caguirofie

哲学いろいろ

#15

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第三日( o ) (〔精神の形式と〕《情況》)

――もう少ししゃべらせてください。
そこでまず ナラシンハさんがおっしゃる《善意の行為の日常政治化は 高められた自由の――或る意味で 外側からの強制的な――継続であり それは 不自由というものである》という点について ぼくなりに考えたことを 述べてみたいと思うのです。
第一に言わなければならないことは 善のあるいは自由の 形式を 不断に固定的に保つことは 或る意味で 外側からの・つまり情況からの制約によって余儀なくされている面があるにしても ひるがえって考えてみれば 他方では その情況の制約を 意志的に克服しようとする面・言いかえれば 情況が古くなった場合に つまり一般にそれがもはやぼくたちから完全に疎外されたものとなり 従ってさまざまなかたちにおいて 制約としてのみ 現われてくる場合 それに対して別の新しい情況をかたち作ろうというぼくたちのかかわり(関係)という面があるはずです。
このことについては ぼくたち人間は 或る意味で そうかかわりつづけるよう運命づけられている存在である。そして その情況の進展へのかかわりあいにおいては 昔の議論の蒸し返しになるかも知れませんが 絶対者としての《一なる者》が ぼくたちをつねに見守っているということでなければならないと思います。
つまり 情況が つねにぼくたちの外界にあって ぼくたちの形式を取り巻いているということは 情況とぼくたち個人との 不断の闘いが そこにはあるということにほかならない。そして もちろんそこでは その関係(闘い)における目的と手段とが いかにあるべきかという点について その議論が重要でしょうが 基本的には この関係においてこそ ぼくたち個人が それぞれ固有の形式を獲得していくのであり それを情況の側から言うならば 情況は そのような個人の側からの闘いを受けて たえず生成・発展する。すなわち古くなれば 新しく生まれ変わるというようなものである(もちろん そう容易ではありませんが)と思われます。
それに対して ナラシンハさんは むしろ情況そのものへのかかわりあいという面からよりは 情況を 互いに対立する(つまり反撥し牽引しあう)二極に分けて それら・つまり国家(政治)と家族(日常性)という両面から 情況に入っていくというように思われるのですが もしそうだとすれば それは ある意味で むしろ《ソクラテスを描いた哲学者》の思想に近いのではないかと思うのです。ぼくなりの解釈かも知れませんが たとえば それについては こうです。
《正義》というものについて述べられたものがあります。この《正義》を一つの理想的な《形式》と読んでみて ぼくなりに ナラシンハさんの考え方とも合わせて 解釈するならば こうです。
まず 一個人が ひとりで いわゆる《正義》をおこなうことは むずかしい。それは抽象的に言って 基本的に 《正義》は普遍性としてあって しかも 個人は 《多数の中の一者》という個別性にしかすぎないということからです。ただし この《個別性》が 《普遍性》としての《正義》に近づく・ないし接するための道はあるのであって この道は 二つに分かれる。つまり
一方では 個別性としての個人が その〔先天的な〕自然性という条件において 家族の一員として存在しておることによるものであり このことは 個人が そのイデアないし形式を形成することにおいて・つまり他者との関係において 互いに単なる個別性どうしとして接するのではなく それぞれ自己の 特別な《家族》に属する者どうしとして《関係》をむすぶということ すなわち 個人は 《家族》という・自分の存在(たとえばその誕生)にとって不可欠であった社会的な一単位(これは 単なる複数の個別性の寄り集まりというものではなく それとは質を異にする統一された・それじたい 完結した一集団)に 絶対的に属するということにおいて さらに・つまり 単純に言ってそれは 各世代(血筋)をつうじて 人間(人類)であるという一つの普遍性につらなることになるから 個人は 単なる個別性としてあるのではなく 《家族》という特殊性において存在している・従って この《特殊性》をとおして 人間の《正義》という《普遍性》につらなることができるのだという一点です。
念のために言い添えるならば この家族が 普遍性の根拠ではなく 普遍性につながる自己の形式形成の場(その意味での情況)だということです。
次に もう一点は この人間の寄り集まる社会において 考えられうる限りでの最大の《普遍性》を象徴しうると見なされた具体的な形態・つまり やはり《家族》と同じく・単なる個別性の寄り集まりでなく ひとつの独立した統一的な集団としての最大のものは 《国家》(その中に さまざまな形態・規模はあるけれど)であると考えられ そこで 個別性としての個人が 真にこの《国家》の一員として存在するとき 一つの有機的な個体とも言うべきその国家にかんする限り 同じく 人間の《正義》という《普遍性》につらなることができるのだという一面です。
つまり この点は さらに具体的に いわゆる国民の一人ひとりが それぞれ直接的に《国家》に属す(帰同する)というのではなく 従って その中でも国民全体の代表としての一部少数の者だけが 《国家》を直接的に担い その担う者らすなわち政治化〔の行為〕を通じて 間接的に他の国民のすべては 真に普遍性としての《国家》に属すというものであり そしてさらにそのとき この《国家》を直接的に担う一部少数の《政治家》は 真に 国民の代表であるためには・つまり 《普遍性》としての《正義》を遂行しうるためには もっぱら この《正義》をおこなうことのみを 義務付けられている者でなければならないということ。
つまり 理論的に言って そもそも個人として存在するばあいは 基本的に《家族》に対して《帰同》の契機がはたらいている反面で 《国家》に対しては《疎外》の関係にあるのですが それを この《政治家》においては――もちろん《個人》でもありながら―― この《国家》に対してまさに反自然的な《帰同》を 義務付けられるということです。
従って その結果として 《政治家》は 個人であり家族員である他の国民すべてに対しては あたかも《疎外》関係にあるかのように〔のみ〕 自己を規定し そのように謂わば《第三者》としての立ち場から 国民に対して・従って国家として その限りでの《正義》をおこなうというものであり そういう一つの議論です。
ナラシンハさんの言う《〔無駄という〕形式の形式》は 簡単にいえば このように 個人が 一方で《家族》に帰同し また一方では《国家》に対しては その基本的な疎外関係を真に見つめ 〔そのうち一部少数の政治家となる者は 他の国民すべてが そのように見つめるということを目的として 自己の本質としての自然性に反してでも 《国家》の立ち場に立って 法を施行させ〕 それらすべてのことが 相い俟って 《自由》〔が自由に発現しうる〕という《情況》をかたち作るのだということだと思います。
ナラシンハさんの主張の内容を 以上のように解するのですが 正直に言って ぼくは この思想は なるほど イデアの系列にあるものだと思いますが しかし同じく もはやぼくたち人間のなしうる範囲を超えたものではないかと考えます。
つまり さらに言うならば このように 《国家》および《家族》の両軸において 一人ひとりの個人が 行為をなし 社会〔活動〕がいとなまれ それに対して高い立ち場から 究極的な《自由》という《情況》〔の発現〕を見るのは それはもはや たとえば《神》の立ち場に立っておることであり ぼくたち人間のなしうる領域のものとは思えないようです。
そして――これが ぼくの発言のしめくくりになるのですが―― ぼくたちの考える善の《形式》としては そのように 必ずしも《国家》と《家族》との二契機を見るというのではなく 《情況》をそのまま全体的に《情況》として見つめ 〔従って その意味では ナラシンハさんの言うように 《家族》には帰同し《国家》とは疎外しているという《形式》の主体的な確立ではなく まさに《情況》から外的に要請されて〕 現実的に 受け容れるべきものは受け容れ 受け容れられないものは拒み そして今度は〔その後で初めて〕みづからの要請に従って 一人ひとりが 自己の《形式》を形成・獲得していく・そして この形成された個人個人の《形式》が・あるいはその基体となっている《思想》が 既存の《情況》に対して 新しい・それじたいの《情況》を築いていくこともあるのだということです。
そして ここで もし その《形式》ないし《思想》の形成において 〔それらは 何度も述べているように 当然 一人ひとりの個人が その個体じしんにおいておこなるべきものですが〕 なおみづからの要請からと言うのではなく 単なる外からの要請〔のみ〕によっているという側面があるとするならば――このことをずっと考えてきたのですが―― それは 既存の《情況》の中で 社会的にかたち作られている・いわゆる《身分》〔階級〕〔という特殊な一外的情況――この特殊性が いわゆる《家族》のようなそれと互いに置き換えられうる性格のものであるかどうか それは 微妙なところですが この身分〕によって制約されて 〔そのような思想が〕形成されてくるという点にあると思うのです。
つまり ナラシンハさんの立ち場の説明においても つねに 善という形式が いやしくも確立されるというならば それは 〔個別性としての個人による何らかの方式にもとづく〕《普遍性》の獲得ということを除いては ありえないことでした。それに関しても いま この《身分》〔という社会的な 《情況》の中の一契機に限っていえば この身分〕が 《普遍性》につらなる契機でありうるかどうか ということは 重要な点だと思います。
ただ 今ここでは このことに深入りしたくはありません。それは 避けて通るというのではなく 基本的には すでに述べたように ぼくたちの側では この《形式》ないし《思想》の形成が 〔絶対的な《一なる者》という《普遍性》を契機にして〕まさに この社会的な身分の差をも超えて 広くおこなわれるべきものと考えられ 〔その意味で そこでは《身分》は 《家族》や《国家》と同じように 一歩―― 一歩――後退しており〕 それが 実現されていくならば それに応じて 新たな全く別の形態・《情況》を 作り上げるだろうということだったからです。
そのために 《身分》の分析・それへのはたらきかけは 必要であり重要であるのですが 家族や国家が 《形式》形成の根拠ではなかったのと同じように 身分も 根拠ではない。その意味では 身分をとおして・身分関係に対して はたらきかけることが重要であったとしても それじたいは 類としての存在の形式・その意味での《普遍性》には 基本的に つながらないと見るべきです。たとえばそれは 次のような考えにもとづいてのことです。

・・・しかし時には 金の親から 銀の子どもが生まれたり 銀の親から 金の子どもが生まれたり その他すべて同様にして お互い(金・銀・銅)どうしから生まれてくることがあるだろう。
Πολιτεια

長々と ひとりで 述べてきましたが 《情況》に対して ぼくたちの側からの基本的な立場を明らかにして そして ナラシンハさんのそれを まずその基本的な点において批判しえたものと思います。
――非常に簡潔に 前回のまとめをしてくれたと思う。ただ・・・
(つづく→2006-04-07 - caguirofie060407)