caguirofie

哲学いろいろ

#18

もくじ→2006-08-13 - caguirofie060813

《シントイスム‐クリスチア二スム》連関(神神習合)について――梅原古代学の方法への批判――(その三)

はじめに断わっておきたい。梅原理論を 概念的に論理的に批判することじたいは むしろ優しいことである。なぜなら かれは かれのイエス・キリストその人の理解において 《私のことばは いささかエクセントリックにひびくかもしれない》(p.75)と述べて 実は結局は クリスチア二スムに必ずしも正面から立ち向かっているのではないから。しかしなお ここでその理論をとりあげて批判しておかねばならないと思われるのには ひきつづいて《・・・ひびくかもしれないが ついでにもっとエクセントリックなことを言う》と述べて ここに表明された視点に結局は滞留しようとしていると言わなければならない事情が見出されるからである。

さてそれでは 梅原猛その人は どこに滞留しているのか。それは かれ自身言うように《真理の坑夫》であること そこであろう。具体的な論点に入る前に われわれはただちに このように滞留する方法についての議論から始めることができる。
まず 真理の坑夫であること これは重要である。《知らないことと 思惟(おも)わないこととは別のことである》が 人間の観想的な知恵と論理的な知識という知解行為を通して つまり《知ること》をとおして 自己を《思惟うこと》がゆたかものとなるからである。だから カトリシスムにしろプロテスタンティスムにしろ その知解行為は 有益であって これを必ずしも明確に知解して来なかったシントイスムは この神学を仰ぎ受け容れるべきである。

  • この神学というとき 近代西欧の政治経済学ないし市民社会学といった理論体系を含めて言うことができるはずである。

しかるに 真理の坑夫であることは 重要であり 真理の坑夫は われわれの宝である。信仰の次元においては 次のように説かれることを われわれは 参照する。

すでに信ずる人びとに かれらが信仰の言葉のうちに留まり それから真理へ さらに永遠性(――彼岸性・アマテラシテの獲得――)へ導かれて 死から解放されるように(――肉体の死からというよりも スサノヲも持つアマテラスの光の欠如 つまり やみ から解放されるように――) キリストは語りかけたまう。

もし わが言葉に留まるなら あなたがたは真実に私の弟子なのである。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 8:31)

そしてのち

もはや私はあなたがたをしもべとは言わないで 友と言おう。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 15:15)

さらにキリストはつづいて かれらが いかなる実を結ぶのですか と問い求めるように

あなたがたは 真理を知るであろう。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 8:33)

と語りかけたまうたのである。さらにまた かれらがあたかも 真理は死ぬべき者に何の益があるのですかと言うかのように

真理はあなたがたを自由にするであろう。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 8:33)

と言われるのである。死から 壊敗から 可変性からでないなら かれらは何から自由になるのであろうか。・・・
アウグスティヌス三位一体論 4:18)

真理の坑夫であることは重要である。また 

私たち各自に御霊(カミ・それとしてのアマテラシテ)の顕現が与えられているのは 或る有益な目的のためである。

  • カミの霊の顕現が与えられることによって 真理の坑夫・アマテラス学者になりうる。

すなわち 或る人には御霊によって知恵の言葉が与えられ 或る人には同じ御霊によって 知識の言葉が与えられている
コリント人への手紙第1 (ティンデル聖書注解) 12:7−8)

と記されていることによって もしこの二つが つまり 知恵は神的なものに 知識は人間的なものに帰せられているというように区別されるなら 私はこの知恵と知識をキリストにおいて認めるのである。
アウグスティヌス三位一体論 13:19)

というようにである。
しかし 人は この真理の坑夫であることに滞留してよいであろうか。それは いま信仰の次元を別にすれば うたの構造が そしてそこに留まることが 方法の方法としての滞留ではなくして それとは別個に 或る理論体系を打ち立てることへと すりかえられるように導かれていってよいものであろうか。
いまたとえ信仰の次元を別にしても たとえば 梅原のクリスチア二スム論のように 《福音書は こういう神の子と名のった人間イエスの悲劇的な死の事実を 死・復活の教説で説明したパウロの教義によって脚色されたところに生じたみごとな文学的伝記書といってよいかもしれない。いささか それは大胆すぎる聖書の解釈といえるかもしれない。〔ついでにもう一つ大胆すぎる仮説を提供しておこう。〕》(p.34)というふうに考察を進める。そのとき 《真理の坑夫》の世界に留まろうとすることが 真理の坑夫であるのだろうか。
人麻呂の《文学的伝記書》を語り作成することが かれのうたの構造を明らかにして かれを思想的に捉えたと言えるのだろうか。真理の坑道に行き詰まりがあるのだろうか。行き詰まる真理が真理と言えるだろうか。

  • 《わたしは 〈文学的伝記書〉以上の内容を捉え得なかった》と告白することが 《真理の坑夫であること》だろうか。真理は 文学どまりなのか。《みごとな脚色》程度が 真理の限界か。

《人麻呂のような歌は もう二度と現われないだろう》(梅原〈人麻呂長歌鑑賞〉万葉を考える)というように 《パウロの教義によって脚色されたところに生じたみごとな文学的伝記書》とすることによって 自ら真理の坑道に みちを閉ざしていないだろうか。真理というならである。
それとも カミの言葉は 或る人間には語りかけてくるが 他の人間にとっては 無縁であると言うかのように その坑道には地上的な限界があるとのたまうのだろうか。それは ただの人間のそして梅原猛の知解真実の限界ではないのか。
けれども イエス・キリストは あるいは人麻呂は 人間の子であり 人間であるのではなかったか。梅原その人は 人間の子であり人間であるのではないのか。それとも梅原一人にのみ この真理のカミの言葉は与えられ これを享受することがゆるされ そのかれの人間(坑夫)の言葉としては 《大胆すぎる解釈。いささかエクセントリックにひびくかも知れない》という言葉においてしか語りえないと言うのであろうか。
おそらくわたしたちは 梅原は カミの言葉に触れているのだと思う。しかしかれは 《わが(=イエスの)言葉に留まる》ことを拒絶するかのように 同じはじめの人間の言葉で 上に見たように語りかけた。わたしはこれが カミの言葉なのだと思う。人間なる人麻呂 人間なるイエスに対して 真理(いま かたちとして うたの構造)の坑道を断ちふさぐかのようにして かれらをカミとする。または われわれが触れ得ない種の人間であると評する。これが カミの言葉であると思う。そのようにしか 人間の言葉では表象しえず表現しえないという事実が カミの言葉であることのかすかな証拠であると考える。
もちろんこれは アマテラス語による(翻訳としての・代理表現としての)カミの言葉であるにすぎない。われわれは 人麻呂やイエスと同じ人間として そのうたの構造において 人間の言葉に到達しなければならないと思う。
真理の坑夫であることは そのために有益なことであり かれの提出する学術研究は 一般にいまだ知ることのなかった・しかしいづれは同じ人間として自己を思惟う中に触れ得たであろう人びとの そのかれのうたの構造を明らかにするだろうからである。ここに 主観共同が生まれる。このためには われわれは《知恵のある者を責め》なければならない。《そうすれば かれはあなたを愛し 学は進む》と言われる。これは ヤシロロジの基礎である。方法の方法として滞留するときの基礎である。

人の子イエスに より多くの信頼をおくわれわれは イエスが死の前に言ったという《わが神 わが神 われを見捨て給うや》ということばを重視したいと思う。このことばは マルコによってはっきりと 《エロイ エロイ ラマ サバクタニ》と語られている。私はここに人間イエスの苦悩を見るのである。この苦悩は 神の子としての自負とはいささか別である。そこに予期に反して 非道な死を遂げなければならなかった人間の血の出るような嘆きがある。福音書は こういう・・・みごとな文学的伝記書といってよいかもしれない。
梅原猛《仏教の思想》(上)角川書店

われわれは イエス・キリストが 神の子であったかどうか それは分からない。古事記は オホタタネコが 神の子であったと記す。シントイスムの三位一体なるカミを信じるわれわれは――ヤシロロジとして信じるわれわれは―― おそらく イエス・キリストも 神の子なるカミであったと思う。しかし《われわれは これからどうなるのか それはわからない》と言わなければならない。おそらく 梅原とともに 《人の子イエスに より多くの信頼をおく》われわれとしても おそらく《人間イエスの苦悩を見る》ことに真実があるのだろうと思う。

わたしはあなたのみ名を兄弟たちに告げ
会衆の中であなたをほめたたえるでしょう。
・・・
大いなる会衆の中に
わたしの讃美はあなたから出るのです。
詩編 (現代聖書注解―インタープリテイション・シリーズ)22)

  • と続くことを無視することはできない。このような指摘は わたし個人は必ずしもキリスト者であるとは思わないカトリック作家の遠藤周作にすでにある。

けれどもわれわれは このような経験的なことがらを超えていかねばならないであろう。経験的な事柄の中に カミを見出し これをたたえることは それがむしろカミの言葉であると思うのであって われわれはこれを超えて 人間の言葉に到達すべきなのである。
《人間イエスの苦悩を見る》という言葉は 《栄光から栄光へ》というときの初めの栄光に立った人間の言葉であって この《苦悩》に触れ得たと捉え この苦悩を共同主観においてうたおうとすることは 《この謎において鏡をとおして》ヤシロの奥なる存在(または 非存在)を見まつるというのではなく 鏡を見ている・ヤシロそのものを見ている というに過ぎない。鏡を見るそこだけにでも 人間の言葉に通じる栄光があるけれども われわれが到達すべき人間の言葉は それら鏡に映った経験現実を超えて捉えようとする経験現実上の普通の言葉である。苦悩の深さ 自負の大きさ等々 等々 これらを謎において鏡をとおして 捉えて行かなければいけない。

  • たとえば カミから見捨てられることを そのカミを讃える場とした などと見まつっていくこと。 

そして人間の苦悩(また 知恵でもよい)の栄光をうったえることは はじめの経験的な栄光ではあっても だからそこにおける学問体系ではあっても これを《知らないこと》に何の支障もない。それを《知らない》でも そのことを――つまり 鏡を知らなくても その鏡をとおして カミの言葉のありかとあり方とを――《思惟(おも)っていること》はありうる。むしろ 理性的動物たるわれわれ人間は 誰もが見ている日常茶飯の事柄で 表現すべきだが 目的は その鏡をとおして・ヤシロを超えて 見ようとすることである。《みごとな文学的伝記書といってよい》ことを知らなくても その奥にあるものを思っている・問い求めていることはありうる。栄光から栄光へを思わなければいけない。そうでなく 経験現実のことがらを整理してはじめの栄光をたたえただけであるなら それはあまりにも《大胆すぎる解釈》なのである。カミの言葉に関することとしてはである。
われわれは この人間の苦悩または知恵の経験的なことがらの中に 《うたの構造》を求めなければなるまい。われわれが はじめに設定した視座が このことを要請する。しかもこのとき視座は 視座そのものは その内実が知られていないときでも 誰もがあの最初の栄光(それは 共同主観である)に浴しているとするかぎりで 一つの動態的な過程として われわれの目の前にあるその当のものなのであるから。それは 近代市民のキャピタリスムの誕生の以前に すでにわれわれは日本としては 古事記万葉集の世界にこれを求めることができる。時代の隔絶(非連続性)を超えて うたの構造としては歴史連続的であるだろう。それは 古代市民のナシオナリスム形態を超えて あるいは ヨーロッパ古代市民ないし封建市民のカトリシスムもしくは近代市民のプロテスタント・キャピタリスムを超えて そのような経験的なものを超えて われわれの内なる観念の資本として 実際である。
(つづく→2006-09-01 - caguirofie060901)