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哲学いろいろ

#7

――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
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序・補 対関係の光源氏類型(蛇足)

長い序の蛇足です。あらためて 序の内容を整理します。
《オホクニヌシ〔王または市長〕‐スセリ姫》の対関係像は ある意味で――想像裡における問題として―― 
《シャクンタラー姫‐ドゥフシャンタ王》類型
もしくは
《アベラール‐エロイーズ》類型
に通じるものがある。また 光源氏においても わづかながら 
かれと藤壺との対関係 
あるいは
のちの正妻・紫の上との対関係形式
において そのような美的形式としてのウタの構造が 形成されるかに見える。
ただ 後者の三ないし四例が オホクニヌシ類型とちがう点は オホクニヌシ類型では その美的世界が まだ どこか彼岸性へと逃げていくかたちの中にあり(つまり 国家成立へ向けての上昇段階にあること) また後者の諸例においては そこでも 美的世界が特定され確定した現実のかたちを採ったとはまだ言い難いものの それが彼岸の世界へ逃げてしまうことには 頓着しないでよい基盤の上にある。と言ってよい。これは ナシオナリテの確立にかかわっていると考えた。市民社会が国家なる社会形態にまで拡張され確立するかどうかにかかわると。

  • ヘーゲルではないが 国家という社会形態の実現は 市民個人どうしの対関係の点でも そしてこのように 市民社会の歴史から見ても 現実性あるいは普遍性の確立に寄与した側面もあるかも知れない。それは 言いかえると 市民スサノヲから はみ出したいわゆるアマテラスなるもっぱらの公民(あるいは 精神主義的貴族)だけではなく 市民スサノヲたち自らが 村なる市民社会という第一階の上に アマテラス圏なる第二階をつくり 二階建ての家(国家)を築こうとしたという一面があるのかも知れない。

次に オホクニヌシ類型においては その対スセリヒメ関係においては いま一つ別の対ヌナカワヒメ関係とはちがって そこに政治的な連関を止揚していると見たのであったが それでは 光源氏類型においては どうか。これは 細かくは さらに追求されるべきであろう。
まず ここで 政治的な連関を揚棄していると表現したが そのように言うことは すでに ナシオナリスムとしての政治的な動き(モメント)を 国家段階のナシオナリテの確立の以前に 止揚しているということを意味する。これは 言い過ぎかも知れない。あるいは 潜在的な力としては 言い過ぎではないかも知れない。光源氏の類型は おおまかに言ってだが ナシオナリスムの段階において このナシオナリスムの政治的な観念の作用(右へならえの共同心理)から 対関係の次元では 自由であった。自由であろうとした。と考えた。つまりは この美的な想像を介しての単なる観測に限っては その通奏低音としては 光源氏の対関係の基本類型は オホクニヌシの類型と 通底しているかに思われる。こういったことも さらにあきらかにすべき課題である。
とは言うものの ただちに言っておかなければならない。はっきり言って 光源氏の対関係は実際には 政治的連関から無縁ではない。ナシオナルな事柄は 市民どうしの対関係に 有形無形に大いにかかわっていると言わねばならないはずだ。国家の成立によって 村社会からナシオナリスムへの上昇の運動が 止めて揚げられたとしても そのナシオナリスムは 言ってみれば不断の努力によって 保守されると言わなければならないはずだから。
あらためて考えて 一方において オホクニヌシ類型の段階にあっては 美的な対関係が この政治的連関(代表的には イヅモ‐ヤマトの連関)によって 観念幻想化させられるというものであったのに対して 歴史的に源氏の段階にあっては はじめに政治的連関(共同体関係であり 国家の経営のことである)が確立されてあって その中で それなりに自由に 対関係の形成が求められたという違いにおいて そうなのである。これが 一方の事態である。
他方においては 対関係としては シャクンタラーにしろアベラールにしろ いづれも一種の美的な対関係が 特定でありさらには排他的であることによって 政治的連関の一定不変性が前提されているとさえ推定されうるか もしくは逆にそのような共同体関係が一定であると前提されることによって市民の対関係には その理念が 求められ描かれるという。というのに対し 光源氏にとっては特定で排他的な美学上の対関係は なんともはっきりしていない。(個人の好みの問題のほかに 美的な想像やこだわりがあったかどうか 明確ではない。)
しかも このように光源氏の類型は 特定の美的理念から自由であることによって その市民の対関係が 総体的に 一種の革命的過程を経過することになる。同じことで言いかえれば 前提されていた一定の共同体関係をさえ改めるといった動態的な過程が 存在することになる。しかも さらにしかも 源氏物語に描かれる共同体関係の革命過程というのは いわゆる幾何学的な交通体系の変革をいうものではなく 王権(社会科学主体)が代替わりするというほどの意ではある。やはり 停滞性のうちにあるとも考えられる。要するに 原理・原則がなく 基準がない。だから この停滞性の舞台の上での革命過程 それなりに自由な対関係の展開過程 これについて この蛇足において捉えておこう。


光源氏類型における政治的連関 もしくは市民・光源氏としての対関係における政治的時間 これは 次のような形式である。
すなわち 一定の共同体関係(一定の帝 mikado amaterasu の前提)の中において それをともかく基礎として ある対関係が形成される。ここまでは むろん シャクンタラーやエロイーズらの場合と同じである。殊に 光源氏にとって 藤壺や紫の上に対しては 美的形式においても そうであった。つまり 共同体関係なる統治の問題がかかわるかたちにあった。そうしてそこへ もしくはその対関係の中から 政治的時間が 生まれる。それは 現政権の動きと絡まって 対関係じたいを その意味で 動態的なものとさせる。恋の話と天下の政治とが おかしな連動のかたちでだが そのように絡まっているのであろう。

  • エロイーズとアベラール(つまり 大雑把にヨーロッパ)では 対関係とはある意味で別に この政治的時間と空間とが 同じくある意味でむしろ純粋に理念的に追求されるとも言えるかも知れない。

たとえば 藤壺は 桐壺院のなくなったあと それまで有形無形いづれにしろ形成してきた光源氏との対関係について考えるとき その継続よりは それを絶って 新帝(東宮)となったわが子・冷泉院の女院としての道を選ぶ。つまり言うまでもなく 単なる市民でなく政治家( amaterasu )の道を選ぶ。そしてこのことは すでにそのとき同時に 他方 光源氏にしてみても 昔かのじょを恋慕していたときのかれではなくなるというそのことにおいて やはり政治的となる。このようにして またこのようにしてのみ 源氏類型は 政治的連関にかかわるのである。また そのような意味で 政治的な世界の変革・革命にもかかわっている。

  • おそらく このことは 通説と変わらないはずである。

繰り返し述べるなら このことは それ自体において オホクニヌシ類型の素形としての《うたの構造》 つまり一方で スセリヒメとの美的形式を有し また一方でヌナカワヒメとの政治的形式を有するという錯綜した構造から 源氏類型が 自由となることを意味する。あるいは 潜在的に積極的な観念の資本となるべきウタの構造が 源氏類型の段階では 留保すべき条件を取り払って 自由な安定した現実となってきていると言ったほうがよい。
とは言っても そこにやはり ウタの構造という場合 いわば《不純物》が交じらないとは言っていないのであった。母斑としてでも 旧い形式が残っている。錯綜するいろんなモメントを容れながら 次元をたがえて・かつそれらのモメントを止揚しつつ 実現されていきつつある。

  • もっとも この点は ナシオナリテの確立・ナシオナルな王権の成立といったことに 土壌としては基本的に起因するに過ぎないと言わなければならないのであろう。

類型的にさらに言いかえるなら 片や はじめに 政治的関係を含んで形成された対関係が その自己の発展として やがて特定的な(一夫一婦という理念的な)関係へと止揚されようとするのに対して 片や むしろ 原理的(はじめ)に 特定的な理念上の対関係を結び(結ぼうとし) その一発展段階において 自分たちの選択として政治的時間を採らざるを得ないようにして取ったという。あちらでは 上昇し(もしくは 社会形態から見れば 下降し・もしくは個人の領域へと狭まり) こちらでは 下降する(もしくは同じく 上昇する・もしくは 政治連関がより一層拡がる)。
そして 同じく 図式的には どちらも 《うたの構造(過程)》を 基本的な世界(その一面)とする。あらかじめ規定しておけば 
《うた(対関係)‐うたがひ(共同体関係的)》
から成るうたの構造である。

  • オホクニヌシの場合は むしろ 国家以前ゆえに共同体間の関係としてのウタガヒが はじめに対関係に 強くのしかかり 源氏では それが すでに市民どうしのウタの次元を基調としたところに介入して来るかたちである。

さらに 重ねて述べよう。源氏物語におかる観念の資本の構造は 一方で 光源氏じしんが 《〔 his own better inclinations を〕 あながちに引きたがへ》るといった行為の形式にある。つまり 引きたがえなくてもよいのだが 一般に 個人が《うたふ》という行為とその関係を持つ。他方で 相手もしくは第三者としては この源氏の《うた》を《うたがふ》という行為関係を持ち これを 構造は含み持っている。また それぞれが 互いに相即的なかたちを呈しているだろう。オホクニヌシ段階では この構造は 基本的にはこれら同じ二つのモメントを宿しながら それらは 必ずしも互いに相即的(有機的)なつながりを持たない。素形としての《うたの構造》としてある。
つまり一方で 素朴直截なる心を述べるスセリヒメとの〔狭義の〕うたの構造を持ち 他方で ヌナカワヒメ求婚の際のような互いの《うたがひ(歌交ひ)》をそこに含む。この二つの局面が分離されたと言ってよいかたちのうちにある。
市民社会が 自治態勢(都市 mura )と生産態勢(企業 ihé capitaliste )とから成るとすれば 市民スサノヲの自治関係は 一面で 観念の資本として成り立っている社会関係を対象として これを考察することができる。すなわち 特に企業(生産態勢)を主体とする社会関係の幾何学的側面 これをいま括弧に入れて 市民社会を考察しようということであり その意味での市民社会学原論を 以上のような前提に立って 述べることができる。
いま 各時代の生産過程の様式を捨象すれば 一般に 対関係もしくは三角関係の錯綜としての《うたの構造》は 観念の資本として それなりに 生産・再生産の過程をたどると見る視点に立つのであり その中にも 市民社会の基軸となる動態的な過程は見出されると考えることになる。
いま 社会形態(政治経済学)および生産態勢(経営学)の領域を不問に付したとするなら――だから実は そのつど相即的に それらの領域へ帰らねば成らないのであるが だから その帰る道を推し測りながら述べることになるのだが―― あらかじめ 帚木冒頭の作者の前口上の部分に拠ってみた限りで この源氏物語が これまで述べてきたような意味で 市民社会学としても考察しうる体系を持ち そこから学びうると言わなければならない。いや 実は 現代においても 現代という条件においてこそ 光源氏の対関係形式は 止揚されて生きると あらかじめ主張しておきたい気持ちに傾く。

  • 愛(人間関係)は 個人的な対関係のそれと 政治的な共同体関係のそれとを持つ。あるいは 両者に同時にかかわる光源氏の時代でも 後者が 前者を圧倒したかも知れない。いや したはずである。現代では――民主政治において―― 個人の愛と政治の愛とのつながりがなくなるのではないが 後者による前者の圧倒を揚げて棄てていく道が すすめられると思う。
  • 政治の圧倒を 経済の愛による圧倒と言いかえるなら わかりやすい。ただし そう言いかえると 心構えだけに見られやすい。
蛇足の補注

なおここで 《うたの構造》というとき その構造および《うた》そのものが 言うまでもなく 対関係および三角関係錯綜のその情況の全体また過程じたいを言っている。
たとえば 物語五十四帖全体で 七九五首詠まれるその個々の歌(そこにも構造があるかも知れない)を そのまま 言うのではない。
煩をいとわず重ねて述べておくなら 一方で 古事記においては 対関係を形成しようという情況に限れば 実際に詠まれた《うた》じたいが――つまり そのやり取りの相互の関係じたいが―― 主要なモメントとして そのまま《うたの構造》領域を形作っている。他方 源氏物語では 必ずしもそうではなくて もはや実際に交わされる《和歌》は 対関係形成へのひとつのモメントとなるものではあるが それは その歌のやり取りされる前後の情況に比べれば むしろその背景へと退くとさえ言うべき位置にある。
ここでは 詳しい議論は差し控えるが 次の見解が 参照されるべきである。たとえば

・・おもしろいのは 和歌の射程というのは散文をはるかに超える と同時に 物語の中につくられている現実の前では和歌は無力というか・・・和歌でしかつながらない関係を 和歌によってはっきりさせていくということがある。これは 無力ということではなくて それだけ和歌が威力を持つということかな 両者うらおもての関係というべきでしょうか。(秋山)
秋山虔今西祐一郎・鈴木日出男・藤井貞和 共同討議:源氏物語を読む――《若紫》《漂標》を例として――  《國文学》vol.25 no.6 1980/5 →

いま「源氏物語」をどう読むか

いま「源氏物語」をどう読むか

 )

これは おおきな範疇としての《うたの構造――観念の資本――》の中に さらに《和歌の構造(威力)》が立てられなくはないといった視点のように思われる。

  • この点 直截には 本文の章一およびその補を参照されよ。

この課題をもあわせて もはや本論に入ることにしよう。
(つづく→2006-07-16 - caguirofie060716)