#24
――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323
第四日 ( x ) (情況または《社会》)
――今度は ここで 表現の問題(歴史的にいわば慣習などとして培われたコミュニケーションの様式の問題として)ということにもなると思うのですが このことを 吟味していくと同時に いまの問題の焦点をさらに問い求め わたしたちなりに展開できるところまで 展開させておきたいというのが いまの共通の場ではないだろうか。いつも 次に本論 これからが本論というかっこうになってしまうのだけれど。
まず ここで 《情況のカエサル》とは 《国家》ないし《政治》であり
- つまり 武勇者にしろ祈りの者にしろ どのような有徳者がその政治に携わるにしても その有徳者制の面を見るのではなく 本質的なものとしての《政治》領域そのものであると考えられ――むしろ《情況のカエサル》とは 《政治》そのものだと考えられ
《わたしの神》というのは 次のような意味で 表現じょうわたしたちの言う《家族》にほかならない。つまり《家族》とは 個々の成員が ある意味で互いに帰同しあう《永遠の三角関係》であり そうしてあたかもそれ自体 一個の人格(ないし個体)であるかのように・言いかえれば 《家族〔の三人の構成員〕》が それぞれ互いに《思惟の形式》等を共有しあうかのようにして 《わたしの神》(つまり 《帰同》の対象となるところのたとえば《思想》)を抱く といった場合のそれです。《思想》は 《神》ではないけれども 《わたしの神》どうしの・つまり《個体》どうしの関係そしていまの《家族》の単位的な三角関係では この思想とか形式として それらを通して捉えられる。
念のため添えれば そのとき 個別性が 喪失されることはありませんし そう言うつもりもありません。個別性とは 《帰同》の色合いのことであり また何にも増して その帰同の対象である〔《わたしの神》がそれを通して捉えられるところの〕《思想》は 単に一定の言葉によって規定されるようなものとしてのみ 存在しているとは思わないから。
ですから あの[α]の形式は わたしたちの側では このような意味合いで 大幅に表現を変えれば 《〈家族〉のものは〈家族〉へ 〈国家(政治)〉のものは〈国家〉へ》と言って言えなくはなく いわばこの表現形をとおして もとの原則として 有効であるような気がします。そうして この[α]の形式が もともと 動態的なものであって その形式の形式として 《国家》情況を見据えて[α-ω]の視点であり またそのとき同時に [β]身分化と[γ]民主化との両作用やその形態を 歴史段階的な情況の内容としていると思います。
今この課題を わたしたちの立ち場からなお突っ込んで述べるとすれば それは 次のような主張によって表わされます。
まず すでに何度か述べてきたように わたしたちの立ち場は ゼロが基本です。そして わたしたちの側からは 《悪とは形式の有である》と考えられるとも 述べていました。つまり このことは 一たん 言葉という《形式》の媒体をとおして規定した思惟は それが基本的な理念をなすものであればあるほど その言葉による規定が 多かれ少なかれ 《形式》を過度に形成させ 従ってむしろ固定化させがちであることを意味します。
もし 先ほどの[α]形式は これが基本的な理念であればあるほど そのような言葉化に対しては むしろ否定の視点を持たねばならないとも思います。[α]の形式のこの文句じたいは 或る意味で すでに語られすぎたと言ってよいかと思われます。つまり ある活きた理念・従って ちからを代理すべき《象徴》としての意義が うすらいでしまっているとも思われます。わたしたちには 表現の問題として このような点が よこたわっていると考えるのです。
そこで 次に話は変わって 《労働》という徳について わたしたちが見る視点を いくらか述べたいと思います。
まず先に結論を言っておくなら この《労働》を わたしたちの立ち場からは むしろ一般的な《行為(サンスカーラ/因果関係への関係)》という語によって表わしたいということです。それは やはり《形式》を形成するうえでのきわめて広い範囲にわたる《行為》一般というふうに捉えたいということです。これも 表現の問題であるかも知れないのですが 次のようです。
そこでまず 一般に《徳》については 三つの範囲があると考えます。つまり 《徳》とは 偶有性の善の発現された結果 《行為》の余韻のようにして備わる《形式》・あるいは その個々の善の発現じたいを言うものですが
- そして それが ちからや産などとして 武勇や祈りや勤勉やに区分され さらには 家族への帰同として見られれば 孝とか愛として また 情況への帰同としては 忠とか愛国心ないし労働の場への忠誠などなどとして 規定されていく。後者の派生的な徳と見られるものは はじめの徳の形式が 外的・社会的にその内容とするものであろうと考えられ 一方で経験上は [α]形式に沿って基本的な概念であり 他方で個体の原則つまり[α]形式そのものとしては やはりただ経験的な概念であるように考えられます。
まず 徳の第一の範囲は 最小限〔そなえるべき形式といったように〕必要な量であり 第二は その個人の個別性に応じて適度の・つまり個体に固有と思われる量(いいかえれば《度量》)であり 最後に第三の範囲は 第二の《度量》を超える量です。
第三の徳の量とは 実際には 第二の《度量》を量的に超える範囲と言うよりは むしろ 《度量》の範囲の徳をおこなうことじたいを 《個体》そのものと見なし そしてそれなしでは《個体》が崩れてしまうまでになるといったような類いを指すと言うべきでしょう。ですから 生きた度量を超えてしまいうるような。
そこで 《労働》についてこの三つの範囲を考えるなら 第一の範囲は 最小限必要な労働の量であり それは 労働の特に経済的な側面に対応しています。つまり広義の《行為》という意味での《労働》に対して その狭義の概念です。
第二の範囲・つまり個体として固有の労働量というのは これは《個体として》という前提があることからも 労働行為にかんする《形式》の一定の完成水準を指していると考えられます。そして第三の範囲は これはすでに何度も述べたように 徳が・つまり善が 日常的に必然化され また継続的に生起することを余儀なくされたところの労働量(つまり ここでは 第二の《度量》からその質的な変化が起こっていると言うべきかも知れませんが)であります。
そこでまず 労働を 一般的な《行為》〔だから《形式》の形成つまり生活〕と見るということは 第一には 単にそれを広い範囲にわたって捉えるというのではなく このように 労働を 第二の範疇つまり個人個人の固有の《形式》を完成させる一定の〔しかも量的な幅をもった〕《度量》の水準に その基本をおくということです。
- もちろん このときも 《形式》は動態的であって 度量としての《個体》も歴史過程的(発展的)であったわけですが。
そして第二には それを広い範囲にわたっての《行為》一般として捉えるというときには それは 経済的に必要最小限の水準を ある情況下で一般的に達成した上でという条件のもとに そこで再びのように あらゆる種類の《行為》(つまり《勇気》にしろ《祈り》にしろ その他の徳にしろ)をも 総合的にその《基本》である度量の水準に応じて捉えていくことであると考えます。
つまり ここですぐさま ボエティウス君の議論に沿うならば 〔情況の形態の如何を必ずしも問うことなく〕 このような第一および第二の意味での基本的な・従ってわたしたちの考えるところの[α-ω]視点による《労働》行為あるいは《行為》一般(ないし 《業=カルマン》《因果関係への関係》)が 量的にも質(徳)的にも すなわち 質の量との全体的な《形式》として 一般に支配的となっておこなわれる情況であるならば それは 《労働の身分制=民主制 [β-1]=[γ-1]》であろうと思われます。それは おそらく その限りで わたしたちのひとつの理想の場(労働じたいは 経験的なものですから)であろうと考えられます。そこで これには いくつかの条件が もちろんあって それを議論することが ここでのテーマであったわけです。
まず これらへの条件を いくつか列挙してみるならば まず 第一の条件として 《貴族制[β]》の分化としての《労働の身分制[β-1]》は それはおそらく 遅れてやってくるものであると考えられるのですが それ以前にその他の徳の分化形態・つまり 《武勇者の身分制[β-3]・皇帝制[ββ-3]》そして同じく《祈りの身分制[β-2]・その皇帝制[ββ-2]》という情況が さまざまな変形形態をともなって すでに発現し終わっていなければならない〔というか 歴史的にそのような順序にあるだろう〕ということです。これも 一応 一つの条件として見ておくことにしたいと思います。
第二には その経済的な水準つまり必要最小限の労働量は 一般に自由に発現されうるものであり また確保されているということ。単純に これです。
第三の条件には さらに同じように しかも《度量》の範囲においても 労働量は 一般に自由に意志することが可能であり 保証されていなければならないということ。
さらに第四には たとい労働量が 度量の範囲を超えて発現する またそれを余儀なくされることがあるとしても そのような日常化を促す必然性の論理が 個人にとって その内在からも あるいは外界からも 強制されているものではないということ。つまり 余儀なくされているけれども それは 強制ではないという基本形式[α]の優勢であるような情況でなければならない。これは 単に内在からの絶対的な要請ということになれば それはむしろ《祈りの支配制[β-2]》の属することになり――そのもとで労働することになり その労働が度量の範囲内であっても そうであり―― また同じく 度量以上の範囲を余儀なくされることが 外界からの否応なしの要請にもとづくものということであれば それはとりもなおさず 《情況のカエサル(ないし武勇者)による全面的な支配制[β-3]》に属すると思われる そのゆえの一つの消極的な条件だと考えます。
第五には 従って 前提というより 結果であるものとして 《貴族制[β]》のいくつかの分化形態が 歴史的に――変な言い方だけれども―― 一通りなされ終わったとしたあとで いわば最後の《労働の身分制[β-1]》が しかも歴史の経糸としての《民主化[γ]》の契機にも ともなわれて ととのってくるならば つまり経験基本的な形態としての《労働の身分制=民主制[β-1]=[γ-1]》の情況にいたったときには そこにおいて それまでの歴史的な経緯を揚棄するかたちで ふたたび《全体的な徳の度量制 [A]》 あるいは一般に真正の《貴族制[B]》ないし これを別の視点から見るところの《民主的な有徳者制[Γ]》を そのみづからの内に含み しかもそれを超えていくことができるであろうということです。
なぜなら そこでは 《徳》の
それぞれが それぞれの偶有性としての位置を得て それ以上 落ち着くことのできないほど しっかりとおさまり(個体の内に 過程的に おさまり) しかも自由に発現しうるという情況にある・・・つまりたとえば《わたし》は《わたし》にもっとも適した《祈り》を自由に 選択する。ただし この《祈り》は 他の徳の領域とは 競合するために 別であったり 一体となったりすることは ない。なぜかと言えば この《祈り》は 他の《勇気》《知恵》《ユーモア》など または《労働》と同じように つねにすべて《わたし》の個体としての形式の中に 一たん包摂され しかもその個々の領域で 情況に応じて それぞれ相応に 発現するようになっている・・・ということからです。
以上に述べた条件のうち その第五の 条件でもあり目標でもある事柄は・・・
(つづく→2006-04-16 - caguirofie060416)