葉がはたして本気であったのかどうか》 それは 確かに 《不知の状態》にあるが 問題ではない。《相手が 内面的に別なふうの意向であったかなど》は どうでもよいと言わなければならない。後に実行される《給付は ただ はじめに成立した私的〔であるがゆえに むしろ公的と成った〕二項関係への 没自己的な帰結でしかない》と まず言わなければならない。

  • 当然のことである。もしそうでない考えと行動の人がいたとしたら その人は いつまでも子どもでいたい 人間になりたくないと言っていることである。そういう人に対しては すでに死んでいると見なしてやることが いちばんの思いやりなのである。恋愛に関して そういう人間がいるという問題である。ゆえに 蝉の殻と名づけられている。しかも 武士道は死ぬことと見つけたりと言わんばかりに この空ろな蝉の抜け殻となって生きることこそ 仏道なりと ある種の人びとのあいだでは 信じられている。見よ このように生きている日本人の社会を。

フィヒテの見解では 契約の法的――対関係(愛)の現実的――なものはどうやら 悪しき無限 はてしない過程のうえに立てられており 時間 行為の質料 等々の無限な分割可能性のうえに立てられていることになる》(ヘーゲル前掲書)と 反駁されるそれである。
空蝉は 源氏に対して まず その対関係に初めの発進――約定の成立いかん――を もしそこに 暴力行為がなかったとするなら 問わなければならない。
実は――ここで 物語世界にふたたび入れば―― 両者の約定は はじめに 逆立して 成立している。もしくは 時間(対関係のことである)を 非連続なものと規定しその分割可能性のうえに 成り立っている。こうも見なければならない。
ここで 対関係という本来 一対なる人格のその一体性(愛・家族)そしてその形成として ともに 生産行為におもむくという愛欲および愛の過程が 逆立して成立するとは 仮象としてのうたの構造もしくは 《観念の資本主体と 労働行為者という生産主体とへの 分化の構造》を言うといってよい。あなたは わたしの賃労働者となるなら わたしの愛を 自由に得られるであろうという対関係形式のことである。
次に掲げる源氏と空蝉とのやり取りは それぞれが 一方は他方のその意向を なお問題にし それを自己のもとに奪い取って(つまり それは 観念の内に行なっているので 包摂・被包摂の関係となって) 領有するという関係にある。(この観念の共同性なる事態を 《無限抱擁》と言った人がいる。)相手の物の怪を 観念の世界で(と言っても 感覚や情感を通じてなのだが)自己のものとし それを自己が表明して見せるという関係にある。源氏は 実は空蝉の意向――そんなものは いざとなっては 独りだけの心としては どうでもよいのだが――を 代弁して語っているのであり 空蝉は 源氏の心のうちにあると自身が思うその意向――やはり どうでもよいもの――を つつましく 延べ返す。
その原文を次回から見ていこう。
(つづく→2006-07-21 - caguirofie060721)