#20
――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323
第三日( t ) (〔精神の形式と〕《情況》)
――まず 先ほど 《〈わたしの神〉と 〈情況のカエサル〉とは つねに対立し抗争している》という一つの命題を立てたのですが ここからは 《貴族制》と《民主制》との二契機ないし二形態に関連して 次のようなことが 明らかになると思われることです。
つまり この命題からは まず基本的な理念として よく言われるところの
という《形式》が 説かれて来ます。あるいは いくぶん片寄った見方として
とも またそれとは逆に
[γ] 神のものも カエサルのものも 神へ。
とも それぞれ概念が 派生するものと思われます。そこで これらの点についてですが。
まず 後の二つについては――少し図式化しすぎるかも知れませんが―― はじめの[β]の形式の支配的な社会では 《個体》は 当然 《多数の中の一者》どうし(つまり互いに同等者)として存在し またそのような《同等者の中の第一人者としてのカエサル(つまり 《武勇》者に限らず 一般に 《有徳者》)》が いわば形態として 最高善とみなされていることを 意味し そしてそれは とりもなおさず その意味で 《貴族制》が形成されるのを見るであろうし。
また 次に [γ]の社会では 《個体》は同じく当然 《多数の中の一者》どうしとして存在しているのですが この《すべてが同等者である》という原則は その情況全般にわたって徹底している。従って 逆に言えば そのような《多数》の中の誰でもなく しかもそのすべての者を統一するところの絶対善が あらかじめ 想定されているということであり だから そこでは 第一人者つまり最高善(つまりカエサル)の存在は 影が薄れており そしてそれは とりもなおさず 絶対善の存在という前提を踏まえた上での――何らかの形で 踏まえた上での――《民主制》という形態が そこには あらわれるであろうと思われます。
つまり これらの類型における限りでの《民主制》・《貴族制》の形態は あるいは[γ][β]の二つの《形式》は 《個体の神》と《情況のカエサル》との対立において いづれかの側へ 一方的に 重心(帰同)をのせているというものであり その限りで 単にそれのみでは 関係(闘い)が ほんとうには 行為されているとは 思えないと見るべきだと考えられます。
このように言うときには 《民主制》というものを イデアとしてのみのそれ または イデア論としてのみの民主化・非身分化のことのように 見なしうる。また この範囲で考えられることは [γ]の絶対善は それじたいとしては 歴史の経糸であるが つまり イデアとしてそうであるが そのときにも [β]の最高善が 同じく緯糸として 作用しないわけではない。作用の要因としては それぞれ 民主化および身分化の経験的な形式となっている。
さらに これらの社会的な形態の二例としてについて それぞれの中の具体的な種類――それらのさらに変形形態――を見るならば たとえば 《貴族制》において [ββ]とも言うべきものは 最頂点の《貴族》が 単に最高善であるのではなく 《同等者の中の絶対的な第一人者》として立つときであり そこでは 《皇帝(皇帝主義)》ないし 《同等国の中の絶対的な第一者》であれば《帝国(帝国主義)》が 出現するだろうし また 同じく[β-1]とも言うべきものは《貴族》の《徳》の内容が 武勇や政治力にあるのではなく 労働や経済力にあるとされるときには 商業および産業の経済的な身分制の形態をとるであろうと思われる。
あるいは 《民主制》においても [γγ]とも言うべきものとして その《絶対善》が ひとつの《情況》においてまさに ただひとつの絶対善のみが 信奉されるときには・つまり 武勇や労働という徳そのものよりも その徳が徳でありうるための絶対的な条件としての絶対善(そのような思想)が 一様に とうとばれたときには 必然的に 《身分〔による差別〕制》は完全になくなり 無くなると同時に そこでは 《絶対善》とつながるためという意味での《祈り》(敬信あるいは帰同。これも思想であると思われる)のみが 支配する純一の《民主制》が 形態として とられるであろう。
もっとも ここ[γγ]でも 現実的に言って 《非身分制》の枠組みの中にも やはり緯糸としての《身分化》の契機は はたらくのであって ここでは《祈り》の行為を 基準にした《非身分者による身分制》が 現われると思われます。そのためにも 《神とカエサル》ではなく 《わたしの神とカエサル》という前提で議論しなければならないと述べていたのでしたが そのときには この[γγ]という純一な民主制というものも 少なくとも 形態として [β]の身分制を 排除していないと考えられます。
さて このように [β]および[ββ]ないし[β-1] そして [γ]および[γγ]を見た上で そこで 第一の[α]の理念・つまり 《神のものは神へ カエサルのものはカエサルへ》という命題についてですが もし 先に結論としてのぼくの考えを述べるならば 正直に言って ここには いま述べた[β]ないし[γ]の両形態およびそれらの派生形態を ともに綜合する高い理念が あると思うのですが しかしこの[α]にしても これまでの議論に沿う限りでのぼくたちの立ち場を 十分には説き明かしてくれていないと考えます。
さて このことについてですが そもそも《わたし》が《わたし》であるためには 《〈わたしの神〉と〈情況のカエサル〉とが つねに対立・抗争してい》なければならなかったはずですが そうであるのに 簡単に 《神のものは神へ カエサルのものはカエサルへ》と もしその対立を回避するように 双方が分割(判断)されているのだとするならば それは その限りで 《個体》の形成を もはやまったく静態的・観念的なものへ 引きとどめておくものでしかないと思われることです。
もっとも当然のこととして この命題じしんは 動態的な《形式》の形成・つまり抗争・闘争のなかから生まれ出てきたものであること そして またそれが 前に述べた[β][γ]といったそれぞれ一方へのみ片寄った・いわば現実情況への妥協の形式(形式の停滞化)を ともに 否定し そして同時にそれらを超えているということ これは分かるのだけれど。
では どこが 不十分なのであるだろうか。
まず この[α]の命題は その意味するところは いま述べたように どちらかに片寄った[β]ないし[γ]の両形式を いわば ともに揚棄するということですが それは 具体的には まず次のようでしょう。
単純に言って 先ほど説き進めてきたように 一方では 歴史の経糸の側面・つまり《民主制の純粋形式[γγ]》をその中に含み ということは すなわち 絶対善への帰同としての《祈り》は《祈り》として対象化して持ち そして他方では 同じく 歴史の緯糸としての側面・つまり 《貴族制の純粋形式[ββ]》をその中に やはりむしろ 包み持ち それは すなわち 最高善としての《徳》は《徳》として対象化し――さらに言いかえると 《武勇》という徳は《武勇》として 《労働》という徳は《労働》として それぞれを等しく尊び受容し―― そのようにして これら経・緯の両側面のすべてを 一段高いところで 分割(判断)し そして綜合するという行為・形式であると考えます。
そこで――いくぶん未来を見とおすようなかたちですが 述べれば――あるいは この[α]の言葉を述べた人じしんの時代(情況)には 問題はないのかも知れないと思うのですが 問題は このような《祈り》と《徳》(その中では 《武勇》や《労働》)とが 明確に分割された――つまり それぞれが それ自身として 認識・対象化された――ときの情況でのことだと思われます。
これは 今の時代のぼくにとっては きわめて思弁的な事柄に属すことではあるのですが たとえば《祈り》は《祈り》として 単に《わたし》の《個別性》としてあるだけではなく 《個体》として・つまり真に《わたし》に属する行為として 自由に 存在するような時 あるいは 《徳》の中では多分 《武勇》は或る意味で下に見られ その中の《勇気》は取り出され それを含む意味での《労働》あるいは《経済行為》あるいは 労働としての《政治行為》などなどが それ相応に しかも自由に 尊ばれる(帰同の対象となる)というような時 これらの時のことです。
さらに言いかえるならば 《祈り》であるとか《武勇》あるいは《労働》であるとかが 《情況》に対する個人の闘い(関係)における単に主要なものという意味で それぞれ唯一の手段ではなくなり すべてが総合的に省みられる時 のことです。
《勇気》は ほめたたえられるが 《武勇》はそのまま単に《武勇》として見られ 《労働》は 自己の一つの善を発現するものという意味での《労働》として 日常性の或る水準において 自由になしうるというような場合――それは 労働が 自己の形式形成という善の発現(これが 中軸)にとって 基礎であるが この中軸にとっての基礎であることじたいが 社会的にも普遍化し またその意味で この基礎の作業を すべての人びとが 自由に おこないうるというような場合を 含みうると思いますが―― そしてさらに 《祈り》は祈りで 自己に固有のもので真に自己が望む《信仰》〔を頂点とする思惟〕を持ちうるという場合 以上のような想定の場合・・・または これらの場合に対して・・・[α]の命題は どれだけ どのように 有効であるだろうか という問題です。
そのような時ないし情況においては [α]の命題は 実は それがすでに達成されており 達成された状態だと見るべきであり しかもこの《未来》が 思惟ないし理論として 《現在》時のことであるとするのならば どういう問題をはらんで その有効性は どのようであるだろうか という問題があります。
正直に言って しかし この議論にかんしては もうこれ以上 触れる用意はないのですが また逆に このことを押さえておくならば いろんな角度から あらためて自由に 議論をすすめていくことができると思われます。
かんたんに 上の問題を 内容として とらえるぶんには ぼくたちの形式形成の基礎としての生産のちからが 飛躍的に 発展して そのような基礎をなす経済的な生活の自由が 形式形成つまり個体の獲得と よく 連携をたもっているといった 個人的にも社会的にもの 特殊性の開花ということだろうと思われるのですが これが 現在の身分社会と どのようにかかわっているのか。ぼく自身の議論の焦点としては このことになると思うのです。
もし ひとつ 素朴なかたちで 大胆に ぼくなりの考えを述べさせてもらって 議論をすすめたいとなれば 次のようなことを――それは 用意してきたことではないのですが――提示できるかも知れません。
この問題にかんしては 《ソクラテスを描いた哲学者》の議論に反することになると思うのですが その考えというのは 《神のものは神へ カエサルのものはカエサルへ》 それぞれ ある一定の形式において還元されると考えられる情況においては 《祈り》でもなく 《労働》でもなく しかもそれらを綜合するところの 一言で言って《名誉》という概念が 現実性をもって現われる必要があるのではないか というものです。
《わたし》はまず 《祈り》によって《わたし》となる。なろうとする。また《徳》すなわち《労働》をとおしても そうする。しかしこれら《祈り》や《労働》において 《わたし》が 真の《わたし》と向かい合うのは たとえば《労働》という行為の第一人者(つまり 最高善)〔という対象の認識〕をとおしてではなく 〔同じく 最高善としての《武勇》の第一人者・いわゆる英雄をとおしてでも やはり なく〕 あるいは 《祈り》の対象としての絶対者・つまり絶対善・つまり神〔の表象・それを説くこと〕をとおしてでも ほんとうは ないということです。
《わたし》が《わたし》と向かい合って 真の《わたし》となるのは 《もっともわたくしなるもの》としての《名誉》によってであろうと考えます。もちろん このことによって ぼくは 自己の《神》を 否定したりしません。この自己の《神》を抱くことと 自己と神と情況とカエサルとをつらぬく《形式》としてのこの《名誉》〔という行為〕が帰結されることとは 矛盾はないものと考える次第です。
――なるほど そうかも知れない。
議論は まだいくらか残していると思われるが 情況にかんする理念の基本的な領域としては わたしのほうにも 十分 納得のいくかたちで 明確によく述べてくれたと思います。議論は わたしには 面白くなってきたように思うのです。
だが 今夜は ちょうどここで いくらか余韻を残して 終わりとすることにしよう。次回は [β]と[γ]つまり《身分化》と《民主化》との織り合わせ方について もっと 聴いてみたいと思う。・・・
(第三日 了)
(つづく→2006-04-12 - caguirofie060412)