この一文に接すると 現実性に立ったと感じる。
国人らはあなたのもとに王の敵の心で倒れる。
(詩編 (現代聖書注解―インタープリテイション・シリーズ) 44:6=Vulgata )
アウグスティヌス:アウグスティヌス三位一体論(中沢宣夫訳p.326)に出ているかたちだが 一般に次の訳文である。
- あなたの矢は鋭く、王の敵のただ中に飛び / 諸国の民はあなたの足もとに倒れる。(詩編 (現代聖書注解―インタープリテイション・シリーズ)45:5-6。新共同訳)
- Tes flèches sont aiguës; Des peuples tomberont sous toi; Elles perceront le coeur des ennemis du roi.(45:5-6 Louis Segond)
《現実性に立ったと感じる》ことは ひょっとすると 詩的言語のしわざなのかも知れない。
《あくまで異質なもの つまりけっして形式化されることのない無限(無限定)の運動性である〈原記号態le sémiotique 〉》のはたらきであるかも知れない。
その場合には この《想像的父》の作用である《ル・セミオチック》と呼ばれるちからは 《比喩的にと同時に実質的に母の身体である》と説かれたことになる。
ううううううううーーーーーーーーん。
- ちなみに わたしは すでに倒れたという前提がある。だとしても――不幸をよろこぶようなのは―― solitaire ゆえだと言われてしまうか。
réflexions
《母の身体である》と言ったあと
自己と他者 主体と客体がいまだ未分化なまま母と融合している幼児の状態といいかえてもよいだろう。
と説明が続いていたのを 見落としていた。子として《母子融合の状態にあると感じる》ことが あたかも記号の素粒子が飛んできて作用するありさまだということだろうか。直接に幸せな子である状態としては感じていないが 結局はそういうことだというのかなぁ。
もし論理的にのみ反論するとすれば こうなる。
母子融合の状態が溶けたあと 主体と主体 人間と人間という関係において 母と相い向かうとき そのときでも ほかの家族の者に向かいあうときとほとんど同じように いわゆる自然の絆は 同時に感じていると思う。言いかえると 母子の未分化な状態につうじるような自然の感情が あったように思う。(これは たとえば けんかしているときでも 家族の者なら ほかの人びととの関係とは別に 自然の感情があるのではないかという意味である。)
きわめて簡略な議論としては こうなるのだろうか。神の背面を見る 神を感じたといった体験というものは 記号(《しるし》と言ったほうがよいかも)の素粒子が 宇宙からやってきて身体のなかで反応を起こしているのだと。そしてそれは 母とつながった幼児の状態が再現されていると捉えられるのだと。
どうもまだ しっくり来ないなぁ。再度 保留。