caguirofie

哲学いろいろ

#13

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第二日( m ) (精神の《形式》)

――そしてさらに もし国家が 情況のことだと見られてしまうと そういうふうにして出発が開始されることがあるなら わたしの認識は 危険をはらんでいるとも思うのです。
わたしたちの意志と情況と形式とは 通底性をもっていて それはやはり生産(生産を中心とした生活全般)であろうと思われ この生活という点では 自由と制約との二方向性をもっており それらは 経験的に 家族と国家との二つの領域に現われるのではないか。そしてさらに 国家なら国家という情況との関係で 家族は むしろ同じく経験的に それじたいの中に 自由と制約との二方向性を持っている。政治とのかかわりを持った日常性は この家族によく 特殊性として(すなわち 普遍性を宿した個別性として)その基盤を持つように思われる。この日常生活が 善の中軸であり その土台は生産であるように考えられる。
今日はこれで一区切りをつけたいと思うけれど そして次のように述べると 余計 神秘的な議論に見られがちだと思うのだけれど 善悪の個別的・個人的な判断の基準をテーマにしていたということを 少しでも補うために もう一言付け加えさせてもらいたいと思うのです。
それは 新しく《帰同》と《疎外》という二つの概念を提出したいと思うことです。
つまりそれは まず 《形式》を形成する上で わたしたちの《意志》について その自由を制約する作用と その制約を無規定化するものとを取り出して それらを 《情況》の中の国家と家族とにそれぞれ対応させた。あるいは一般に 《政治》と《日常性》という両方向性にそれぞれ対応させたのですが・・・
ここで この同じ議論において 《意志》についてではなく 《精神》そのものについて認識をくわえるなら 《自由》と《制約》とは それぞれに対応して 《帰同》と《疎外》とが概念づけられるであろうということです。従って 《家族》あるいは《日常性》は その基本的な契機が 《帰同》であり 同じく《国家》ないし《政治》の基本的な契機は 《疎外》であると。
そしてここで 《精神(記憶)》は わたしたち人間存在のもっとも根源的な基軸として考えられるからには 《帰同》という契機は 《家族》としての関係・形式・自由・善などのすべての面にわたって作用するものと思われ また同じく 《疎外》という契機も 《国家》ないし《政治》としての行為・形式・自由・〔制約〕・〔上位の〕善などのすべての面にわたるものと考えられるでしょう。
ここで 《疎外 aliénation 》とは 言葉としては 《譲渡 aliéner 》という意味が いちばんよいと思います。つまり はじめ自己に属していたもの――《帰同 lien; liement 》の状態にあったと見なされるもの――が 他者に《譲渡 a-lien-ner 》されて その結果 その他者に属すものとなったと見なすことといったようにです。
そしてそこで 契機としては 当然 《譲渡》しよう(されよう)とするはたらきを言うものです。従って もう一方の〔――精神における――〕《帰同》とは ものが自己に属している・あるいは 属していると認識しうる状態をいうのであり また 契機としては そのように 自己のものに帰すようにするはたらき・もしくは 逆に言えば 譲ろうとか渡そうとかしたりするのを拒むはたらきというものでしょう。
ただ 次のことも指摘されなければならない。つまりたとえば 《自然》は そもそもわたしたちとは 原始的に《疎外》の関係(厳密には 《関係》とよべないかも知れませんが)にあるとまず 考えられる。しかし そこで同時に《自然》は わたしたちの物質的な身体がそうであるように 《疎外》ではなくてそもそも初めから 《帰同》の関係にあると 見られないことも ありません。つまり 同じ《自然》が 相い反する両面において認識される。それは たとえば 雄大な・あるいは美しい自然の中に身をおいたとき わたしたちは 心がまじりけのない状態に帰ったように感じられ そのとき どうしようもない《疎外》として映る別の面とともに 《帰同》という一面のあることを納得するというものであるかも知れない。
あるいは 同じことが たとえば《国家》についても あてはまるであろう。つまり 《譲渡》した結果 《疎外》の関係にあるとわたしたちが意識しているところの国家が たとえば 他の〔対立する〕国家の存在をわたしたちが意識することによって その《疎外》が解けて むしろ《帰同》に帰ったように感じられることもある。そのときの国家の形式(政策)に 賛成するか反対するかにかかわりなく 疎外よりは――あるいは疎外の反面で――帰同を感じる。
あるいは さらに述べておけば そもそも一心同体といった《帰同》の状態にあると思われた《家族》が なぐっても蹴っても なだめすかしても どうしようもなく自己からは何者かに《譲渡》されてしまっているかのように思われるときも あるかもしれない。
つまり これらのことから 《精神》のなかにおける《帰同》と《疎外》という二つの契機は それぞれの中に さらにそれら二つの契機が 作用しているというふうに思われる。帰同の帰同 帰同の疎外 疎外の疎外 疎外の帰同といったように。あるいは 帰同と疎外とは ともにそれぞれ何らかの作用の結果 相互交替的にはたらいているとも言えるかも知れません。
ただ ふたたび ここで《形式》形成の観点に戻るならば この《情況》と《精神》との対応において――それがあるとして その対応において―― 一つの通常のあり方・基本的なあり方としては やはり先にも触れたように 《家族》(他の成員と自己との関係)は どちらかと言えば 帰同の契機が 優勢であり それに対して 《国家》(これを言うとすれば これを意識するときのその意識と自己との関係)では 帰同の契機は 劣勢であり 疎外が 一般である。つまり もし仮りに わたしたちの《精神》が ひとつの実体であって 精神的な存在としておのおの人格をもつとするならば――その限りで 異存はないのですが―― 象徴的な意味で このような二つの究極の領域(ないし方向性)において その固有の作用(つまり固有の力の発現)をおこなうものであるだろうということになります。
つまり 一方の極(方向性)においては 家族〔の成員一人ひとり〕が この《人格》〔という形式〕を形成する上で かぎりなく相互依存的に 帰同の状態にある関係としてあり 他方の方向においては 国家(ないし政治)が この人格を 基本的に疎外の状態におく。つまり わたしたち相互の関係を それぞれ互いに完全に独立した存在とする〔ような形式としてある〕ということであろうと思われます。
後者は そういうものとして われわれの精神ないし意志から 政治ないし国家を――そういう情況として――譲渡したはずだ。ゆえに 情況は われわれの意志と基本的に 通底している。精神のまたは社会的な秩序として そうだし あるいは 生産という基礎をつうじて そうだと思うのです。
従って 今日 述べてきたこととの関連で言うならば それは 精神(および意志そしてこう認識をおこなっている知性)の側からも 情況の側からも 形式というものを つねにその《内容》としての《自由》を拘束しないかたちに保つこと・そして 《無駄という関係の必然化》を説くということが 有効であるとするならば
その《無駄という形式》とは これら《帰同》と《疎外》という二つの契機が 究極的な場において(いまだ見ていないイデアとして) みごとに(つまり言葉では説きつくせないかたちで)統一され調和(平和)を保っているということであろうと思われます。そしてもし この帰同と疎外との二契機の自由な統一があるならば それは《形式》というものの内容をなすべきものであり あるいは まだ見ていないものの何らかのイデア(見られたもの)であるとするならば 《形式》の《形式》であるように考えられます。
この《形式の形式》は 必然化された善意という形式の 第二段階ではなく 初めの形式(善・イデア)の自乗であるように思われるのです。
善(存在)である自己が 冪(べき=連乗積)をつくっていくことが そのことにおいて その自己と情況との通底性を 保証するというか その保証を見ようとしていくことであるように思われます。
〔最後に〕わたしの言う《無駄の必然化》とは おそらく ボエティウス君 きみたちの言葉に置きかえて・・・家族に対するにせよ国家に対するにせよ 一定の〔全体的な〕情況の中で その個々の具体的な情況に関係する限りでは(つまり 第一義的には) 偶有性としての善を 倫理的に必然的なものとして 形成し それを発現させようとすることを やはり 意味していると思います。
つまり その限りでは 偶有性 だから 一過性 としての《善意の必然化》が・・・今となって言うのも おかしいことですが・・・むしろ 《無駄を必然化させること》と 同じことであろうし また逆に 《無駄の必然化》と言っても この意味での個々の(一回一回の)《善意の必然化》を伴なわないでは それは 形成されないものであると思われます。
そこで このような《無駄の必然化・善意の必然化》を実現しようとするためには 次に 《情況》をさらに具体的に――もっとも 《精神》の《形式》との兼ね合いの範囲で 具体的にですが ここでは――分析し展開していくことが 必要であろうと思うのです。
――なるほど。
わかりました。ナラシンハさんの主旨もわかります。
ぼくたちとしては 必ずしも 《情況》を《精神》の全域にわたって そのまま精神を反映し精神と対応しているとして 理念的に思惟することには なじまないのですが つまり言いかえると 情況は 精神がその全域(内的な全域)にわたって自己となる=精神じたいとなる上での その過程としての場(つまりやはり情況)と見なしているわけですが この立ち場を もう一度 確認・吟味しながら 今のナラシンハさんの主旨に沿って 次回は議論をすすめてみたいと ぼくのほうからは思います。


〔帰途 ボエティウスは 帰同と疎外とについて 思索をめぐらし 後で次のように覚え書きをしておいた。〕

  1. 《帰同》の《帰同》( lien )= 《帰同》の核 あるいは 《純粋帰同》。
    • 敬虔・敬信・もしくは 何ものかへの限りなき甘え(甘えなき甘え。もしくは 聖なる甘え)。
    • 信仰・信念・信条( credo )。この純粋帰同の世界にあるものについては おそらく そのものを代理する言葉によってのみ それを知ることができると思われる。象徴。時に象徴主義。たとえば《かみ(神)》という言葉は 代理表現となっている。
  2. 《帰同》の《疎外》( aliéner )= 帰同( lien )を解く( a- )こと。
    • この《疎外》の契機を持つことによって 帰同は 帰同としての自己を知る。
    • 人は 生まれつき持っていたもののうち いくつかを他者に 《譲渡》する。――その結果 《疎外》へ移行することが ないではない。譲渡したときの自己の否定 つまり帰同 これの欠落は 形式の堕落。
  3. 《疎外》の《疎外》= 《疎外》の核 あるいは《原始的な疎外》。
    • 言葉の非在 の世界。もしくは そのような《無》。すなわち 《有(存在=善)》の以前。
  4. 《疎外》の《帰同》
    • ( alliement =結び目 / alliage =合金 / alliance =契約・同盟 / re-lier =再び結ばれる / re-ligion =宗教)= 帰同を解かれたものを 元の帰同へかえらせること。
    • この契機を持つことによって おそらく疎外を知るというよりは 帰同としての自己を知ったと知る。
    • 人は 疎外の契機がはたらく対象のうち そのいくつかについては 過去におこなったであろうその《譲渡》の瞬間を 推理する。
    • その結果 その瞬間の自己を否定することによって 帰同にかえったと思う時が ないではない。それは 現実として 有効であると思われる。
    • すなわち 自己がふたたび( re- ) 帰同の対象とむすばれる( -ligion )ことを目指すところの《宗教 religion 》は その有効な現実への帰同を 媒介しうる。形式の堕落を 指摘しうる。
  5. 《宗教》と《信仰》との異同。
    • 後者は 《象徴》を得て 《自己》を知り 前者は 《自己》を知ったと知り その自己を否定するべく 《象徴》を放つ。
    • つまり 信仰は 象徴を投げかけるべき他者の存在を すでに持っており 象徴を放たずに 形式を形成していく。
    • 宗教は 象徴(ことば)によって 形式の堕落からの復活を めざすことがありうる。象徴的に言えば 《象形文字の解読》の作業をおこなっている。
    • 信仰は 宗教との対比で言えば――そして宗教は しばしば ちなみに今夜のナラシンハさんのように 形式形成の前提を語り 〔しばしば〕この形式が 情況全体的ないわゆる宗教的形式となると思われるから―― 〔信仰は〕 精神の自己蘇生であり 自己形成を つねに すでに とりおこなっている。
    • 善悪の判断(つまり日常生活)は――これも ナラシンハさんがおこなっているように――宗教の批判から いつも始まる。

次回は 情況論だ。

(第二日 了)
(つづく→2006-04-05 - caguirofie060405)