caguirofie

哲学いろいろ

#23

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-02-26 - caguirofie060226

帰郷

vingt

伴の若い者たち兵士らは 崖を伝って降りて見にいくことに なかなか 乗り気となっていた。
先頭に立って がけの上から下を見下ろし 足場のよさそうなところを物色している。
――トラヤヌスは ほんとうに この河の上に 道をつけたのか?
――ローマ人は 気のとおくなるようなことをするのが 好きなのさ。
――むかしは ひまで 退屈だったのだろう。哲学者と兵士が うようよしていたのだから。
――それに 恋愛沙汰だろう。
――ふうん。
――いや 恋なら ゲルマーニアでも 昔からあったよ。
――いや その恋じゃないよ。
――と言うと?
――ゲルマーニアは 恋は知らないよ。あるのは 性と愛だけだ。
――愛と性 それが 恋さ。
――いや ちがう。
――ちがうものか。
――ちがう。
――おまえは 恋を知らないのだ。
――いや知ってる。しかし 恋はなかなか育たないのだ。芽生えたと思えば 恋は みづから蒸発するものさ。
――それは うそだ。おまえの言うほうが 性と愛だけじゃないか。それは 好色だ。
――好色なのじゃない。恋なのだ。・・・
――そのへんでいいだろう。このあたりから おりてみよう。
――・・・。・・・。
両岸とも かなり低くなったあたりに来て 先頭の者らが ひとりづつ降り始めた。テオドリックは うしろにいて 聞くともなくこの短い討論を聞きながら 苦笑していた。《たしかに 恋はむずかしいものだった。・・・幸か不幸か ゴートの王国がおれの恋人になるのだ》と。
そうして うしろに続いて テオドリックも 岩場をうしろ向きの恰好で降り始めた。
それは すでに水面近くまで降りていた先頭の者が 早くも
――あった! あった!
と叫び あとの者が皆 おう と歓びの声をあげて さらに急いで降りようとしたとき テオドリックがちょうど中ほどの岩場にはりついたときであった。
――ティウドゥリークス! ティウドゥリークス!
という急を告げるような年寄りと若い娘との声が入り交じった叫びを 今度は 崖の上のほうから 聞いた。急いで引き返そうとすると つぎには
――ティウドリークス! スキリ族の襲撃だ!
と上にいる別の者が叫んで テオドリックは すばやく全員 上にあがるよう命じ みづからもさらに敏捷によじのぼっていく。途中 矢や槍が 崖を越えて テオドリックらの頭の上を 河の中へ飛んでいくのがあった。
テオドリックがやっと登り終えて上に残っていたふたり三人の者の助けに入ったときには 襲う側のスキリ族の者らに矢などが切れたらしく 今度は斧を振り上げて樹々のあいだから躍り出てくるところで――そして すでに地上にはひとり 長老の使節が 槍を胸部に受けてたおれていたので――あった。
テオドリックは 迫ってくる賊を見ながら 下の地へ ハーゲン! と声をかけて寄り 賊らは 人数もそれほど多くはなかったが こちらの二倍ほどだと見たのだが そのとき 下の使節は 呻きながら 声を発し
――ティウドゥリークス あれが オ・ヌ・ル・フ・・・
と言って 息を引きとった。
――ハーゲン!
とふたたび 吼えるように叫んで 揺り起こそうとし しかし もはやテオドリックは 使節のことは ワルキリーの女神たちにいっさいをまかせることに決し 敵の大将であると見られる者に こう声を高く呼ばわった。
――オヌルフ きさま 闇討ちとなりさがったのか。来い このティウドゥリークスが 相手だ。
――やめい。
とオヌルフであろうと思われる者が 間髪を入れずにそこでそう 仲間に号令し 静かになったところで話を始めた。一騎打ちとなるかにみえたところ
――きさまが テウデミルのむすこのティウドゥリークスか。おれが オヌルフだ。しかし おれは 闇討ちになどなりさがっておらん。・・・ハーゲンの姿を見て たしかにゴート人と知ってやったことだ。しかしおれは スキリのゴートとの戦いは スウェウィのフヌムンドの打った芝居だったともう 知っている。だからおれは おまえと一騎打ちして ゴートをほろぼそうという考えは 持たぬ。この襲撃は やめだ。
一瞬 間があって
――よし よかろう。こちらも引こう。
――ようし 行くんだ。
と言って 退こうとしたオヌルフに対して
――待て とテオドリックが止めた。いづれ ローマで遭うときが来る。そのときには 敵どうしになっていないとも限らない。そのときには ほんとうの一騎打ちだ。いいか。
と呼びかけ オヌルフは のぞむところだとの応答を残して 去って行った。
その後二十三年後 ローマの地で雌雄を決するようにして対決したのは このオヌルフではなく その弟のオドアケルのほうであった。ラヴェンナの地でテオドリックは オドアケルをみづからの手で葬ったといわれている。
戦いはあっけなく終わり あとに残ったものは 槍を受けたひとつのしかばねであった。
――やつらは つけていたんだな。
――そうらしい。崖を降りたところで 襲ってきた。
――卑怯なやつらだ。
――それにしても ハーゲンがかわいそうに。
という声が聞かれ テオドリック
――ハーゲンも 両者全滅よりは このほうを望んだだろう。
とひとこと 皆に宣言した。
――オヌルフも われわれに対して 王のエデコンを喪った遺恨は持たぬと宣言したのだ。その名誉をみとめてやるのだ。
と驚愕と茫然とした心とが まだしばらく皆の中に尾を引いていた。
やがて 斃れた者に対しては 女性のオストラゴータが 甲斐甲斐しく葬る用意をはじめた。


埋葬がはじまっていた。テオドリックは 実際のところ 自分がこの日 鉄門へ引き返すなどと言わなければ こんなことにはならなかったのだというふうな考えは とらなかった。鉄門に来たことに 悔いはなかった。
こんなかたちで ハーゲンが亡くなるということは ひとつの不条理だとなげいた。と言っても それは 直接 神に対してでも社会というものに対してでもなかった。どちらかといえば 前者に近かったが それはちょうど 人にとって恋愛というものが 得がたいものであって 人の思うようにはならないということへの嘆きに似ていた。
テオドリックは しかし なみだをながすことは なかったのであり むしろ やはりそのように ひとつの不条理だと あらためて 世の中のかなしい仕合わせというものに こころの中で一瞥をくれるのだった。ハーゲンの昇天という高い授業料を払っての出発だと皆は見るだろうか。
やがて静かに すこしづつ 埋葬の土をかぶせながら 《やすらかに眠れよ ハーゲン》とこころの中で つぶやく。土を踏み固め終わると テオドリックは 顔を上げた。ちょうどそこへ 正面から さらにたかくのぼった太陽が いくらかまぶしいほどのかがやきを発していたが 手をかざして陽射しをよけ さらにふたたび ハーゲンをとりかこんでいる皆に対して 黙祷をおくるよう 合図した。そしてみづからは 《やすらかなれ》といのることばに じぶんの気持ちをはっきりと転換する決意をなした。


テオドリックは それでも もういちど あらためてトラヤヌスの通路跡をさがしもとめたのであり それらは ちょっと見ただけでは もはや小石やら何やらが ふさいでおって 何の穴だかわからなかったが 一定の間隔を置いてうがたれていることから それらは はっきりと支え棒をとおした跡だと判定した。そのときテオドリックは みづからも長く待っていたように じぶんは どこかへ 出たのだとおもった。
(おわり)