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哲学いろいろ

#2

――キリスト史観への序説――

人間(現実)が変わる――万葉歌に寄せて――

第一章

籠(こ)もよ み籠持ち            籠毛与 美籠母乳
堀串(ふくし)もよ み堀串持ち     布久思毛与 美夫君志持  
この丘に 菜摘ます児          此丘尓 菜採須児
家聞かな 名告(の)らさね       家吉閑 名告紗根
そらみつ 大和の国は          虚見津 山跡乃国者
おしなべて われこそ居れ        押奈戸手 吾許曾居
しきなべて われこそ座せ        師吉名倍手 吾許曾座
われにこそは 告らめ          我許曾歯 告目
家をも名をも                 家呼毛名雄母
(オホハツセワカタケのすめらみこと〔雄略天皇〕 巻一・1番)

万葉集 全訳注原文付(一) (講談社文庫)

万葉集 全訳注原文付(一) (講談社文庫)

籠もよい籠を持ち 堀串(へら)もよい堀串を持って この岡に菜をお摘みの娘さん。
あなたはどこの家のひとか。名は何という。
そらみつ大和の国は すべて私が従えて支配しているのだ。
わたしには おしえてくれるでしょうね。あなたの家をも名をも。

*1に述べた理論によって このうたを読もうと思えば 二つの論点があると思います。
第一。

本来 春の野遊びの若菜摘みの歌が 雄略物語にとり入れられた一首。その際 

そらみつ 大和の国は
おしなべて われこそ居れ
しきなべて われこそ座せ

が挿入された。
中西進万葉集 全訳注原文付(一) (講談社文庫)

ということにかんして。

うたの作者・オホハツセワカタケが 古代市民の社会形態における《アマテラス者》であるとするなら まん中に挿入された三行六句の部分が このA者の視点を表わし そのときまた 共同観念――ひとつのナショナリズム――を予定(前提)していると思われます。古代市民の社会形態が 国家であるとするなら 《アマテラス圏‐スサノヲ圏から成る両階層の連関体制》なる国家の視点を表わすと考えられます。
この元のうたのほうが 《スサノヲ者・古代市民》の視点を表わしていることになります。

籠もよみ籠持ち 堀串もよみ堀串持ち       
この丘に 菜摘ます児
          
家聞かな 名告らさね            
われにこそは告らめ 家をも名をも             

この元のうたで スサノヲ市民圏における共同主観( common sense )の一つの動態を表わすということだと捉えます。万葉集巻頭のうたでは この動態としての社会生活の上に・つまりスサノヲ市民圏の上に はっきりとアマテラス公民圏なる第二階が 築かれるに到ったと言えるでしょう。生活社会が 形態として 二階建てになったと言えるようです。 
そこで 第二の論点は 共同主観(つまり 生活)が このように 性関係において始まると考えてよいと思われることです。
S者市民(つまり その内面としては 身体(S)‐精神(A)の一体なる一個の S-A連関主体ですが)ともうひとりのS者との関係 その共同性は 自然的にはまず 両性の二角関係もしくは対(つい)の関係に現われると思われることです。
このとき 第一の論点とのかんれんで言うとすると この両性の二角関係としてのS者どうしの関係(つまりインタスサノヲイズム)が 社会形態が国家であるならば 《A者》との連関において 展開されるということだと考えられます。第二階が 第一階に介入してきます。(その逆の動きもあるかも知れません。)つまり 《S圏‐A圏の連関形態》なる場において 生きることになるし 実際 生きていると言わねばならないと思います。
まず 議論の出発点は りんかくとして これら二つの論点によって 整ったと思われます。それほど理解するに困難なことはないと思います。