caguirofie

哲学いろいろ

#9

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第二日( i ) (精神の《形式》)

――つまり問題は ここからであり 従って 問題が実際に起こるとするならば それは この《善の必然化(形式の意識的なつらぬき)》の第二段階とでも言うべきことがらであると考えられる。
これは 端的に言って 《善の必然化〔という形式〕の日常化》というものだと思われます。あるいは 善の必然化が 政治の領域において典型的に見られるということから それは 《善の〔必然化した形式の〕日常政治化》とも呼べるであろうと思われます。
さて 必然化された善の日常化とは 善がそもそも偶有性としてあるところの《日常性》を その善の必然性形式で埋めようとする《意識》であり これも 形式であるとするなら 《形式の形式化》であると考えられる。これは 《関係》としては おのおのの《精神》の内にあるいろんな《形式》の《可能性》に 外から訴え しかも同じかたちで その訴えをつづけるという《意志》であり 《行為》であると思われる。それは 《意識された形式による・つまり善意の 行為》であるから 《善悪の判断〔の基準〕》は 固有に この問題にかかわっていると思われるのです。
従って次には このような第二段階の《善意の行為》の結果は 無駄ではなく いわば有駄であり――故意におこなうのではなく しかも 形式に対しては意識しており その意味で 結果をむしろ知っていないところの善意であるゆえに その行為は 無駄ではなく 有駄となる―― この意味で どうでもよくなくなり 有益か有害かのいづれかであるというものになるでしょう。 
つまり 自己が抱いた善意は 善意ゆえに 他者の側においても その結果として 善(利益)か悪(害)かのいづれかを むしろ求めているような意志ないし行為を 基本的に 意味していると思われる。・・・この場合 ちなみに 《悪意》とは《悪》が《善に欠けるもの》であって 従って《形式》が欠如しているものであるから 他者との関係としては 原則として(根本的に)成り立っておらず そのような悪意による行為の結果は すべて悪意者じしんが こうむるという性質のものである。
逆にいえば 被害をうける場合は その相手が 善意者から利益を受けたり被害をこうむったるするのは 善が本来 偶有性としてある限りは それぞれつねに《偶然》によるものであると思われる。
つまり 《善の日常政治化》は どういうことかといえば。
まずここで 《政治》を 
第一に 偶有性としてある善を必然性の糸で結び その形式を身につけること 
第二に 多数の人びとによる《善意の行為》を調整し しかも全体としてひとつの統一的な善(つねに 偶然過程)を 第一として述べた形式において実現させること 
であるとするならば――もう一度言って 政治とは これら二つのことがらであるとするならば―― これに対して《日常生活の政治化》とは 次のことを意味すると思われる。
つまりそれは 第一に 日常の中の善意者は みづからの形式において 自己の善の実現をはかるものであり 第二に そのとき 他者の〔いくつかの〕善を調整するというよりは むしろ その善意者じしんの善ないし形式を あくまで つらぬく――なぜなら 偶有性としての善を必然性としたということは 他の善に対して みづからのそれよりも大きな・論理的にも優れて妥当すると思われる必然性を有すると見ない限り みづから折れることを欲しないであろうから――というものだと思われます。
日常生活の政治化とは たとえば 
第一に その善意の行為の結果が 無邪気な介入であったと あとで笑って済ましうるようなものは 《お節介》ということに代表される《必然化ないし政治化》であり 
あるいは第二に その行為の結果が 半永久的に 行為を受けた人が その善意の行為者の形式に対して 奉仕者として従うというものであるときは 〔たとえば 忠誠心をその内容とする〕《支配・従属の関係〔形式〕》であり 
あるいは第三に その行為の結果が・言いかえれば 行為者の善意と見えたものが 行為を受けた人にとって 結局 何の利益にもならなかった・そしてむしろ被害だけが残ったというときは それは 《詐欺》という日常性の政治的行為である などなどを意味するというように。
従って 日常性において 善意の必然化という政治的な行為がおこなわれるならば そこでは 実際の政治行為つまり国家として 多数の善を調整して一つの統一的な善の実現を図るというものとは違って 善意者と名のる人びとの数だけの善があり そしてそれぞれの実現化への政治的な行為が繰り広げられるというものです。・・・そこで わたしの主張したいと思う点についてですが・・・
まず 哲学者が わたしたち人間は 政治的な動物であると言ったとき それは 国家に所属する限り その国家としての・国家における善(生存)の実現(つまり政治)に目を向けなければいけない・そして向けるものである(つまり 政治の形式をも身につけるものである)ということであって それは 日常生活の政治化を意味しては いない。つまり国家としての善は ひとつの面として 法によって成員一人ひとりが それぞれの善を自由にえらび それぞれその実現に努めることができるように取り計らうことである。
従って その限りでは 成員であるわたしたちそれぞれが 自分の善を想像(形成)することは 自由であり またそれは 成員それぞれの関係ないし形式が 自由であって またそのことは ある成員の善の選択が 何らかの関係をとおした他の成員の善という形式からは 制約されたり強制されたりすることがないというように 保証するものでなければならない。そのためには そのとき とりもなおさず 《関係》というものは どうでもよいものでなくてはならず 《形式》は 内面を拘束するようなものとして 意識によって絶えず必然性へ高められた不自由 であってはならないということになるでしょう。
つまり 日常生活においては 無駄という・どうでもよい関係が その基調であって 善は そのとき つねに偶有性として存在しえて つまりつねには発現することを余儀なくされるような必然化を伴なわないなら その限りでわたしたち〔の精神〕は 自由である。
従って ここで 《善意の行為》は それが 日常〔生活における行為の政治〕化を意味するならば その限りにおいて 必然的に自由〔を保証するところの無駄〕を排除するという意味で 違法である。
これが ボエティウス君 きみたちのイデア論への批判です。つまり要約して イデアの有・ないし形式の意識化・日常化ということが 実はそのまま 非イデア的ないし反形式的であるということです。
――まず 論旨は じつによくわかったように思います。・・・しかし ナラシンハさん ぼくたちの側に 反論がないわけではありません。そして その反論というのは 具体的な個々のことがらについてではなく むしろ そのような批判に対しては そこに或るひとつの見落としがあるように思われる。そしてそれを指摘すれば むしろ足りると思います。つまり 次のようです。
それは そのような形式=イデア あるいは理念=イデアには 二つの側面があるのであって つまり一方は 理論的に・ときに観念的にのみ そのイデアを対象として客観的なものへと究めていく場合であり 他方は まさに実践的・実在的に 形式を意識し 自己の理念に従って その形式を完成させようとする場合です。
これら二つの場合は もちろん図式的に分けた例にすぎないのであって しかも いづれの例も それ一本では イデアの原則(実践的であって それは 過去の一形式を超えて 過程的に 理論していかなければならない)を 満たしていないと思われる場合なのですが。そして これらいづれの例でも それぞれ一面的に 今言われた《善意の日常的な必然化》に陥らないとも 限らない。
つまり 従って 《イデアの有》ないし《形式の意識化》によって ただちに 自己がその高められた不自由という〔道徳主義的な〕《形式》の中へ 現実的に不可避なかたちで追いやられ 捉えられてしまうことを 意味しもしなければ 実践的に 《無駄》という一般的な形式を超えてまで 相手の《形式》に対して訴え その内からの反応を求めていることになるからといって ただちに 〔形式や理念の内容であるところの実質的な〕自由を 侵すというわけものでもないはずです。
言いかえるなら 形式上は無駄というどうでもよい関係を超えて 互いの内なる自由〔に直接 触れるかたちで 自由〕を揺さぶっていたとしても それと同時に 理念としての形式の根本的な善・ないし この善であること以外のどんな規定をも受けないという意味での精神の根本的な自由は 決して揺らぐことはない と言うことができるし また言わなければならないと思います。
ぼくの考えでは いま言われた《善意の行為》が もし日常行為の政治化を意味するということがあるなら それはむしろ 日常の生活を取り巻くところの・経済的であるとかの 一般的な情況を媒介として形成された場合の《形式》というべきだと思います。
つまり そのような場合では その《善意の行為》は その自らの目的に〔応じて〕対応するような行為を 相手から 引き出そうとするという意味で むしろ 《情況の政治化》というべきであり また逆に言って そのように《政治化された情況》に おのおのが それぞれの形式を合わせようとすることが その内実〔であって ほんとうには 《善意の行為》でも 《日常行為の必然化・政治化》でもない〕と思われます。
従って むしろ そのような行為はその《情況》〔じたいの形式〕を――洗脳されてにせよ 自ら進んでにせよ―― 自己の形式としているからには 《意志》は そこでは実は 自己の内に第一義的には はたらいていないのであり あるいは少なくとも 《善意》というのではないということになるでしょう。自らすすんでの場合も おそらく一面的な情報や根拠にもとづいて判断した結果なのであり 形式が未熟だと言える場合なのではないでしょうか。

  • このことも 確かに一つの原則論であるかも知れません。しかし 原則のないところに 善悪・実体・形式などを論ずる意味は ないはずですから。
  • もし卑近な例で言って 《情況》における有利な地位を利用して そのような《形式》をではなく その人なりの意志による或る目的を実現させようとするならば その行為は もはや確かに 形式つまり善意に欠けた行為へ傾くことになります。つまり もはや《情況》を利用するという形式というそれなりの善が 存在しているにすぎなくなるのですから。これは 善意の行為に似ていますが 自己の形式の意識化によるのではなく 自己の形式を他人に強制的に意識させることによっている。・・・

――なるほど。実際の問題として・・・
(つづく→2006-04-01 - caguirofie060401)