caguirofie

哲学いろいろ

#18

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第三日( r ) (〔精神の形式と〕《情況》)

――ええ そうですね。
こう思います。
今のナラシンハさんの議論は そこにぼくたちの立ち場から言って ナラシンハさんの言葉を借りれば 信念の傾き具合いの差異によって 必ずしも受け容れられない・あるいは 徹底を欠いているのではないかと思われる点があるのですが

  • たとえば 《理論家》のくだりでは その理論体系の論理的な一貫性に対して 自己の拠り所を持つというのではなく そうではなく その論理的な一貫性の次元をもさらに超えたところに存在すると思われる者への《敬信》あるいは ナラシンハさんの言葉を借りれば《帰同》にこそ 拠り所を見出しているというふうに この《理論家》の概念を 徹底させる必要がある。言いかえると 認識の出発点の背景を 認識するのではなく すでに 出発している自己の行為・形式をそのまま 認識すると同時に 実践しているというふうにして 議論をすすめていく必要があるのではないか こう思われるのですが。

しかし 全体的な構想というか あるいは基本的な立脚点については これまでよりさらに ぼくにとっても おかげで明らかになったように思われるのです。
もっとも まだナラシンハさんの立ち場とぼくのそれとが 折衷されるなどということはおろか(それは 目指しているものではないわけですが) 融合しがたいとも 思われます。つまり ぼくたちにとっては プラトンの――かれは ぼくたちの世界の人であるわけですが―― 内容としては イデア論 形式としては 国家(政治)論にそれぞれ近いというように 感じられます。
この点を明らかにしていくことは むしろこのまま議論をすすめていく過程で はっきりとした形をとれば よいというふうに思われます。つまり 行為の形式を焦点とするのでしたから たとえば身分社会といった具体的な情況にかんする議論をすすめていくのがよいと思うのです。
いま 別の角度から言って ナラシンハさんの考えは 実は一言でいって ぼくたちにとって極めて特異なものに見えるということになるのですが それは こういうことだと考えます。
まず ぼくたちの 《情況》に対するあり方ですが それは すでに述べたように ぼくたちの《存在》といわゆる《情況》とは そもそも初めに断絶していると考えられるのです。つまりぼくたちの存在は 個別性としてあり その個別性に属さないものは すべて・すなわち外界のすべては 《情況》であるということになります。
情況には ぼくたちの存在が 実体的であるための自己否定性が 少なくともぼくたちの《個別性》と同じ境位においては ありえない点において 断絶している・従って 互いに 疎遠であると思われます。
しかしそこで ぼくたちの存在は 個別性であるだけではなく 人類としての存在である。そのように普遍性をも持っている。たとえば 卑近な例として まったくの他人――かれと結局は 《帰同》の関係で 通底したかたちでのその他人――のこしらえた食事を 平気で(つまり どうでもよい形式に 互いに のっとって)おいしく食べることが あります。そして この普遍性つまり類的な存在性が いかにすれば ふつうの形で無理なく 発現されるかと問うならば それは 抽象的には 個別性と普遍性とを ともに活かすような存在としてあること と答えなければなりません。従って やはり抽象的だがそれを敢行するならば そこにおいては 《個別性》が 非個別性としてある《情況》に対して何らかの働きかけをなす つまり 個別性としての個人一人ひとりが そのような行為によって はたらきかけて ぼくたちと情況との関係(闘い)が ぼくたちのどの一人をとっても すべて《形式》として 同位(もしくは 等位)のものであるということを目指すことで なければなりません。
そうであるなら 個別性としての一人ひとりは その情況との関係において(つまり 《形式》においてということですが) 互いに同位であり その意味で 平等(ないし自由)であり その限りで普遍的でもあることによって 現実性を獲得するという意味で それぞれ一個の《特殊性》となる。
あるいは 別の言い方をすれば それぞれが固有の《個別性(個性)》を発現させて 《人格(人間としての格位)》を完成させるという意味で 《個体》となる。そして そのようにして 個別性を捨てることなく しかも普遍的な類としての存在となる。このことが 抽象的であるが 原則であるならば この《特殊性》のあり方が 次に問題となります。
言いかえると 人格というような言葉を使いましたが そのイデア論としての或る普遍性(つまり ナラシンハさんのおっしゃった《理論》ですが)を追求するというのではなく また 先ほどからナラシンハさんの提示なさったような 情況の全体観をつくりあげるべく 認識の出発点の把握においての普遍性(《背景》論と言うべきもの)を議論していくというのでもなく ただちにぼくたちは――個別性として つまり この個別性を捨てることなく ただし 普遍性との関係を見すえて―― つねに特殊性の領域をとおして 論議していくべきではないか こう思われるのです。ぼくたちは これまで そのための地ならしをおこなっていたとも いま 考えられるのですが。・・・
そこで 今日の予定へとすすみたいと思うのです。いささか強引な進め方かと思いますが むしろ はじめに戻ったと言っても よいかと思うのです。
――回り道は 有益であったかも知れないが まだ 有効ではないということだな。うん。この有効性を論じることが はじめからの議論の焦点であったとわたしも 思う。なるほど はじめに《精神》の内容としてのイデア論を わたしたちは――議論としては――捨てた。次に 精神の形式にかんする帰同とか疎外とかの全体論 あるいは 家族や国家(政治)の契機をとおしての情況にかんする全体観 これらも ここで卒業しなければならない。
あるいは 時間観の違いとか また 思考形式のあり方の違いとか 情況ないし精神に関する 趣味とか背景とかについての或る種の普遍性(ないし客観性)を求める議論 これからも去る。現在という 具体的な場における 善悪の判断の基準 その有効性を 特殊性つまりその具体的な場そのものにおいて 問うということになるのだと。いや ここでは 議論という実践なのだから 情況をそしてその特殊性を――歴史的なあり方やその領域問題としても―― 問うということに・・・。
――ええ。
――わたしたちは 小説作品を作り上げるというのではないから 個々の特殊性の場そのものにおいてではなく この歴史的な特殊性を 問うていくということに・・・。
――ええ。つまり・・・。
――そこで 身分社会といった特殊性を テーマにするという・・・。
――・・・。
――わかりました。
――ええ。つまり ぼくたちにそれぞれ固有の《個別性》――それは むしろ ちからだと思うのですが―― これを 情況に対して発現させることといった《特殊性》は 具体的には たとえば《祈り》を頂点とする《思惟》の領域に属することがらであるだろうし またあるいは いわゆる《労働》という・思惟行為の発現に属するものであるだろうし まず それらから 社会的な身分関係が 起きてくるものと考えられます。この点が 今日ぼくの用意してきた議論なのですが 思惟とか労働とかいった個別性ないし特殊性の個々の例については あとで触れることにして その意味での特殊性の《ちから》によって ぼくたちは個体として情況にどう関係する(闘う)かということが 基本的な点だと思うのです。このことから 入っていきたいと思います。


初めにもう一度 それについて ナラシンハさんの立ち場を 対比させて確認しつつ 考えていくことにすします。――
そこではまず この特殊性は 個人が例えば家族といった存在をとおして 国家というその対極をみつめつつ あるいは 家族と国家との全体情況を 生産をとおして 見つめつつ 一般に 現在という情況と関係するということに その基本的な行為があると述べられています。

  • 生産をことさら これまで言わなかったのは すでに初めから この生産は すべての基礎であり これを前提として 精神の形式ないし意志 という中軸をとおして 議論してきた恰好になると思いますが。

次に そこでは 個人は 同じように 直接には《個別性》としてあるのだけれど しかしそれに対して 《非個別性》としての《情況》が対立するというふうに考えるのではなく 実はすでに初めに この《個別性》は いわゆる《情況》全体の中にも生きていると捉えられている。従ってそこでは そもそも今度は 個別性に対する《普遍性》は 個人の《精神》の全領域に属する事柄であるとともに 同じく《情況》の全体でもある。従って《個人》は 必ずしも《情況》と闘うというのではなく さらに 個別性および普遍性を含むところのそれら《精神》の全領域および《情況》の全体について ともに 個人の在り様としてのそれぞれその基本的な要素(契機)が 明確にそれぞれ説かれてくる。すなわち 《帰同》と《疎外》 あるいは言いかえれば 《家族》と《国家》というふうにです。
それでは ここで・つまり このような内容を持った世界の中にあって その普遍性(類的な存在)に対して 個別性は いかにして 現実性としての《特殊性》を獲得するのか。
それは――ぼくが考えるに―― 実は すでに獲得されているのであり それはただ 現実(現実性)における一方の究極としての《家族》の一員であることと 同じくもう一方の究極としての《国家》の一成員であることによって・すなわち 双方を ともに認識して それにもとづいて 情況の中で 行為する というにすぎない。
しかし 逆に このことの意味するところは 大きい。なぜなら 《家族》は 血をつうじてつながった三角関係(両親と子)として いわば永続する自然的な・そして最小の類としての存在(その意味での普遍性〔の場〕)であり また《国家(一般には 政治)》は 自然性としての領土と国民〔たる家族の個々の成員〕とを 統一して存続する人為的な・そして 具体的な形態としては最高の(善の表象の次元が 経験的に言って もっとも高い)類としての存在であると考えられ そのとき《特殊性》としての《個体》を問題にするならば ここでは――特殊性は すでに獲得されているのであるから最小と最高の二つの普遍性の形態ないし場を それぞれ 綜合する意味で―― 《家族員》であることと 《国民》であることとを綜合・統一しようとするところに その基本的な行為があるように考えられるからです。
循環論法のそしりをまぬかれないかも知れませんが 直接的な事態として どうも そのようであるらしい。そしてこのことを 一般に 基礎としては 生産(労働)をつうじておこなうということであるらしい。
ぼくたちの類的な存在の形式は そうではなく 《家族》も《国家》も ほんとうには前面には出て来ずに その代わりに 《情況》全体が 対立するものとして 眼前にあらわれ それに対して 《個別性》を発現させるものであり ということは どの家族の一員であろうと あるいは国籍がどうであろうと それに或る意味ではまったく関係なく 基本的に 各個人における思惟・理念・思想の形成ということにほかならない。労働を基礎とするわけですが この思想形成(つまり かんたんには《形式》)が 普遍性を含んだもの・目指すものであるところに その個別性は 特殊性(具体的な場面に対する行為)であり それを発揮するもののようである。
つまり このように 思想を基体とした《個体》の確立は そのまま自己に固有の・ささやかな新しい《情況》の発現を 意味しているはずである。普遍性を 確かに はじめに 問題としていたのであるから。この新しい《情況》の発芽は それが普遍性を持つとするかぎりで 《家族》をもそして《国家》をも――従って 基本的に言って 《身分》をも同じく―― 超えて 自己の運動を 展開していくものと考えられるのです。
こう整理して いくらかは異同が 明らかになったと思うのですが もしそうであるならば この点から 今日の議論に入ることができます。
が まず 必ずしも最初から 《身分社会》をというのではなく 基本的な前提として 次のように述べることから 始めたいと考えてみたのです。・・・どうでしょう 今夜は ここまでで かなりの時間が経ってしまったようですが この入り口のところで 互いのほうから ひと通りの発言をするかたちで 今日は 終えることになるかと・・・。
――うん それでいいでしょう。
――それでは 《情況》ないし《社会》の基本的な前提とされることについてですが・・・。
(つづく→2006-04-10 - caguirofie060410)