caguirofie

哲学いろいろ

#21

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第四日( u ) (情況または《社会》)

――ナラシンハさん 今夜は 第四日です。
ぼくたちの議論は とりあえず 《精神》の基本的な領域を出ないと思いますが 現実の具体的な側面と いくらかは 接するところで つねに述べてくることが できたかと思います。さらに 同じく この《情況》との接触面を中心として 議論をつづけたいと考えるのですが。
前回は 最後にぼくのほうから 《名誉》などという概念を 持ち出すところまで来たのでしたが 今回は まず初めに 前回の中で言い落とした点などを 補足することから 始めさせてください。じっさい この《名誉》ということにかんしては あの日から今日まで 仲間からも ずいぶんと批判を受けたりしましたので 詳しく議論しなければならないように思います。
はじめに ぼくたちが 《個体》として《情況》に立ち向かうとき そこに形成される《形式》は 時間的に・つまり歴史の経糸として つねに《非身分化》の契機を有し しかも そうでありながら同時に 空間的に・つまり歴史の緯糸として つねに逆に《身分化》のそれを孕んでいる――身分化を ぼくたちが 積極的に おこなうのではないけれども この身分制の情況の中に ぼくたちは つねに 寄留している――と まず言いました。
そして これら二つの契機によって形成される《形式》は 前者が 《民主〔平等〕制》 後者は 《貴族(有徳者)制》ということでありました。民主制的な個体は かれも 民主制的という一つの徳の 現実的な有効性および実効性化によって 何らかの一定の貴族制的な社会秩序を――目指すのではなく―― 用いるということは ありうる。
これら二つの《情況》の形態は 《精神》の側からながめれば 《貴族制[β]》は 個人の個別性(その中の一般性)への《帰同》に発しており また《民主制[γ]》は 個人の〔個別性の中の〕普遍性への《帰同》に同じく発しているということであり
そこで 現実の歴史情況の推移は 《民主化》という経糸と 《身分化》という緯糸とが さまざまな様式で 綯い交ざり合ったいくつかの形態を とるのだと考えました。そしてこれらの形態について 代表的なものをいくつか あくまで《精神》の形式として さらに補足しておきたいと思うのです。
まず 《貴族制》は その発現の仕方として 《個別性の中の一般性(部分的な普遍性)》から起こると述べたのでしたが ここで仮りに 《個別性の中の個別性》または 現象としての精神・身体・能力など《個別性》そのものを 中心として発現するものがあるとすれば それは 別の一つの形態をかたち作るかも知れません。つまり 単に一個人〔の力など〕あるいは一団体・一国家・一民族など〔それらのみの優越性〕に 個別的に《帰同》してしまった場合のことであり そのときには《情況》は そのような《個別的な帰同》の最強の者による《僭主・独裁制》[βββ]という形態をとるものと思われます。これはもちろん 一般性も普遍性も そこに持っていないのですから 個体としての形式を持っていない つまりそのまま 《無形式》・従ってあるいは[β’]のことであるのは 自明です。
ここで 《名誉》の点にかんして触れておくならば このように《個別性の個別性》にのみ帰同する――それによって みづからの個別的な《名誉》をのみ求める――ならば 当然そのような意味での《名誉支配制》は この《僭主・独裁制》と同類のものとなります。従ってここで この類いから決別して 理念としての《名誉支配制》だから[α-1]とも言うべき形態は まず 個別性の一般性を重んずる《貴族制》の系譜に立つべきであり(立つことができ) しかも 単に《貴族》ないし《徳》という最高善にのみ帰同するのではない――具体的には後に触れなければいけませんが――ということによって この《貴族制》を超えなければならないと帰結されていくはずです。これは [α-1]の形態とも言うべき情況を 経験的に そして抽象的に 触れたに過ぎませんが。
次に 前回といくらか重複するかも知れませんが 《民主制》の純粋形態[γγ]としての《祈りの支配制》について もう少し触れたいと思います。《名誉》の問題は この議論の過程で 何が名誉かではなく 何が名誉ではないかという形で 明らかにしていきたいと思います。
うえに触れた点は 《名誉》は [α-1]の《名誉支配制》から出るかも知れない。言いかえると 《名誉》形式の情況は 一つにその[α-1]の形態をとるかも知れないということを 言っておかねばならないと思ったからです。
《民主制》は それが 《精神》の客観的・絶対的な普遍性(たとえば 精神の無規定性ないしつまりは自由)を基盤にしている限り 誰にでも受け容れられるべき・まさに普遍的な形態であると考えられるのですが その場合 可能性として 指摘されると考えます。
それは たとえば いま述べた《自由》というものは もちろん絶対的なものではあるのですけれど そのように一個人における《自由》を 絶対的なものにする根拠としての 究極的な絶対者(絶対善)があらかじめ想定されていなくてはならないということでした。そこで もし一つの独立した《情況》の中で そのように想定される《絶対者》が その存在(想像)の場所として いくつか複数において存在しるのであるから 実はそのように [γ-α]とも言うべき形式として そのときにこそ 個人個人が互いに相対的に存在しうるのであるから その個人の帰同する《絶対者》は 完全に保証されているのであるもかかわらず いまもし この想定される《絶対者》の場所(個人ないし情況)が ただ一つであったと仮定します。つまり単純に言って 一つの《情況》全体が ただ一つの《神》の思想を拝する場合[γγ]です。
このときは 従って 《武勇》だとか《労働》だとかのいかなる《徳》よりも 第一義・優先的に 《徳》を徳とする根拠・すなわちその唯一の《絶対者》・あるいはそして その《絶対者》と《個人》とを結ぶ行為・つまり《帰同》としての《祈り》という行為が 《情況》を支配するようになる場合です。たとえば この《祈り》の行為を絶対的に保証するためにこそ 外敵の侵入に対して 《武勇》の徳が仕えるべきであり またそのように《武力》をも辞さないとされるような情況です。またそうなれば [γγγ]とも言うべき《祈りの名誉支配制》の情況形態。
この《祈り》の支配する社会とは――《祈り》を 《理論》と言いかえても よいと思うのですが――さらに細かく見たばあい 果たして どういう《民主制》の情況なのであろうか。
まず もし《絶対者》が《情況》全体に 唯だ一者のみ想定され信奉されたのなら このときには 理論上から言っても 個体の《形式》は 一人ひとりにとって すべて同一であるということを意味することになります。《形式》がすべて同一であるとは・あるいはさらに そこに到る《思惟形式》の同一性とは どういうことなのか。これは 前に戻って まずそのまま 《ある一者の抱く絶対善が それ自身の情況を展開し 既存の情況(たとえばそのカエサル》を破って 征服したこと》を 意味するであろう。
つまり ここにおける《個体》の形式は すべて この最初の《ある一人の者》の 特殊性としての《形式》を こぞって 踏襲しているということです。つまり従って ここにおいては もはや《形式》の獲得行為は 止むでしょう。単に すでに形成された《形式》の内において それに固有なかたちで文字通り 《祈る》という行為が なされるのみというっことになる。
たとえば このとき 自己も他者も 同一の形式をもっているわけですから そこではむしろ この形式は もはや意識されなくなり 自己と他者との区別・つまり 個別性はほぼ無くなってしまっている(または 喪失させることを その行為とする)であろう。少なくとも はじめの一個の《形式》へ すべてが 否応無く 揚棄されていくという事態にあるものと思われます。たしかに そこでは 情況全体にわたって 同一の形式が はたらいていると見なされるのであるから もはや他の形式を選択する道は 事実上 閉ざされた恰好であると思われる。
つまり そこでは 《形式》も 《形式の形式》も 《かれ》と《わたし》についてすべて 同一であることになる。しかも そこでは もはやその形式の《内容》については 不問に付されるであろうと考えられる。なぜなら そこまで同一であるなら 《内容》としての個別性が 発現する・ないし追及される余地は ほとんど残されていない。《内容》としては わづかに 個人的な《祈り》――すなわち 文字通り ある一つの思惟を結果としての理論的な同一性を くりかえし 唱えること――にかんする趣味とか信念とかが 残されていると言えるかも知れません。
また これは ある意味で 《民主制の純一化》としての《祈りの社会[γγ]》が 一つには 《情況〔全体〕主義》[γγγ]へ傾きやすいということを 物語っているかも知れません。なぜなら 《民主》という《すべての個人の平等を唱えること》の前提には 複数の個人の単なる集まりを統一するところの《絶対者》の認識が 存在するとうことからであるかも知れません。
《絶対善》の想定・認識をつうじての《祈りの支配制・純一民主制》[γγ]ないし[γγγ]ではなく [γ’]とも言うべきいわゆる民主制がかたち作られる場合も 考えられます。それは 《わたし》が 多数の中の一者として存在し そして あたかも 何ものかに背後から突かれて ちょうど撞球の球のように 四方の限界にぶつかっては戻ってくるということを 繰り返しながら ものごとの中庸に落ち着くばあいであって このとき 人は この中庸を 自己の《形式》であると見なし そして《情況》じたいも 人びとがこの《中庸》を共有し それを基盤として 互いに《同一形式》であるという形態を呈する場合が それです。
この場合は プラトンを引用したほうが 早いと思います。

・・・若者は もっと気の利いた連中〔つまり・・・〕欲望に満ちている人たちと交じわるようになって 父親の〔――《金儲けの役に立つ欲望だけを尊重し 不必要な欲望・遊びや身の飾りなどの目的のために働く欲望を軽蔑するような》――〕けちくさい生き方を嫌悪するあまり ありとあらゆる放縦へ そしてそういう連中の生き方へ突き進んでいった・・・。しかし かれはもともと かれを堕落させる連中よりもすぐれた素質をもっているために 両方へ引っぱられたあげく この両方の生き方の中間に落ち着いたのだ。そして かれのつもりでは適度にそれぞれを享受しながら 不自由でもなければ不法でもないような生活を送ることになったとき・・・民主制的な人間への変身は すっかり達成されてしまっているのだ。

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

もっとも この文章は 最後の一文において省略したところに 《寡頭制的な人間から〔の変身〕》とあるのであって そのように《寡頭制》あるいはこの場合 《富裕者支配制》と言うべき制度のもとでの情況を 述べているものです。つまり《民主制》と言っても このばあいは 必ずしも絶対者の想定はなされないまま あたかも森の中で動物たちが その静けさに躍り出て また 雷鳴に逃げ惑うということの中から かたち作られてくる ひとつの形式のようなもの これについて述べられていると言ったほうが よいと思います。つまり 民主制的なものとしての[γ’]です。
このような[β]ないし[γ]の変形形態を見ておいて 次に この《富裕者支配制》へ移りたいと思います。

(つづく→2006-04-13 - caguirofie060413)