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哲学いろいろ

#26

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§35(ホッブズ

わたしたちは トマス・ホッブズ(1588−1679)について触れておかねばならないかも知れない。たとえば内田義彦は 結論だけを取り出せば 

スミスが ルソーのホッブズ批判を さらにはホッブズそのものをくぐり抜けながら 道徳哲学(道徳感情の理論)体系の基礎として 〈利己心と共感(=同感)〉をおいた。
社会認識の歩み (岩波新書) Ⅱ−3)

と見ている。
いわゆる近代の以前に 神学を別とすれば(――また ここでは 自然科学の歴史を取り上げないで議論してきている――) 人間学をもって人びとは 生活態度を考え その主観動態を生きようとしていた その意志が存在すると見られるとき そこで どう考えても 経済活動がなかったわけではない ないにもかかわらず 生活態度は 人間学にこそ基づく交通一般・信用一般として とらえられていた。社会制度の制約がそこにあったということにほかならないのでもあるが このように具体経験的な人間学は 交通信用の学すなわち道徳哲学であった。それとして いつ頃から明確に認識され表現されるようになったかを措くとしてもである。
これまで――結局いつも概観ではあったが――見てきた近代の出発に際して つまり会議成立の以降またその社会経験的な展開の以降では ちょうどそれまでの 基本人間学に対する道徳哲学の位置を 政治経済学がとるようになったのである。とれるように 経済側面での交通信用の関係が 発展したのである。
スミスは かれ一人の生涯において 研究として 道徳哲学から政治経済学へあたかも移行しえた。

  • 法学は 両者の中にともに含まれるが 法律の問題は 経験行為領域における共同自治のそれとして 道徳感情論や国富論やの・つまりは人間学一般の さらに前衛または逆にもっと後衛の補助手段だとわれわれは 考える。

パスカルは 自然科学の研究者であることを別とすれば スミスの道徳感情論(プラス神学)という表現形態を持った。おおまかに言ってホッブズも同じようであるだろう。
今後は スミスの出現を前提とするところから出発して――いいかえると 人間学の理念が 初めはものの消費・所有をめぐっての 商品の生産および流通という経済行為にかかわる人間の社会的な交通関係のなかで 一定のかたちで主観共同化され常識となったという社会形態の段階を大前提として―― さらに《会議》の問題を さまざまな思想のなかに さぐっていくことが 一つの生き方として できるかも知れない。

  • 自由・平等という人間学の理念が 表現の自由において 信用関係としての交通を前提としつつ 具体的に経済活動の側面において たとえば商品の等価交換というかたちをとった。

とうぜんこのことは これまでに・そして今も 研究されてきているのであるから われわれは あせることはない。わたしたちの観点から 有益と思われる論点などを 任意にとりあげていけばよい。その前に スミスの前史の一人として ホッブズに触れよという要請があるかも知れない。


内田義彦の論旨をここで整理して繰り返さないが――その理由は 次のことにもあるのだが―― わたしには 《リヴァイアサン〈1〉 (岩波文庫)》の意図が よくわからない。
わたしたちの意図するところは ホッブズが会議人であったかどうか どのように会議にかかわるか この一点をめぐってである。
わかる限りで 《リヴァイアサン〈1〉 (岩波文庫)》の意図は その人間学一般もさることながら――そしてむろん 神学を・あるいは神学でも 議論している―― その道徳哲学の表明には必ずしも力点がおかれているのではなく けっきょく 経済学にはまだ至らないところの 経験科学の端緒を 確立したいというところにあったのではないか。

  • その意味では パスカルは 神学だけではなく 神の弁証じたいに道徳感情の理論をすえるかっこうである。

そうでないと 自然状態(または人間の自然本性)に ルウソの用語でいえば 自尊心による万人の敵対情況と 自己愛としての自然法とが 同居して存在するという 二段構えのものだが それとして 会議の基本事項から出発して 結局 後行経験領域での社会状態の秩序・だから統治を その二段構えの自然人が それに信託をあたえ それに服従すべきとしたところの主権者の力のもとにおくといった きわめて機能的な(その意味で ほうりtウ問題としての)議論と主張とは なんのことか よくわからない。それは 経済学ではないことは分かっているが さりとて 道徳感情論でもない。道徳哲学は つまり人間学一般は 説かれているが それは 主権者による社会統治に――すなわち 交通信用の関係は 法律による・あるいは理性による機能的な側面での社会秩序に―― 還元されていると 考えられるからである。
だから 人間学の理念(自然法)だとか それにもとづく思索だとかは 会議の成立を宣言しようとすることとは 微妙にちがって 会議の成立と展開にあたって 人間社会一般のことがらを 客観的に認識し その認識あるいは認識の仕方として 経験科学の端緒というものを 打ち出したい 推し進めようということを めざしたものである。
神学も 経験科学として――そして時にそれのみとして――とらえるべきだという一つの基調あるいは力点が 見受けられる。それでよいとも言えるし よくないとも言える。
パスカルにおいては 国家論はないし 統治の問題に触れるときにも つねに統治者の人間の問題としてである。時代の制約によってだけでも すでに古いのであるが これはこれで 《自由な労働者》の会議の問題を その中核において あつかっている。ホッブズは これを前提にした(前提にしようという方向を前提した)のかも知れない。だが その点でいえば あいまいなだけではなく あるいは あいまいだというよりも 《後行経験の社会秩序によって 人間の自由つまりは会議人が 成立する》と語ったかに見受けられる。これは よくない。
内田義彦は さきの著書で ホッブズのさらに前史として ニッコロ・マキャヴェルリ(1469−1527)をとりあげているが 同じくこのような観点からは マキャヴェルリと
会議人とのつながりに わたしは疑問をもつ。より一層あたらしい 適切な研究があらわれるかも知れない。とさせていただく。――なお 経験科学の端緒というのは 会議の合意事項の中の 自由な知解 その合理・必然・真実のことである。科学というばあいは どちらかというと 客観真実――客体・対象の 価値中心的な認識――である。さらに極端にいうと 信仰・主観・信用・信号の中の 客観要素・理念・記号をおもに あつかう。
なお――もういちど なお―― ここで《より高級な動機を別としない》ことがゆるされるならば 《リヴァイアサン〈1〉 (岩波文庫)》の中での 次のような一議論は 会議のものであると考えられる。《なぜ 悪人がしばしばさかえ 善人が不遇にくるしむのか という問題・・・なんの権利によって神はこの世のはんえいと不遇を配剤するのかという われわれの問題(2・31)》にかんして 《旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4)》をとりあげて かたる。

この問題は ヨブのばあいには 神自身によって ヨブの罪(自愛心)からひきだされた論証によってではなく かれ(神)自身の力によって 決定された。

  • 自尊心そのものの問題と討論によってではなく また 理念たる博愛心を立ててするそれによってでもないということ。

すなわち ヨブの友人たちが かれのくるしみからかれの罪を論証し かれは(つまりヨブは自分が)無罪だという良心の自覚をもって自己を擁護したのにたいして 神自身がこのことをとりあげ 《わたしが大地の基礎をおいたときおまえはどこにいたか》(旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4) 38・4)というような かれ(神)の力からひきだされた論証をもって くるしみを正当化し それによってヨブの無罪を是認するとともに かれの友人たちの謬説非難したのである。
リヴァイアサン〈1〉 (岩波文庫) 2・31)

神自身が語っているといっても 人間が人間語でそう語っているのだが 語っているのだから わたしたちには 少しばかり なぞがある。なぞを是認するとすれば ヨブは――あるいは わたしたち人間は―― 罪人(自尊心の人)であって しかも 基本関係の愛を持つただしい人であるという会議の宣言である。ただし なぞ(不明瞭な寓喩)においてである。
なぞを仮りに取り払っても これにどう同感するかは 自由である。同感行為じたいが そういう性質のものであり 会議の成立ということも 同じくである。科学( science )は一般にこのことにかかわらない。科学は 先行するものでなく後行するものなのだというよりも 先行するもの(意志と知解と記憶との 主観動態の全体過程)に対する補助道具である。能力要因としては 先行する知解にかかわっているところの補助手段である。しかし 知解が・科学が 知解するのではなく わたしが知解し科学するのである。同感行為(つまり会議の成立)は 科学的に知解し説明される必要があるか そのことが のぞましいかであるが その科学に後行せず 先行している。そのこと(その先行性)をさらに説明せよと言われるなら そこには なぞがあると くるしい弁明をしなければならない。
国富論 (1) (中公文庫)》は この科学という補助手段だけで 成り立っているものではない。表現は そこに神学の痕跡をのこすも ほとんど科学的な認識と主張とから成り立っている。そして 客観科学だけから成り立っているのではないということを 明らかにし また経験的にも実現していくためには 道徳哲学や神学にしりぞくのではなく むしろ経済行為ないし経済学の実践で おしすすめていけばよいし いくのがよい。
会議の成立――同感人の社会――が 大前提であるなら よけい何の困難もちゅうちょもなく すすんでそうしていける。ただし他方で この会議の成立の以降に 成立のゆえに そこから密会して跳躍する一種の生活態度も生じてきたと考えられるとき それは 経済行為ないし経済学に立ったところの人間学の問題としても現われている。国富論が 道徳感情論の体系の一部だとして見るのではんかう 前者が後者をふくむかたち スミスがパスカルをその意味で摂取するかたち。ホッブズに こういった一つの議論がないことはないと言っておかなければならない。補助・傍系の観点からする経験科学の端緒。《資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)》は この間の事情を――つまり国民経済学という科学の成立・ないしその背後の人間学的な構造の成り立ちを―― 明らかにしようとしたものでもある。