caguirofie

哲学いろいろ

#22

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第四日( v ) (情況または《社会》)

――このような[β]ないし[γ]の変形形態を見ておいて 次に この《富裕者支配制》へ移りたいと思います。
と言っても 同じく 身分制[β]の一形態のことだと思うのですが また 先日(第三日)も ナラシンハさんが 《身分社会》という言葉を出して 《都市・商業身分の興隆する社会9といった情況として 言っておられたと思うのですが それは おそらくこの一つの《身分制》のことだと思います。
――確かに。
――それでは ぼくのほうから 先に議論を始めさせていただければ 初めに 一般に《身分制[β]》を もう一度 論じて そこから《富裕者支配制》ないし大きくは《労働の支配制》・《労働という徳の身分社会》へすすんでいきたいと考えます。
こういうふうに考えます。
まず初めに 一般に《身分制(身分化)》は 歴史の緯糸であり どんな形態であれ一つの新しい情況が 歴史的に 確立されたならば その情況の範囲内で いわば常に低音部を奏でるように その情況の身分化への契機がはたらくことであり その結果 つくられたものであったわけですが――そして いまは このような身分化の作用が まったくない社会 または 存在する身分化の作用に対して まったく抵抗しないでも 民主制が民主制である社会を 想定しようとは思いませんから――
この《身分化》という契機は たとえば《純一な民主制[γγ]》に対しては むしろ《個別性》の自由・ないしその独立性という意味での互いの差異を ――保証はしないが――無視しないように はたらいていると言えるのかも知れない。つまり《民主化》の契機に対して言っても 重要ではないけれども この《民主化》を言うそのことじたいが この《身分制》との関係概念であるゆえ 両者が互いにさらに 対抗概念であるというぶんには――情況を問題にしている限り―― 無視してしまっておいて いいというわけには行かない。
歴史的にすでに過去となったものと考えるべきなのであるが この身分化の作用は また別の形態の情況をもたらすこともあると 指摘しておかなければならないでしょう。それは いづれかの情況において 真正な(?)意味で 貴族制として ただ《徳》が その一代限りで 重視されるというのではなく――これのみではなく この《徳》の成果・そしてそれによって固定される《身分》が むしろ貴いものとされるという意味で つまり第二次的な《身分化》の契機が作用するばあい。言いかえれば たとえば武勇や労働という徳ないし行為ではなく それ以上に それらの成果のほうが またその有徳者の世代連続的な人脈のほうが それぞれより重要な《帰同》の対象となるばあいです。
これが もっとも論じたかった情況であり くどいように繰り返すならば つまり一代限りの《徳の身分制》が いわば真正の《貴族制》として 《身分制》の第一次段階だとするならば いま問題にしようとするのは 《身分制》の第二次(ないし第三次等々の)段階と言うべき情況であり また《貴族制》の分化・転化とも考えられる形態であります。それは おそらく 《徳》および《徳の成果》が貴ばれ それによる《身分》が固定化された《身分制》の中から さらに新しい《民主化》あるいは《身分化》の契機がはたらいて出現する情況ではないかと まず考えます。
おそらく 《労働》ないし 思想という意味での《祈り》 の《徳》は ぼくたちの意志の中軸――形式形成――にとって 基礎であるので いま 《身分制[β]》(その第一次とか第二次とか)といっている段階は そこに 同時に 《民主制[γ]》の問題が はらまれていると考えられ 《祈り》以上に《労働》が 基礎であるというときには 《労働の身分制(貴族性)》は ほかならぬ《労働の民主制》の問題として 同時に 存在する。議論の前提は このようであると考えられます。
まず 《身分制》の第一段階・つまり 単純に しかも全般的に 《徳》がとうとばれる段階・あるいは 高々 《血筋》という個別的な要素への《帰同》がはたらく結果として 《徳》の身分が相続され 《有徳者制》が その意味で 固定化されたとしても 一代限りの《身分制》の段階――ここでは まだ さまざまな徳が それぞれ等しく そららなりに尊ばれるわけで つまり 徳の中でたとえば 武勇が重んじられることは 労働における勤勉が 大切にされるというのと同じ性質のことに属し また反面で 同時に 祈りという行為の徳も 等しく貴ばれているわけで そこでは 一般に《形式》の 個別的な徳への分裂が 起こっていないと考えられます。
しかし 次の段階として このように徳が全般的に貴ばれるのみではなく 《徳の成果》が帰同の対象となるばあい――哲学者ソクラテスが尊ばれるのではなく ソクラテスの哲学が・そして一般に《哲学者であること》が 帰同の対象などとなるばあい――が 考えられます。つまり ここで 徳の基礎である祈りも 一つの徳とするならば 《貴族(有徳者)制》[β]が かんたんに言って [β-3]《武勇者制》であるとか [β-2]《祈りの支配制》であるとか あるいは[β-1]《労働の支配制》などというふうに それぞれ分かれて転化する個々の場合です。
この分化じたいは むしろ《民主化》という歴史の経糸によって みちびいていったものかも知れず この分化が 転化し固定化した形態となるのは あらためて《身分化》という緯糸の作用によるのであるかも知れません。
さてこの[β]《貴族制》から転成した形態であると仮りにしたもののうち [β-2]《祈りの支配制》は すでに《民主制の純化した形態》[γγ]として取り上げました。この形態についてさらに もし仮りに《貴族制》からの転化としての側面[β-2]を重くちょらえるとするならば それは 《祈り》という《非身分》の徳・すなわち 有徳者制である限りで 非身分という身分 が特別に主権者とされたかたちでの分化・強大化であると思われ そのような《非身分の身分制》は 《祈りの第一人者(有徳者)の支配制》となると考えられます。[ββ]との関連で言うならば 単純に 《祈りの皇帝(カエサル)制》[ββ-2]=[γγ-2]であるとも言える。
次に [β-3]の《武勇者制》についてですが 今も少し触れたように これもすでに ――これは 《武勇》が 個体の形式を形成するうえで 特別に主要な《帰同》の対象とされる場合を意味するのですが それは 一つの《徳》であるからには 《僭主・独裁制》[β’]へ転化するのではなく―― 《武勇の皇帝制》[ββ-3]ないし《帝国制》として述べております。
ただ ここでもう少しこの形態について触れるとするならば その内容としては まずこの形態においては 《帰同》の対象が もはや一回ごとの・つまり偶有性としての《武勇》の行為ではなく 《武勇》の行為の結果 すでに獲得されたもの(つまり 占領した・およびされるべき土地・人民など その限りで《徳の成果》)へと 転換していると考えられます。ナラシンハさんの議論に従えば この段階は 《武勇》という一つの《善(善意の行為)》の必然化・日常化ということになると思われます。同じことですが 従ってそこでは 《武勇》の行為の偶発的な自由な発現をではなく すでに必然化ないし義務化された《武勇》の行為およびその成果の 継続的な発現および維持行為を 求めることになる。
あるいは 別の視点から言って まず そもそも《血筋》とは 祖から自己そして子孫へと続く・最小の形態における一つの類的な存在〔の相続〕であるとともに 祖〔の個別的な徳〕が獲得したいわば〔有形・無形の〕《身分》の相続でもあります。
そこで 《皇帝制》ないし《帝国制》とは 個人が《個体》としてと言うよりは むしろ《情況》じたいとして 《情況》が過去に獲得した〔情況際的な〕《身分》を 是が非でも 保守し さらには 新しい《身分》の獲得へと乗り出すことを 意味するものと思われます。そしてそこでは あくまで そのような《徳の成果》としての《身分》の獲得が その限りで そのまま自由で善なる《形式》の獲得であるとして 帰同の対象とされているのだということは 自明です。
さて 以上は 《貴族制》の分化として  《祈りの支配制》[γγ] ないし《祈りの皇帝制》[β-2] および 《武勇の支配制][β-3]ないし《〔武勇の〕皇帝制》[ββ] これら二つ(二組)について見たのですが 次は 問題の[β-1]《労働の支配制》であり それを《貴族制》の一分化形態だとして ここでは 見ています。
まず この情況は それが 明らかに《労働》という徳を中心として 展開されることより ――他の二つの場合・つまり [β-2][β-3]のいづれの場合において その徳の第一人者(最高善)が それぞれその《皇帝制》を敷きうるであろうと見たのと同じように――一つの究極としては 《労働〔の勤勉=産業〕》の第一人者が 《労働の皇帝制》[ββ-1]を敷くといった形態ではないかと まずすぐには考えられます。しかし事は そう単純なものではないようです。
なぜなら まず 《労働の第一人者》とは どのような《個体》を言うのか 必ずしも 明確ではありません。論理的には むしろ明確であるかも知れませんが 《労働》にかんしてのその《第一人者・最高善》というときには 明らかなようでいて 明らかではない。《〔武勇の〕皇帝》とか《祈りの皇帝》とか これらは それぞれ《国家》や《情況》に対して 直接その全体とかかわっているのであるけれど 《労働という徳の最高善・第一人者》が 《情況》に対して そのまま 全体的に《皇帝》として かかわることには 本来 なじまないものがあるように思います。ぼくたちの意志の《形式》形成にとって その中軸である《祈り・思惟》は それなりに《情況》全体にかかわり 最高善を人びとは 選出してしまいうる。あるいは この《形式》形成の中軸の 防衛のための《武勇》は それが必要と考えられる限りで 同じく人びとは その最高善を 選出してしまいうる。同じく《形式》形成の基礎である《労働》という徳のばあい 単純には ただ一人のではなくとも 複数の《最高善》(第一人者としての勤勉家・産業人)を 言い当てることは 容易であるかも知れないですが よく考えてみると この場合は 《選出》というのではなく――労働が 形式=生活の 基礎であるゆえに――すでに はじめに そのような複数の最高善( captains of industry )は いづれかの段階で 出現してしまっている。しかも これは 必ずしも 《労働の皇帝》となるわけではない。つまりもし そうなるとしたなら それは すでに――基礎たる労働の領域から離れて 《祈り》や《武勇》の場合とほぼ同じように 政治的な(政治家としての)《情況の皇帝》となったことを 意味する。
すなわち 《労働(産業・企業)の皇帝》であることと 《情況の皇帝》であることとは 別である。両者は――労働という徳が 形式形成の 誰にとってもの 基礎であることより この基礎領域を 離れるか離れないかによって 区別されるから―― 本来 互いになじまないものだと考えられる。
この議論に沿って もう少し進めるならば あるいは正確に言って 《労働の第一人者》の形式は その労働ないし生産の場(そのような一情況)を ちょうど《皇帝》がその領土を拡張するように また 《祈りの皇帝》がその世界を拡大するように それなりの情況を拡大し それなりの《労働の皇帝制》を敷くというふうに 考えたほうが よいかも知れません。
(つづく→2006-04-14 - caguirofie060414)