caguirofie

哲学いろいろ

#1

――ボエティウスの時代・第二部――

・・・・・・・・・もくじ・・・・・・・・・・・
§1 豹変――または 国家の問題―― 

§2 バルカン放浪 * ――または 孤独――

§3 バルカン放浪 ** ――または 家族論――

§4 バルカン放浪 *** ――企業論へ向けて――

§5 ローマへ * ――文明論から文学へ――

§6 ローマへ ** ――文学――

§7 ローマへ *** ――事業論――

§1 豹変――または国家の問題――(1)

テオドリックの 故郷パンノニアへ帰ったあとの行動を追ってみると おもしろいことに まさに かれの性格をあらわしてのように そして それまでは 何ものかによって まだ その表現を抑え付けられていたというように 帰郷の後 まもなくして かれは 小さな一団を形成するほどの人数の 親しい(親しかった)ゴートの者らといっしょに ある遠征に出かけたことを われわれは 知るのである。
さらに おもしろいことに この遠征は とくに 若いゴートの者らと騙って ひそかにおこなわれているのであり その戦闘を終えて かれらがふたたび国へ帰ってくるまでのあいだ 王テウデミルら種族(くに)の人びとは 何ら知らないままであったと言われている、
ここでは このテオドリックの帰郷後の出来事に始まって かれがその後 ついに オドアケルを倒して イタリアに種族ごと移住するに到るまでの動きを たどってみることが 目的である。帰郷が テオドリックの十八歳の時 西暦四七〇年のことであり――そして ちょうどその時 すでに見たように 片やオドアケルは 戦いに敗れ からくも何人かの種族の者らと 生き延び アルプスの山中を放浪っていたのであるが―― その時から年が経って オドアケルも 遂にイタリアに入りイタリアを獲り かれをさらにテオドリックが ラヴェンナに倒した四九三年までの期間について ということになる。
テオドリックが 十年ぶりに帰った故里に落ち着く間もなく 情熱にまかせて 戦闘へと出かけたのは あるいはその性格というよりも むしろこのようなその後の進路を あとから見れば 象徴しているかのようであるが ただし この《ローマへ》向かう・実際には 二十三年のあいだには 必ずしも初めから直線的に テオドリックは イタリアを目指していたわけではなかった。このことは 他方で 歴然としている。
オドアケルのほうは すでに四七〇年の時点で 意を決していたのであり 実際にも その後そのまま南下して イタリアの地に入った。片やテオドリックは たとえばまず意向としては ほんとうにイタリアを目指すことになったのは その時点から十七年もあとのことである。実際に 種族ごと 移動を開始して ついにイタリアの地を踏んだのは 四八九年という遅い時期であった。
これまでの間は むしろ たとえばコンスタンティノポリス(おおむね ゼノ皇帝の在位)との和解と戦闘とを繰り返していたりする。いづれにしても この期間のテオドリックの動きを たどってみたい。ただし それは 一面から見れば つねに干戈を交えるといった のっぺらぼうの世界のようであり しかも そのようでいて すでに見たように こののっぺらぼうの世界にこそ 現実のすべては 立っているということではありつつも 他面をも見るならば そのような戦史にあまり興味はわかない。したがって――《ただし》の内容として―― ここでは 史実の正確を期するということに もはや焦点をおくよりは かれ自身のこころの内外の面にわたって それをたどって見たい。

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まず最初は この帰国後 ただちに ひそかに行なった遠征からである。
結局 この戦闘の旅は ほんのいく日か前に通り過ぎてきたドナウを ふたたび引き返して まず最初にぶつかった相手 つまりそれは ゴートとは長年 敵対関係にあったサルマチア族だが それとの闘いであり かれは すぐさま 少数の者を従えて 急襲を試み ほどなく勝利を得たと伝えられている。
戦闘の模様については すでに措くことにしたい。そして この戦闘をも求めてのように出かけた遠征について 見てみる前に・その前に ひとこと このように無事 テオドリックが コンスタンティノポリスの人質から帰還したことについては とうぜん 父王テウデミルも 母エレリエヴァも そのほか くにの人びと一般が 歓んで迎えたというそのことについて 触れておかねばならない。
それは 親子の情などを もし離れるとすれば その他には まず何よりも テウデミルとエレリエヴァの間に生まれた子女としては 男子はこのテオドリック一人であったということ つまりテオドリックは かれらアマル王家の正統の唯一の嫡子であったということが おのづから語っていると思われる。
従ってこれ以上付け加えることもないかと思われる。もし さらに この一点を裏付ける事柄をあげるとすれば たとえば この〔東〕ゴート人による種族共同体の中においては その首長の地位(したがって 種族民の相互の関係)について 嫡出の男子のすべてが それを 平等に分割して相続するものとされていたのだが それは まず現に 第一子ワラミルすなわち テオドリックの伯父でテウデミルの長兄は すでに戦死してしまっていた。したがって 第二子テウデミルと 第三子ウィディメルが 居住地を異にして 相互に独立して それぞれ一つの共同体としての生活をいとなんでいた。このことから見ても――すなわち 通常の視点から見て その種族のあいだに 権力闘争が そのものとして起こることは 〔まだ〕 一般ではなかったということからも―― 首長の後継者としてのテオドリックが帰還したということは そのまま 手放しで 明るく迎えられたと見てよい。ちなみに この時より以前から ウィディメル王のほうは そのウィンドボナの国をあとにして さらに南に土地を求めるという意向を持ち続けてきており そしてその機会をうかがっても いたのだが 一方のテウデミル王のもとに その後継者が 無事に還ったということは 事の実情として ウィディメルは 安心して かれの共同体を率いて 移動を開始できるというものである。
実際には この翌年に イタリアに向けて 移住を開始している。また ここで先に触れておくならば テウデミル自身も このウィディメルをイタリアに遣ったあと あたかも種族全体が移動することこそが かれらにとって 定住であるというかのように かれは テオドリックとともに 東のほうへ向けて 南下することになった。
いづれにしても テオドリックの帰還は ゴート全体にとって 祝事であったことに まちがいはなかった。またテオドリックも 当然 その祝事をみづからも 不服とするいわれは 何らなかったと言わなければなるまい。そうして しかしながら かれは すぐさま すべて内証のうちに 一たんこの共同体の外に 出かけたのであった。
そこで この遠征の テオドリックの〔内面の〕事情について 追い追い述べていくのが この章の目的である。題して 《豹変》であり それは おそらく国家についての一つの小さな議論となるはずである。この《ボエティウスの時代・第二部》では その第一部で いわばテオドリックの誕生を見たことにもとづいて かれのその後の経過を いま述べているような体裁で 考察していこうというのが その内容である。


さて先にかんたんに その遠征の事情については 《情熱にまかせて》と すでに述べた。そしてたとえば これを説明するものとしては この時 一定の地にしがみついていることは もはや自殺行為にひとしく(つまり 島国とは 事情が違う) しかも パンノニアの地は ローマと他のゲルマーニアの諸種族に囲まれた危険な地域であるという将来に向けての観察からであるということ以上に この場合のかれについては 《水を得た魚のように》というもっと漠然とした表現のほうが むしろいちばん似合っているもののように思われる。
ただ ここで ひとつ疑念を抱かざるを得ない点が 残るようである。それは たとえばテオドリックは コンスタンティノポリスにいるあいだ このヨーロッパ全域の世界大戦の中にあって いづれにしても 誰もが 進むということをしないではいられないのだというように考えたとしても それより以前に かれは 確固として 自分は戦争を好みとはしないと みづから 確認していたことも あったからである。
もっとも もちろん 考えは 人の歳をとるにつれ 変わるものであることは 争えないことではある。ただ 他方で それが どう変わったか これについては またその人なりの内面の事情があるとも 言うべきだと思われる。そして じつは ここでテオドリックは 先に触れなかったけれども 遠征の中で 攻撃の手をゆるめず いとも簡単に サルマチア族の王とその家族を殺害するという事実が 重なっていることが うかがえるからである。
つまり 戦争によって 自国に有利な地位を築くということ以上に 非倫理的なその事を目的としていると取れなくはない明らかな事実の存在であり それは ただ変わったのではなく むしろまったくの変節としか言いようのない回転ぶりと言わなければならないからである。
もっとも ここで かと言って 未来を先取りしてながめることが許されるならば さらにくだって テオドリックは イタリアにゴートの王国を築くことに成功したあとは 戦争を受けて立たなかったというのではなく しかし全面的な平和政策を採り 少なからず自身はもはや 戦陣からはまったく遠ざかり いわば 進むということを きっぱりと それ以後の生涯において止めているという事実も ここに同じように重なってくると言わなければならないかも知れない。そのような事情も うかがえる。

  • テオドリックの平和政策およびその国内のいわゆる善政については 理念的にはあまり知られていないが ひとつの第一級のものとして 後世のみとめるところではある。
  • 社会が 第一級の理念を持つときこそ その社会は 顕揚されるべきであるとは 必ずしも思われない。

このテオドリックの遠征にかんして われわれは 最初から このような変節という問題にぶつかる。それは かれの〔生涯をつうじて〕少なくとも二度の 百八十度の回転を表わしているようである。ここでは これだけで ただちにその判断をくだすわけにはいかないが それにかんして さしあたっての考察をすすめることから入っていくことにしょう。
これについて すぐに思い浮ばれることは 次のような命題である。・・・
(つづく→2006-05-05 - caguirofie060505)