caguirofie

哲学いろいろ

#7

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-02-26 - caguirofie060226

幼年

quatre

さらに一夜が明けて シンギドゥウヌムの朝にテオドリックはまた驚かされた。ふたたびドナウの船旅にもどるこの朝 街を通ると 一隅に大きな人だかりがあった。
それは 市であった。前夜の廃墟からは考えられないほど まるで地から湧き出てきたように そこには四方からの商人があつまってきていた。北からは 羊などの毛皮・琥珀の珠玉・蜂蜜・銅などが集められ 南の商人たちは 銀や真鍮の杯・皿・盆あるいは指環・首飾りなどの装飾品・それに遠くシナやインドからの織物や胡椒・香料を持ち寄っていた。
しかし テオドリックが興味を魅かれたことは このような互いに異邦人である商人たちの活気にあふれた姿にではなく そこでそれらの商品のほかに 鎖につながれたいくらかの人間たちが売買されていたことにであった。それは 倫理的な気持ちからではなかった。
髪をぼうぼうと生やした奴隷たちは 押し黙っていた。そして主人の商人と取引をおこなう客のほうをながめている。そしてかれらのその眼差しが なにかを語ろうとしているようにテオドリックにはおもわれたのである。
だれもがそんな目つきをしていたのではない。中のひとりか二人が その眼差しのなかに ことばを通り越したことばといったものを語っているように思われたのである。いや 感じたのである。テオドリックは 市のまえで かれらから十歩ばかり離れたところに立ち止まっていた。
心がひらかれており 情緒が交流するがままに任せられているとき 人は多くを語らない。もっともこの情態では 生命のちからにあふれていても 生活のちからは乏しいということになる。または 逆かも知れない。これも人の心が持つひとつの領域ではある。テオドリックは 前夜の司祭との会談についておもう。
人道主義――といっても その功利的な面を隠してはいないのだが――を説くこの司祭の話には 端的に言って どこか酔っているところがあるとおもった。そして 隣りにすわった使節は――かれは その内容に一向にかまわない様子であったのだが―― 司祭の話に耳をかたむけながらも 心のどこかですましているテオドリック このテオドリックに対して 《小僧 こっちを向きな おれを見よ》という気持ちを持っていたろうと思われた。
そしてもうひとりのローマ人 通訳はと言えば 神につかえる人の立ち場をみとめながら 同時に司祭は のちに東ゴート王となるであろうテオドリックに対して その心証をよくしようといったこと以上に 操縦の手を伸ばしているということに気づいていた。テオドリックは 直観にたよっていたが 物ごとについて心情がはなたれ流れ着く先は 自身については あるいはこの通訳の立ち場であるかも知れないと感じた。
つまり ものごとのあらゆる政治的な意図をすべて取り払って しかもそこに残るものを見ようという立ち場である。しかしこれはややもすると もっともよわい場所へ落ちてゆくことになる。
その場所は きょくたんに言えば 人間の意志をすべて取り除いた上でなおかつ残る(?)意志の核といった地点である。テオドリックは すべて直観によっていた。ただ この市場で見た奴隷の眼差しのなかに ことばをとおり越してしまった言葉(弱くもあり もしそれがあるとしたなら もっとも強いようにも思われる)を語るなにかを見出したのである。それと 前夜の経験とが かさなった。あの別れの時――それは 四日前だ――から たしかに《ちがう朝》が じょじょに訪れようとしていた。そして この奴隷のすがたに出会ったシンギドゥウヌムの朝からは 無意識のうちにも 情念を開け放ち たどりつくべきところへ降りてゆけ 落ちよ というささやきが生まれた。


ここで すこしく ことわっておくならば。――
テオドリックは いま 七歳と半ばである。もし かれに思想があったとするならば じぶんも含めて人という存在に相い対したときにしばしば見せる赤面の情態が そのすべてであろう。再三再四 そのような戸惑いにつきあたって思うことは――もちろん ほとんど無意識のうちの直観として・だから 事後的な意識として―― すくなくとも その赤面のとまどいを沈めて〔そうすると そこは たぶん もっとも低きところと思われるのだが そこへ〕その地点へ降りていこうと感じていったにちがいない。
そして。――
テオドリックは これらのことを 倫理とはかんがえていない。人生観を形成する一部ともかんがえていない。人格とかかわること以前の世界であった。倫理・人生観・人格といった世界とかかわることは のちにかれがこの道の無力を知って 言わばこの道の勾配をけずり落とす意味で――つまりおおきく挫折感から―― たんに《降りる(落ちる)》のではなく 《堕ちる》ことをおもったことどもの方である。しかしこのことは すべて後のことに属していた。


さらに数日が経って 大陸の東端に近づいていた。《黒い森》山脈に発したドナウは シンギドゥウヌムからまっすぐ東へ流れてきたあと 《黒い海》の沿岸のワラキア平野では北へ迂回しながら デルタをかたちづくって 海に入ってゆく。
テオドリックらは ワラキア平野に入る前のセクサンタ・ルーセ(プリスタ)の港で船を下りた。河と別れてモエシア平野を南にすすむ つまりバルカン半島の陸路をとった。港町ルーセから半島の先端にある目指すコンスタンティノポリスまでは 半月ほどの旅程である。
ここから都までは 苦しい旅であった。モエシアの平原は ドナウの南に細長く横たわっており ほどなくバルカンの山やまにつきあたる。この山を越えなければならなかった。
ドナウに沿って東西に連なる山脈は かなり高い峰みねを擁している。テオドリックパンノニアで見るチロルやアルプスとちがって おだやかで温和な容貌を見せてはいる。
いくらかの街といくらかの集落を経て ドナウの支流ヤントラ川も細くなる頃 山麓にさしかかった。村でロバを調達する。使節が一頭 テオドリックは通訳とともに もう一頭に乗った。
岩場の多いこのシプカの峠を越えることは きついとテオドリックには思われた。ロバの背にのって 前の通訳につかまりながら ロバが歩くたびに尻がもちあがる。そして ガクンと落ちた。麓まで歩いた脚の疲れが癒えていくのに 腰の痛みが増していく。テオドリックは じぶんから疲れたとは決して言わなかったので ロバが峠を越すまで よけい 痛みに耐えなければならなかった。
ただ 長い旅路をじっと附いて来て この峠を越えれば またじっと最後まで附いていくしかないことを あらためて観念する。
テオドリックの受けた教育方針は それじたいは 厳しいものだった。心情的にはみ出そうとする部分があったとしても テオドリックは 当面する事柄からまだ それたことはなかった。或る意味では頑なに意地を張り通しながら しずかに耐えることもあった。
使節らは やせ我慢と見て笑いながら その点では 一人前の男として扱わなければならない。表面じょうは いつも対立ばかりしたかたちで しかもテオドリックとローマの二人のあいだには いつしか はるか遠くを共に見つめるひとつの調和もうまれようとしていた。
昼すぎに峠を越した。この山脈を境にして南は トラキアであった。夕刻に トラキアで最初の夜を迎える村にたどりついた。
そこでは 夜風がなまあたたかい。初夏の出発のときから すでに月日も経っており トラキアからは 高い山並みもなく 南国に入る。
夜になって ひとりになるとテオドリックは トラキアの町で 小さい頃からおしえられたものが ひとつあるのを思い出した。
翌日か明後日か もうしばらく進めば たどりつくであろうアドリアノポリスという名の都市のことである。
テオドリックの生まれた年から約八十年前 つまりテオドリックの祖先がフン族に圧迫されて放浪を余儀なくされた頃のことである。別の行動をとっていたが同じゴートの出である一種族が 移動をつづけるなかで このアドリアノポリスにおいて 東ローマ帝国軍と衝突する。すなわち 西ゴート族が ヴァレンス皇帝の率いるローマ軍と出会い みごとにそれを破った戦いについてである。
ローマが喫したこの敗北以来 帝国の辺境地帯は 動揺し くだってテオドリックらの東ゴートがパンノニアに移住できるようになったのも そのことに発していると言われていた。いづれにしろ テオドリックには このアドリアノポリスは ゴートがローマを破った場所として想い浮かび かれの思いは しばらく そこに留まった。やはり黒海の北西の沿岸に住んでいた西ゴート族が こうしてテオドリックの今たどってきたように国境であるドナウを渡り モエシア・トラキアを進んできたのだろうか であったから。
戦いは 騎馬兵がまだ到着せず 明らかな兵力の差を考えた西ゴートのフリティゲルンからの降伏の申し出に始まり その交渉中 ヴァレンス皇帝が 数時間 その兵士らを炎天下に待機させたことによって 決定された。
やがて合流した騎馬兵を伴なった西ゴート軍によって 疲れきって消沈したローマ軍は 皇帝もろとも大破されてしまったというのである。
テオドリックは このような事柄は あるいは平坦な道の上を進むことのように思われた。そんな戦いの模様を聞くといつも のっぺらぼうの世界を想い浮かべた。しかも実際そんな世界がすべてかれの周りを取り囲んでいることを あらためて知ることになったのである。かれは ここで 自分が 《落ち(降り)》ていく先は こんな平坦な道でしかないような気がしてきた。
ちいさいながら かれなりに思い運んできた結果 たどりついた場所ではある。自分は のっぺらぼうで どうしようもなく残酷なものに向かって進んでいるという疑いが ひろがった。


やがて三人は 順調にアドリアノポリスに着いた。コンスタンティノポリスの入り口である。といっても まだニ百キロメートルほどの行程を残している。
アドリアノポリスは 北はドナウとその流域 南はいにしえのアテナイ そして西方は遠くローマを結ぶ分岐点であった。分岐点として建設された。そこでは 或る意味でさまざまなものが 衝突していた。白っぽい服装と黒とが 入り乱れていた。浅い眼窩と深いのとが 交錯していた。青いひとみと黒とが 行き交っていた。ギリシャ語・ラテン語だけではなく オリエントの言葉とおもわれるものが聞かれた。いわば視線が はすかいにやって来る。
テオドリックは 途中過ぎてきたシンギドゥウヌムの朝の市場風景をおもいだした。しかし 使節は コンスタンティノポリスはまだこんな程度のものではないと言う。テオドリックは 浮かぬ顔をしながら なぜか夢のふくらんでいくのを からだでおぼえていた。
たとえば はみ出していた部分が より広くより大きな世界に接することによって 刺激されおのづから表に出ようとしている。かれに 思想はまだなかった。
使節は テオドリックに このアドリアノポリスにまつわるローマ帝国の話をひとつ聞かせた。夜の食事のあとである。
東ローマ帝国皇帝レオのこの使節は ひとりの武官であった。生まれつきの武官であった。端的に言えば 結局は戦争をたのしみにしている人物である。もっとも――矛盾したことではあるが―― 人が人と殺しあうことに対して かなしみをどこまでも持っており 屍や遺族に対して非常なあわれみを失うことはなかった。
アドリアノポリスに着いて とある旅館の一室でこの使節が ちょうどシンギドゥウヌムでの司祭の一人語りのように 延々と語りついでいったことは この時から百五十年ほど前のローマ皇帝コンスタンティヌス一世の武勲についてであった。
かれは 大王をたたえた。その帝国統一と再建をたたえた。その栄光をもたらしたと言われている大王のキリスト信仰を崇めた。
使節は ここへ来て 里心がついたのか 酒をあおりながら その都・コンスタンティノポリスを自慢し その都の建設者であったコンスタンティヌスを讃え揚げた。当時 西はブリタニアガリアから 東はシリア・エジプトにおよぶ帝国に つごう六人の皇帝が並び立つという混乱ぶりであったのが トーナメント戦の結果 徐々にひとり去りふたり去りして ついに残った皇帝は 東のリキニウスと西のコンスタンティヌスの二人ということになる。
両皇帝は たがいに雌雄を決せざるを得ず パンノニアトラキアに兵を出してたたかう。コンスタンティヌスは 妹のコンスタンティアを リキニウスに嫁がせて 協和をはかったのだが この融和状態は八年を越えて持ちこたえることができず ついに両軍は 最後の決戦に出なければならなかった。その場所が このアドリアノポリスであり 最終的にアジアのクリソポリスで コンスタンティヌス大王が 勝利を得たのだと。
キリスト信仰については 途中 戦略じょうの危機におちいったとき コンスタンティヌスは ローマ本来の勝利の女神に代えて キリストの神を得たのだと触れていた。
使節の話は 酒を飲んでいたのだが やはり シンギドゥウヌムの司祭のように 酔っていた。そうテオドリックには思われた。通訳は表情を変えず しかも酒をちびちびとやるように 長い話を翻訳していた。
テオドリックは 戦いをたのしみにはしていなかった。おさないときから その身辺に戦争の匂いはふんぷんとしていた。いわば戦闘状態が日常であった。したがって 戦争に対して しりぞくことも 積極的にのめり込むこともなく それよりは 強いて言えば 自己のなかへ引かれていった。
テオドリックは 自分は 戦いを楽しみにはしていないとおもう。したがって このように武官である使節が 戦いに出ることがたのしみなのだと表明していることについては 受け容れられなかった。この武官は しかし 自分が聞いて知っていることを 自分のことばで語っている。そしてただそのように生きているという点で テオドリックは この使節は酔っていないとおもった。すくなくとも あの司祭のようには酔っていないとおもった。廃墟をつくりうる者と 廃墟をつくるなと人に対して説きうる者と どこが違うかというのが テオドリックの直観である。
テオドリックは 戦いをたのしみにはしていない。しかし ほろ酔い加減の使節の語るようすに接して 自分はいづれこの武官のように 戦いに明け 戦いに暮れる日々をおくらなければならないと観念せずにはおられないところに来てしまったと思う。ただ戦う そんな日々が いづれ待ち受けているといった模様。
それは かなしいことなのか 単にのっぺらぼうのことなのか いづれにしても 有形無形のかたちで 戦いはつづくのだろうかと。シンギドゥウヌムでの司祭との《会談》が このアドリアノポリスでの武官との会談に 発展したのである。テオドリックに 思想はまだなかった。


やがて真夏を迎えようとしていた。旅も終わりに近づいた。
テオドリックは 心も 決まらざるを得ないように 固まっていくのを感じていた。そしてここまで来た以上は ローマ帝国の皇帝というもの コンスタンティノポリスの都というものを見ておいてやろうとおもった。《市民化する》という文明とやらを見てみなければならない。
コンスタンティノポリスの都に入る前夜 テオドリックは ひとつの夢を見た。それは意外にも 祖母のゆめであった。かのじょは 夢のなかで なにかに祈っていた。それは ゴートの祖神であるウォータンにであった。テオドリックらは あたらしいキリストの神のほかに 古来の神々を語り伝えており かれは 懐かしいという思いをもった。と同時に ローマから入った神と このウォータンとは どこかちがうのかとの思いが ふと浮かんだ。みやこを目のまえにして 同時に気後れし 同時に気が早っていることのように この夢のことはおもわれた。テオドリックにまだ思想はなかった。
使節 通訳 テオドリックは ぶじ コンスタンティノポリスの宮廷に着いた。
(つづく→2006-03-05 - caguirofie060305)

http://www.roman-empire.net/army/adrianople.html(Hadrianopolis, Edirne)


The Battle of Adrianople on 9 August AD 378 was the beginning of the end for the Roman empire.
Was the Roman empire weakening, then the barbarians were on the rise. Rome was no longer in its prime, yet it still could muster a tremendous force.
The western empire at the time was ruled by Gratian, meanwhile in the east was ruled by his uncle Valens.
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