#14
――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323
第三日( n ) (〔精神の形式と〕《情況》)
――ナラシンハさん 今回は 《情況》というものについて ぼくのほうからも いくらかの議論を持ってきたのですが まず初めに 先回の議論をいま一度 整理してみたいと思います。
《精神》の形式と 《情況》との関係としての 世界についてです。いいですか。
つまり前回は あくまでも個人〔の存在〕を中心にして 善悪というものを考察していたと思うのですが――そしてこの基軸じたいは 最後まで 変わらないと思うのでしたが―― そこで ナラシンハさんとぼくたちに共通の結論としては まず第一に 基本的に言って 《悪とは形式の無である》ということ そして第二に その悪を避けるとするなら 一過性として そのつど つねに 《善〔という形式〕の必然化》を図る必要があるということ つまり それをナラシンハさんの側の言葉で表わすならば 偶有性として内在する善(ないし自由)を つねに自由に発現しうる状態に保つこと・従って そのような意味で 〔どうでもよい関係・ないし 無駄という形式の必然化〔の必要〕》ということでした。
そこで次に それ以後の考え方においては きわだった相違が見られました。つまりそれは ぼくたちの側では その一過性の《善という・つまりどうでもよいというのではない 形式の必然化》を そしてさらに 〔次の過程においても 《無形式》つまり《悪》に陥ることのないように あるいはまた その無形式ないし悪(これは 無駄という意味では 日常にも つねにあるものであるから それ)を 包み込みうるように〕 この一過性の《善意の行為》を 不断に 必然化し日常化しなければならないのだということを述べました。
それに対して ナラシンハさんの側からは この一過性の《どうでもよいというのではない善(善意)の行為ないし形式》を 連続的に生起させ それを身につけるという意味での《善意の日常化》は 実はもはや 偶有性が継続性へ高められた善 ないし自由 すなわち不自由 へ導かれていっており それは言いかえるならば 《善意の日常政治化》であるとして 非難され 必要とされるならば それはむしろ 《無駄という形式の日常化・必然化》のほうであるということ。
さらに――ここからが 今回の主題だと思うのですが――ただ このように個人の次元のみを論じるのでは 〔善意の必然化にしろ 無駄の必然化にしろ その形式のあり方が〕もはや意義をなさないということから 個人の存在する《情況》という次元を 見すえつつ 議論をつづけなければならない。
- つまり 単純に言って 個人の思惟や意志が どのようであっても・従って その意味で自己の《形式》をどう自分が形成しようとしても ある意味で それとはかかわりなく 《情況》の側から その 形式の形成・あり方が 規定されてしまうという事実について この情況を 問題にしなければならないということ。
- もっとも 議論じたいとしては やはり どこまでも 基本的に 個人の形式・判断を 基調としつつ それを展開していくことになる。情況についての 情況じたいの側からの・あるいは情況に対する側からの 具体的な政策の実践も この個人的な次元での議論が それに先行しているはずだ。その意味で ぼくたちの基本的な実践であるはずだ。
- この議論を 過程的に 展開していくことが 実践であり 時にいわゆる観念論というのは 善悪の基準(その有効性)をではなく 善を或る一つの像として掲げ これをいわゆる宗教(理論でもよいが)として抱き そこで自分が立ち止まってしまう形式にある。
- この形式は 自己の善を 過程的に 必然化するのではなく その偶有性なる善を そのまま観念(道徳主義)的に 或る必然的なもの・またはさらに絶対的なものと見なしてしまっている。善のペルソナ(人格)が ペルソナ(仮面=偶有性)であることを知らないか 知っていても この仮面たる人格の善で 世界のすべてが世界のすべてであると思い込んでいる場合であります。
そこでまた ぼくたちの側とナラシンハさんの側とは 考え方が分かれたのですが。
まず ぼくたちの側としては 《情況》は《情況》として それじたいにおいて あるものであるから つまり この情況こそが――ぼくたちがそこで生活しているからには――ぼくたちの《善意の必然化》を積み重ねることをとおして ぼくたちの精神が精神となる・または 言いかえれば ぼくたちの存在が自己自身となるための その媒介(環境)というものであるから あくまでも まずぼくたちの個体的な《善意の形式》の獲得・形成・展開が すべての基本になるということですが。
そしてそこからは さらに 情況が 家族においてにせよ国家においてにせよ 一個人の《善意の形式》の基本的に確立されようとすることによって その形式が 当然 普遍性を持つものとしてあるのだから それぞれ互いに 連帯性をもち その時には いわゆる社会的な身分などの差を超えて 一つの新しい世界を形作る・言いかえれば その普遍的な同一性としてある形式を体現した者の集まりが それじたい ひとつの情況をかたちづくるということ また まさにそのことによって ぼくたちは この情況の制約を 克服しているのだということ などなどである。
それに対して ナラシンハさんの側からは まず基本的に言って 個人に対して制約を持つ情況も 大きな観点からは 根底的に 個人の自由や意志と 地続きであるということを説かれ そこからは 従って あくまでも〔情況の直接的な制約も 個人の側の直接的な自由も ともに統一されるかたちを目指すべきだという意味で〕 やはり 個人の次元における《無駄という形式》の獲得・形成・展開ということが すべての基本となるということ そして そのためには ただ 個人の形式ということを述べるだけではなく それに則して この《情況》というものを 見つめた上ででなければならないということ。
そしてそれについては 簡単に次のように述べられました。
つまり もっとも基本的には 《情況》というものも 一個人の《精神》という存在ないしその《意志》と 互いにその全領域にわたって 対応しているということ。
これは 具体的に 精神の領域における二つの契機・つまり 《帰同と疎外》というものと そして 情況の側における二つの契機・つまり《家族と国家》というものとが それぞれ対応しているのだと。
従って これら二組の二つの契機は それぞれの組みにおいて その両者が 互いに両極をなして 同時に反撥ししかも牽引しあって働いているということであり 《情況》と《精神》の両面において その両契機のはたらきをみつめるということが ひとつの行為として 大切である。そしてそれは その行為じたいが すでに基本的な行為として説かれていたものであり またそれは 《無駄という形式》の内容をなすものであり あるいは 《形式》の《形式》――その無限の連乗積―ーであるし そうであってよいと 以上のように述べられたのでした。
もうひとつ 付け加えるならば ぼくたちの側としては そのような立ち場は 実際として 情況に対するという意味では 行為というものを なさない――ひとつの認識にすぎない――として そのまま全面的には 取ることができないと表明していたと思います。
ただし ぼくから見ても 善悪の基準の 現実的な有効性を その議論〔という実践〕は 言っているものと思われ それは 言ってみれば 情況の中における個人のさらにそれを抽象的に捉えた場というものではないだろうか。つまり 全体的な《情況》にしろ それらは まだ そのままでは 逆に ぼくたちの《存在=精神》の《場》であると言えないように思われます。
従って 善悪の基準の有効に展開するぼくたちのその意味での《場》は むしろ抽象的に述べられたナラシンハさんの言う場が それであるように感じられます。もっとも そのことは ナラシンハさん自身が 認識の一出発点として このような《情況》を議論する場を 提出したのだということに あらわれているように思われます。この個体の場は 自己の連乗積だと言われるように 或る意味で どこまでもその同一にとどまり 変わらないもののように考えられ これを前提とするという意味では その後に 自己の形式形成の具体的で経験的な展開が つづいていくのだというように見ることができると思うのです。
・・・
《情況》というものが 個人の《精神》と果たして その全領域にわたって 対応しているかどうか それは大きな問題だと思いますが 直接にそのことを扱うというのではなく ここではお互いに それぞれの立ち場から 《情況》をさらにどう見るか――歴史的にどう見ていくか――ということの議論において 異同を確かめ合っていきたいと まず考えます。
もう少し しゃべらせてください。
(つづく→2006-04-06 - caguirofie060406)