#12
――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323
第二日 ( l ) (精神の《形式》)
――つまり わたしとしては きみたちの言う《情況の政治化》というものを まだ基本的には 《善の必然化》《日常生活の政治化》といった観点から 説き起こしていきたいという考えを持つのです。
それは 第一に《善意の行為》は 基本的にどこまでも有効であるという原則に立ちます。第二に したがって この善意の行為の継続する過程の延長である第二段階として見るのではないゆえに・つまり言いかえると わたしたち個人の形式と情況の形式とは もともと隔絶していると見るゆえに 《政治化された日常性という 善の意識的な必然化》が起こるのではないか。全体としてこういった構成で議論できると思われます。
つまり そこでは 上位の善という政治の方向性は 下方にある小情況へ向けて その善(ないし形式)が擬似的な善となっており また他方で 偶有性の善という日常の方向性は 上方へ向けて高められ必然化され 固定化されてくる。そして 政治のすぐ下方にある小情況と 日常性のすぐ上方にある情況とは 初めの認識において同一であり 従ってそれは いわば中間情況とも言うべき場合であろうと思われます。
そしてまた 本来の二方向性を失った(つまり逆に言えば それら二方向性が 必然化され高められて 混合している)形式は この《中間情況》と対応して 《形式》の中間固定化とも言うべき情況にあるというふうに。
- 自由と制約との二つの方向性が入り組みあうと 善=形式の擬制・まがい物が生じる。家族と国家とのほかに・その中間に 擬似的なあたかも《情況》であるかのような領域が現われる。
が 以上いづれにしても 基本的には 《情況》と《わたしたちの意志》とは 絶対的に隔絶したものではなく そして わたしたち個人の《形式》と 全体的な情況の形式とは 自由と制約との二方向性をもって 互いに対応しているものと思われます。これを 出発点において 確認するための議論でしかなかったのだけれど。
そこで もう一言のべておくならば 情況が わたしたちの意志と(したがって自由と) 根底的には地続きであるとするなら 善は 自由な形式の中においてのみ 育てられうる偶有性としてあるのだから 第一には 情況が そのような形式〔の形成〕に対して 保証をあたえなければいけない(また それが 情況の固有の仕事であり それのみであってもよい)――なぜなら 情況は パンを与えるところのものではなく パンを与える(作る・供与しあう)関係・形式・制度を どうでもよい形式へ調整するためのものであるから――となるはずだと思うのです。
しかも そのとき そうではなく その善が 不断に必然化されて日常化されるならば つまり 偶有性としての善が 必然性の軌道において連続的に固定的に生起するという中間情況が 《日常性》と《政治》との両方向性を 一身に包摂するかたちで 個人と個人との関係を覆うならば まず《情況》は 主体的に いったい何ができるであろうかといった問いが 出てくるのがよいと思われます。
つまり 善意の必然化された継続的な関係( going concern )の支配的となった情況においては 自由を必然化して不断に追求するという・同時に自由でしかも不自由な状態を 形式のあらゆる範囲において 中間領域に固定したかたちで 呈することになるでしょうから。
――ナラシンハさん これは ぼくも少しわからなくなりました。ちょっとよく わかりません。
つまり ぼくたちの側においては まず 単純に言って ぼくたち個人の形式というものは 現実においては 非形式つまり非イデアとの対立の中につねにあるということ 従って 二つの側面つまり この形式ないし善あるいは自由を 自由に発現させる〔おもに内面の〕ちからと そしてそれとともに それらを〔おもに外界から〕制約しようとしてはたらくちからとを 見ることができるということ このようなことから この外界の制約を 一括して《情況》と名づけるのでしたが・・・つまりこの外界の制約を 己れ個人の自由としてその自由のためにその自由によって 操作するならば 形式・善・イデアの欠如という状態に その人は 陥っている・・・。つまり 独裁という情況が 人びとの日常性を覆い 生活をあやつる・・・。
つまり 現実において ぼくたちの形式は つねに 大きくはこのような情況の中にあって 結局 根本原則としての《善意の行為》は ぼくたち自身のみでは 成しがたいものであり 従って 潜在的に《善意の行為》をとることが必然であるから ぼくたちは つねに 《絶対善》を像(イデア)に描いて――そのような根源的なものの内在を信じることによって―― 偶有性としての善を たえず必然化して 日常化し そして 善の欠如を避けるための行為 そのような固有の形式を 獲得することによって 基本的には 非形式としての情況〔の制約〕を克服しうるし 克服していくのだというふうに 論じているのでしたが ナラシンハさんの側においては――ここでぼくたちなりに ナラシンハさんの議論を要約させてもらうなら――そうではなく・・・
そうではなく 逆に まず第一に 情況は ぼくたちの自由や意志と 根底的に地続きである つまり その地続きとは 単純な調和としてのそれではなく 情況が 根底的には 自由のための制約としてある・言いかえると ぼくたちの直接的な意志とは 逆方向にさえ作用し――作用してよいのであり―― しかもこの方向は ぼくたちの意志〔の自由〕の持つ固有の方向の一つなのであるというふうに 捉えられた。
次に 善が 偶有性としてあることから・つまり 善は 自由の中でのみ育まれるのであるから 日常生活は あくまで どうでもよい形式=自由な関係でなくてはならない・従って 情況は これを保証しなければならない(情況はそのために 存在している。つまり 国家が確立していなくとも 道徳的な形式・おきてを 持っている)と説く。
そしてそのとき しかもその《日常性》が 実際として 《善(善意)》の必然化されたかたちを持って固定化してくると その関係・形式は どうでもよくないようになる。あるいは 《善意の行為》の日常化によって 継続的な善意という高められた形式・実際には不自由な関係が 現われると言う。さらに そのような《善》であり《不自由》である継続的な関係の中に固定してしまえば・ということは 《日常生活》が《政治》化してしまえば 《情況》の立ち場からは 真に〔日常生活を制約するという〕政治行為をなしえなくなると同時に 《日常性》の側からは 《情況》に対して 〔自由を要求するという〕同じく真の政治行為をおこなわなくなるのだと説かれた。
これらのことから お互いの立場を対比させてみれば・・・。
まず ぼくたちの言葉で言って ぼくたちの存在を実体〔の分有主体〕として存在させようとする過程・つまり 他者との関係および上位の《情況》との関係の中で 《自由》の保証や《善》の実現をめざそうとする過程において・・・
ぼくたちは 《善意の行為》すなわち《善の偶有性の必然化〔の必要〕》を説き
ナラシンハさんたちは 《善意の行為》の日常化の無用すなわち 《善の偶有性をそのまま確保するための〈無駄〉の必然化〔の必要〕》を主張する。《無駄の必然化》とは さらに言いかえれば 日常生活における他者との・どうでもよい関係=形式を保証するための《制約》としての《情況》の情況化ということになるのでしょうか。
ともに きわめて抽象的な議論であるのですが もちろんともに現実性への契機がないことはない。が ちょっと どちらがどちらとも よくわからなくなりました。
――・・・。いづれにしても 勝負をつけるべき類いのものではないというか むしろわたしの提出したものは 出発点としての認識にしかすぎないように思われる。ただ いまのきみの整理のように展開させるとすると すでに出発を開始している一議論ということになるのだと思いますが。
そしてさらに もし国家が 情況のことだと見られてしまうと・・・
(つづく→2006-04-04 - caguirofie060404)