caguirofie

哲学いろいろ

#10

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第二日( j )  (精神の《形式》)

――なるほど。実際の問題として 前半の部分つまり 理論的に究めるという意味での理念と 実践的に実現しようとする意味での理念との 両面の例には いくらか あいまいであり承服できないところがあるですが それはそれとして今はそれ以上 触れないこととして
最後の議論つまり 《情況》〔というわたしたちの外界にある社会的な自然つまり第二の自然とも呼ぶべき事象〕が わたしたちの《形式》を 或る意味では わたしたちの内面においてどう思惟を重ねようと否応無く〔少なくとも その時点で 現象的には否応なく〕規定し 現実にそう決定してしまうということ このことには 納得せざるをえないものがあります。
繰り返すならば 《情況》という外側からの力の作用に わたしたちは弱いという一面がある。そのとき みづからの《形式》を持つのではなく また 形成するために持っている力を発揮しえず 社会や組織の情況という一種の形式に従わざるを得ない場合ということをボエティウス君は指摘した。
従って 善意の意識的な必然化が 日常行為の政治化に――第二段階として――進むといった場合にも それは 限定して取り扱わなければならないか むしろ 原則的には 撤回しなければならないかも知れない。第二段階は 第一から派生する第二段階としてやって来るのではなく むしろ別の道をとおって つまり外界の情況の影響を受けて やって来ると言わなければならないのかも知れない。そのときにも 実際に 客体的な情況だけではなく 主観的・主体的な――だから そこに客観を容れた理念的な――形式が はたらく余地はあるとは 思うのですが。

  • 思考や行為形式としての主観の内に 過程的につねに改善していくその時点ごとの客観認識を容れていくとするならば 情況の問題と 個人の日常政治化の問題とは 通底しているとも見うるようでもありますが。

ただし なぜかと言うと きみの議論に納得しないで 情況の要請というものを拒み そうして意識化した形式をつらぬくなら そのとき初めて 上に言った第二段階になると思われるからです。これは むしろ 善意の行為の政治化ではなく 非政治化ないし政治の拒否といった閉鎖的な善意になると思われるから。
つまり これは 形式=善意の無につながる。だから確かに まず情況の問題をみとめた上で その後 善意の行為は 情況形式と自己の形式との間隙を埋めるべき新たな形式の形成を模索していくであろうから。
そこで もっとも 情況というものが そのように わたしたちの〔自由であるところの意志によって形成される〕形式を まったく包み込んでしまう形で あたかも《自由》がそこでは消えてしまったかのようにして 存在しているかに思われるということ このような問題が 課題として持たれることになるかと思われる。が 今は ただちに これへと突き進まないかたちで 議論をつづけたいと思う。今は 現象的に 従ってその意味で形式とかかわったかたちで 《情況》が 《形式》を覆ってしまうことがある という認識で満足し それ以上は 触れないことにしたいと思います。
言いかえると 情況という新しい課題に 依然として 善悪の判断の基準というテーマで 行けるところまで すすんでおきたいと思うのです。――ちなみに 現在の情況を否定して それに代わるべき別の新しい情況こそが わたしたちの形式を覆い包むべきだという議論 ないし その実現に向けての実践 そのような立ち場については これまでにも そうしたように 《つねに新しいかたちで 善の偶有性を必然化していくものとしての政治の・したがって同時に 日常生活における政治の領域の すべての形式形成にかわわることがらである》という基本的な実践の理念を前提としておくという恰好です。それは それが 日常行為の形式と微妙にからまって ただし もはや形式を 現在時において 問題とするのではなく しかも《新しい〈形式〉主義》となって その意味で同じく 新しい《内容(質料)主義》となりうるとは 考えられるのですが。
つまりわたしの言いたいのは 主体的・主観的な善悪の基準というテーマでの議論が そのような情況論を生むとは考えられるのであって しかも その逆ではない。この意味で 直接的な議論の対象とは まだ しない。そうして保留してすすむという・・・。
――ええ 同感です。
――そして これらの前提を踏まえた上で この情況について むしろ 触れたいのですが ここで或る見方をとれば この情況というものこそが 一般に《無駄》をその基調とする・どうでもよい日常性の関係・形式にみえるかも知れないが この中で 善悪の基準の有効性が 問題となっている。そして そこから 時として 情況論へすすむという・・・。
これに対するわたしたちの見方は こうです。ボエティウス君は 情況が その中の一個の人間の――いかにそれが 自由といえども その――意志のみによって(その人間の思いどおりには)作り変えられ得ないものであるからには そこでは 《意志の・善意の行為》が 日常的に政治化されているというのではなく――議論の順序としては そういうのではなく―― 情況じたいが政治化されているということを言った。情況は 単に 偶然のあつまる現象(つまり 人間の善意の支配下にあるもの)ではなく それは 情況じたいに わたしたちのたとえば おせっかいを焼いたり あるいはわたしたちを欺いたり あるいは支配関係の中へ包み込んだりする必然性が あるのだと。
そしてあるいは そこでは人びとは その情況の要請する形式を みづからの形式として 大なり小なりみづからの意志に反するような形ででも 採用せざるを得ないと。
つまり次には そのとき そのような情況の中で 今度は 情況に自己を対立させるのではなく むしろ情況の側に立ってそれを採用するという形で 自己の理念(自己が善とする観念そしてその形式)をもって 他者と相い対するとき そしてその理念において他者からの対応を望み意図するとき そのようなとき その行為は もはや 自己の意志のみによってはどうにもならない情況という形式の部分が 大きな位置を占めている。
占めているというからには ほんとうの意味での 自己に固有の意志が見出されていない からには その意味で 無意志である。だから 無形式である。だから 真の《善意の行為》ではなくなっているし そうではありえないということでした。むしろ《悪意の行為》に属すると。
つまり 善意の行為は あくまで善意の行為であって 反イデア的・反形式的なものではなく 原則はどこまでも原則として 有効でなければならないと。
これに対して わたしたちの側から――それは 観点が動いただけで あるいはともに同じことなのかも知れませんが―― こう見ることができると思います。かと言って 次のように述べると さまざまな反撥が 必至であるとは思うのですが 述べてみます。
つまり こうです。
まず このような情況という・人間一人ひとりの意志を超えたところのものも 実は わたしたちの意志を 絶対的に超えて〔制約して〕いるというほどの意味では 存在していないのだということです。
あるいは むしろ逆に 情況が わたしたち個人の意志を絶対的に超えて制約しているとするなら その制約とともに――その制約とともに です―― 本来の自由であるという基本的な認識が わたしたちの立ち場には あります。この命題の意味は このように唐突に提出したということ以上に 理論的に説きがたいことだとは思うのです。が さしあたって述べておきたいことは まず この命題は 超論理的ではあっても 非論理的では・ましてや反論理的であるということはない。
わたしには思えるのですが むしろ こう言うことによって 上に触れたあの《内容(質料)主義》によるところの一つの情況論へ そしてその実践へ すすむことができるのだということです。これを言わないと この新しい形式の主張は 日常行為の政治化つまり日常におけるその形式の押し付けになると思われる。そして 言えば それが免除されるということにもならないのであるから 新しい形式=内容を説くときには つねに 主観的な 善悪の判断ということが 議論として 先行するように思われてならない。
つまり 政治化の回避であるとか どこまでは政治化していいとか つまりさらに言いかえると 善意の行為の――それは これまでの議論で 原則的に有効であるから――現実的な有効性の基準は なんであるのかが 議論として 先行するように思われます。
詳しいことは 次回以降にゆづることとして このことについては その出発にあたってまず 二・三の点を 次のように 言い添えておきたいとおもうのです。
順序にこだわらずその点についていえることは まず たとえば わたしたちにおいて《〈認識〉はゼロであり ゼロとして存在する》ということに関して言えば 単純に言って 主観的な意志の自由 つまり 《無制約》という認識も 情況の不自由ないし《制約》という認識も ともに同等に ゼロであると見なされるだろうということです。
ともに同等にという点を強調しなければならないのですが たとえ《ゼロと見なす》ことが退けられるとしても ここでの《自由》と《制約》との双方が 同等の比重にあるとの認識は 重要だと思います。なぜなら 自由のほうは わたしたちの存在と同じ意味のものであったにもかかわらず その意味で とうぜん 善である存在の自由ということのほうに 比重は 一義的に かかる というにもかかわらず この善はじつは偶有的なものであるのであったのだから そういうことになると言っていい。この意味で われわれの意志は その意志を超えたところの情況と じつは 通底しているはずだ。
このような認識は 成り立つと思われるのです。これによって わたしたちは 情況・またその支配的な力をもった一般形式を 保守するために言っているのではないと 強弁してもいいように思うのです。
先に 通底していない つまり われわれの意志とそして情況とは 断絶していると認めておいて こんどは 通底しているということは 何事だと言われるかも知れない。だが 隔絶性を認めた上で なお少なくとも認識上 それらの通底性を 言うという側面が わたしたちの立ち場には あるように思われる。これでいいかどうかは ボエティウス君にさらに論じてもらうとして 出発点としてなら この認識でも一向にかまわないのではないかと思っています。むしろ そうでないなら そうでないとすべきであるし あいまいにしたままで または この土壌にかんするような一認識をとびこえて すすむべきではないように思われる。
情況の制約というものは 制約つまり不自由としてあるが この制約は 自由(自由意志)と 根っこのところで通底していると見ることが―― 一認識として――できるし それが大方の認識であるならば この認識をもつことへ制約されている そしてこの制約を出発点とする自由が 依然 あるというようにさえ・・。
後において述べることになると思いますが この《自由》と《制約》とは それぞれその究極的な〔経験上の〕形式ないし関係は 現実においてそれぞれ《家族》および《国家》によって 象徴されるといった性格のことがらです。つまり 個人的な意志の自由の究極は 《家族》において現われ その制約の究極・すなわち《情況》の情況たる究極は 《国家》において発現するであろう。あるいはさらに言いかえて 《個人》対《情況(つまりその究極の国家)》のその究極的な対立は その双方の《自由》も《制約》も 現実に《個人》が個人にとって固有で唯一の《家族》の一員であることにおいて それぞれ特殊性を帯びたものとなるだろう。自由の特殊性も 制約の特殊性も 家族の中に あるであろう。そして その《特殊性》においてこそ 固有の《形式》が 形成され完成されるであろうというふうに。
まったく別個の見方においては たとえば《自然》というものの存在が ある。それは 先日 議論したように きみたちの立ち場においては もしそれに《自己(=自然じたい)の存在を否定するようなはたらき》が ないとすれば つまり《精神的な存在》でないとすれば この意味で 実体というものの欠如した《自然(素材)》であるということだった。そこからは これまでまだ明確には触れられなかったと思われるけれど この《自然》に対して 《精神的な存在》としてのわたしたちが 従って精神から発して《形式》を形成する上で 何らかの関係をもつわけなのですが その《関係》には 二種類の方向があると考えられます。
つまり それらは 或る視点からは 互いに表裏一体であるとも見えるけれども 《自然》に対するわたしたちつまり《精神》の 支配と・もしくは従属という二方向です。善=存在は 偶有性であるという大前提に立っているから 《自然》に対するわれわれの《支配》ないし《従属》という極端なニ方向を いまは想定してみます。
《関係》あるいは《形式》は そもそも 他者の存在(精神)を前提しないでは成り立たないからには おそらくこの場合 正確には 《わたし》と《自然》とのあいだの現象・行為を 《他者》から見て あるいは《支配》あるいは《従属》のいづれかの方向性があると見なす だから実際には そのような《わたし》と《他者》との関係・形式が成り立っているということであるわけですが・・・。
次にまた 《自然》に対しては 《誠実》だとか《冷酷》だとかの《形式》は 成り立たず あるいは 《おせっかい》を焼いたり 《詐欺》をはたらいたりする《関係》は 当然 成り立つものではなく ただ 《形式》や《関係》に準ずるものとして たとえば《支配・従属》の方向性が この場合 考えられるものと思われます。そこで 問題は 《情況》を このような《自然》と見なすかどうかです。
具体的には 《情況》は 一方では 抽象的に言って そのものに 純然たる《自己否定》が――つまりちなみに 否定というときは 偶有性たる善の存在を 肯定しているゆえに 過程的・経験的に 否定できるというものですが この自己否定が―― 存在せず だから そこには《形式》も 本来 ないと考えられるのだけれど しかも他方では しかし 非《形式》 非《精神的な存在》であるからと言って 《自然》そのもののように 単なる具体的な事物・現象として存在しているわけでもなく 《情況》は つねに あくまでわたしたち個人の行為・従って《形式》の集合したものであり 要素としては 今度は逆に その人間的な《形式》のみから成り立っているというものである。そのような《情況》とは いったいどんな現象であるのか。
つまり 本来は《形式》と無縁で 自然的(第二の自然)であり しかも その個々の要因はすべて 《形式》であるという矛盾した現象―― わたしたちは 《社会》ということばを 極力 使わないようにしてきたようなのだが―― これを 社会的自然とよぶならば そこには 支配・従属の方向性のほかに さらにあたかも その現象が いわゆる《関係》を形成するかのように おせっかいを焼いたり 詐欺を働いたりする方向性が 存在するのを見ることができるだろう。そこで 振り返ってみて 《支配・従属》も――つまり このような方向性をもつ関係が 形式の不自由たる制約とか隔絶とかを 言い表わしているわけであるが この支配・従属も―― 実際には 《おせっかい》や《詐欺》やと同じように あくまで《善(善意)》から生ずるものであった。善意でなければ すなわち悪意の行為ならば それは 本来 無形式で 関係というものを いっさい形づくらない。それこそ 単なる自然現象であるにすぎない。雷が落ちるとか 犬がかみついたとか こうしたたぐいの現象にしかすぎない。だけれども ほんとうには このような《自然人》など いないわけであるから 《支配・従属》の場合も 人間意志・善・存在が 基本的に かかわっている。つまり これらの《形式》は 必然的に 精神ないし意志による行為を 前提としていたはずです。
従って このことから そこでは《情況》も ひとつの統合的な全体として あたかも それじたいの《善》を持ち《意志》をはたらかせ 《形式》を作り出していると その限りで 考えられます。またそして このことから 先ほどの議論・つまり わたしたちの意志を超えた独自の存在としての《情況》といった議論が生じたのだと思います。
さてここで これだけのことを踏まえた上で わたしたちの主張は むしろこの《情況》が わたしたちの《意志》からは 絶対的に隔絶しているものではないということでした。が それは 先にも述べたように この《情況》が 具体的に現実において 《国家》と《家族》という両極に分かれて・従って互いに引き合ってあるということからの問題提起であったはずです。
つまり こうです。
(つづく→2006-04-02 - caguirofie060402)