caguirofie

哲学いろいろ

#3

――源氏物語に寄せて――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708

序 光源氏における対関係の形式 (3)

――市民社会学の諸概念――

補注4

ヘーゲルの言う《どうでもよさ》または《偶有性》とは まず ここで アウグスティヌスから出発しようとしたからには たとえばアウグスティヌスが 次のように述べるときのその概念を指して言っている。

〔造られたものにおいては〕 失われ 減少され得るすべてのもの 例えば大きさと性質 また或る他のものとの関係において言われるもの 例えば友情 親戚 召使 類似 等しさその他 また位置 状態 場所 時間 行為 情念は偶有的である。
アウグスティヌス三位一体論 5:5)

なお ちなみに ここでは このように概念形成として古典からの引用を むしろ主としたいと思う。それは――前提とのつながりにおいて―― 市民社会学が それとして固有の一ジャンルを形成するとは言え それが 社会形態の次元 すなわち政治学および経済学との連動の過程の中にあり そこでの未来社会への移行を ある意味で大前提としていると言わねばならないからであり ただアンソロジーを編むようなかたちにおいて説くことを ある意味で余儀なくされるのは 止むを得ないことのように思われるからである。
いや ただし その積極的な意味あいというのは まず 消極的に言って 愛の行為は 必ずしもその基本形式としての時間の発進(対関係の形成・成就)の中にのみ存在するというものではなく その時間・対関係形成のある一定の猶予(滞留)の中にも 同じく十全に見出されると言わなければならないことの内にある。それは 何も一種の敗北主義からそう言うのではなく 時代の移行期に いま焦点をあてたいからである。すなわち 一つに のちにも見るように スサノヲイスト光源氏が のちに王権を回復してアマテラス主体へと自己変革する革命の過程に焦点をあてようということでもある。
これを ポジティヴなかたちに言いかえれば 対関係時間の猶予の形式 その猶予形式の形成(モラトリアム人間)も 憂うつの一基本過程であるのであって 従って いま 古典からのアンソロジーを編むことのほうが 新しい時代への新しい対関係形式の形成には 積極的に 資すると密かに考えるからである。
さらにちなみに ここでの典拠としてのヘーゲルが出たついでに取り上げておくとすれば たとえばかれが 《法の哲学〈1〉 (中公クラシックス)》の序文で その理念を 次のように述べるときそのことは われわれの一つの灯火となるであろう。

熱きにもあらず 冷やかにもあらず それゆえに吐き出されるようなしろものたる 真理にだんだん近づく哲学などでもっては理性は満足しない。他方また この現世ではたしかに万事がひどいか せいぜい中くらいの状態だということは認めるが そこではどうせましなものは得られないものとし それゆえただ現実との平和が保たれさえすればいいとするような 冷たい絶望でもっても理性は満足しない。認識が得させるものは もっと熱い 現実との平和である。
(ゲオルク・W・F・ヘーゲル法の哲学〈1〉 (中公クラシックス) 序文)

《友情 情念・・・》といった対関係の要因は 本来 有限なのであって 《どうでもよい》からこそ 例えば一つに源氏類型が われわれの心にかかわるのであり われわれは 市民社会学ジャンルとしては そこに 時間を形成しようと企てるものであり それは言ってみれば 積極的に省みられるべき観念の資本(およびその剰余形態)なのである。これによって 副題の所以をなす。(したがって 《どうでもよい時間要因》に対する態度は 《無形式であってよい》というのではない。)

補注5

対関係(愛および愛欲)と生産(労働)との関係については いま 例として 次の文章に見られるような視点も参看されるべきであろうと思われる。

性器的人間は 労働や仕事を エロスの抑圧のない昇華(サブリメーション)として行なう。昇華とは 本来の目標から 社会的に生産的価値のある目標または対象にエロスを向け換える自我の働きである。
つまり オルガスム体験の満足能力が高まれば高まるほど 生物的な核から開放されて 自我の自由になるエロスのエネルギーは豊かになるが この豊かなエネルギーは オルガスム体験によって周期的に完全に開放されるのでうっ積しない。したがって 自我はうっ積したリビドーの抑圧にエネルギーを浪費しないですむ。
自我のエネルギーは すべて創造的生産的な仕事や労働の源泉となる。仕事や労働もまた 創造的エロスの楽しみ よろこびとなる。
ノイローゼ的人間は たえずリビドーのうっ積に脅かされ その抑圧に自我のエネルギーを消耗してしまうために 労働や仕事は常に 性的欲求と自我の葛藤の中で営まれる。そして このうっ積したリビドーを抑圧する自我の努力 つまり反動形成によって労働や仕事をする。したがって少しでもリビドーのうっ積 緊張が高まれば 労働障害が起こり どんな仕事も性的欲求との葛藤にまきこまれてしまう。
労働や仕事は義務であり 常にかれらは 働かねばならない強迫に駆られる労働ロボットである。道徳的マゾヒズムこそ労働意欲の源泉である。かれらは せかせか働いていないとすぐ不安になる。なぜならば 労働は リビドーを抑圧する努力であり もし労働を休んで 抑圧がゆるみ リビドーが意識に上ってくれば すぐ敏感に罪悪感をおこすからである。またかりにそのエネルギーを性生活に向けてもオルガスムの不能のために少しも開放されないからである。
しばしばかれらは日曜(サンデイ)ノイローゼに陥る。日曜ほど不安な日はない。なぜならば休息は 労働による抑圧がゆるみリビドーの不安が高まるからである。しかもかれらは 月曜(マンデイ)ノイローゼにもかかる。日曜に抑圧のゆるんだリビドーを 完全に満足し開放しないまま再び月曜の労働によって抑圧せねばならなくなるからである。
これに反して性器的人間は たのしく働き 完全な性的満足を得て再びたのしく働く。その周期は自然の生命のそれに一致し かれらの生活では 社会人と自然人が一つになる。

  • 《社会人》・特には 公民アマテラスの側面が 《自然人》すなわちスサノヲと一つになると。《S-A》連関主体としての人間(スサノヲ)のことだと解釈する。

小此木啓吾エロス的人間論―フロイトを超えるもの (講談社現代新書 239)  6・性器的人間への道)

本来 人は 生の本能(エロス)を 動物と共有しているものであるのに だから 《社会人と自然人とは 一つである》ものなのに――だから 《自然に還る》のみであってはならないのに――  源氏物語の作者に言わせれば 《うちつけのすきずきしさ》が オホクニヌシ類型段階の対関係およびその種の共同観念として 幻想的に共有されていて それは 《性器的人間》の実現に到っていないと言うのである。
それにしても 性器的人間とはよくも名づけたものだと驚かざるを得ないが それは別として そうでない場合には たとえば《色好み》の密教化が横行していて むしろこの慣習を体現することが 文明の成果であると考えられ 《いとど かかるすきごとどもを 末の世にも聞き伝へて 軽びたる名を流さむ》と 批評しあうというのであるから 一体 人は 何を文明と見ているのか。《S-A》連関なる人・スサノヲが 逆立ちしている つまり 頭であるアマテラスの要素によって 立っているからではないのか。
小此木啓吾は 容赦ない。

ノイローゼ的人間は 性的満足のないまま ひたすら禁欲的に硬化した一夫一婦主義を守る。それを伴侶への愛情からであると信じているが 実際は 性を恐れ 性の禁止から自由になっていないからである。お互いの支配欲 所有欲 サド・マゾ的な傷つけ合い 世間体 適応主義 善人ぶる偽善性などが 一夫一婦主義を守る真の動機である。
しかし 性器的人間は 性器性欲の優位を守るために その障壁となる社会・経済上の困難 家族主義の拘束と勇敢に戦う。たとえこの行動が処女性のタブーや一夫一婦主義への強迫的な固執などの旧道徳への反逆を意味するにせよである。
ただし 性器的人間は十分な性的満足能力を持つから 多くの場合一夫一婦主義を維持するために 無理に背伸びした権威的道徳の脅しや強迫や抑圧の力を借りなくても自然にこのモラルを守ることができる。・・・
エロス的人間論―フロイトを超えるもの (講談社現代新書 239) )

引用をこれ以上重ねても切りがないと思われるので ひとまず序章としては これをもって締めくくりとしよう。小此木啓吾市民社会学は 本文では触れることもなかったが 間接的に援用させてもらう場合もあるかと考える。
ともあれ 重ねて言えることは 《熱きにもあらず 冷やかにもあらず それゆえに吐き出されるようなしろもの》のたぐいは 現代人の不安に対して 一たんそれを解消させる需要を満たしているようで  実は そのうっ積的再生産を助長するものであるかも知れない。

性器的人間こそ 既存社会の批判と 変革する真の革命を目指して起ちあがる急進的な前衛となるにちがいない。
小此木啓吾:前掲書)

このような共同主観の再認とその広く主観共同化においてこそ あらかじめ述べるなら おおきくS.フロイトとK.マルクスは 互いに一致すると考えることも出来るかも知れない。それが ただちに よいものかどうかを含めて ここは そのことを議論する場ではない。または その角度から議論をする場ではない。そのような議論があるかも知れないというのみである。いづれにしても たしかに価値観の問題のほうとしては そういう方向にある。その方向を わづかにでも わが源氏物語の中にさぐっていこうとすることになる。 
もっと狂信的な物言いをするならば いま述べてきた方向での共同主観とは 動態としての 霊的な性関係の共同のことである。平俗に言えば 幽霊において 人びとは 性の・愛欲の・そして愛の動態過程を共有しているということである。

  • 人に言わせれば あの《寅さん》が 幽霊となって あなたの内に働いているというのである。
  • 好色生活を実地においておこなえと あたかもわれわれが言ったように受け取られたかも知れない。紫式部は それでは 何と言おうとしたのか。
  • まずは 光源氏というフィクションの中の一主人公の問題として論じていて それが 現実直視の一基盤となるであろうと考えられる。
  • 念のために言うとすれば 愛の中に愛欲を持ち この魂を人間は動物と共有すると言ったからといって かれのインテリゲンティア(知解力)が 動物の無精神へ落ちていくということにはならず かれの精神は これらすべてをよく知解し その現実的な判断の上に立つということに等しい。現実直視の一基盤である。この当然の結論を 物語りの中に探り 現代における再びの里程標をつくるべく議論を起こしておきたいと願うものである。

(序の一のおわり。つづく→2006-07-12 - caguirofie060712)