caguirofie

哲学いろいろ

#1

――または会議人カール――

マルクス葬送 
――または会議人カール 併せて同感経済人アダム――

{もくじ}

§1

マルクスは まちがっている。青年ヘーゲル派の哲学をとり上げて批判するとき

人間はこれまでいつも自分自身について すなわち自分がなんであるか またはなんであるべきかについて まちがった観念をいだいてきた。神 規範的人間などについてのかれらの観念にしたがって かれらはかれらの関係をととのえてきた。・・・
マルクスエンゲルスドイツ・イデオロギー 〈序文〉 古在由重訳 p.15;新編輯版 ドイツ・イデオロギー (ワイド版岩波文庫) pp.13−14)

のではない とただちに言っているべきであった。もし こうした歴史的な人間を その歴史的であるということにおいて 批難せねばならないとしたなら そこに まちがいは つねにある と言って 批評することから始めていなければならないであろうとして批判すべきであった。

人間はこれまでいつも自分の生活態度について すなわち自分がなんで生活するか またはなんで生きるかについて 神 規範的人間などについての観念によって 説明し 自分たちの関係をととのえようと すなわち自己をそれぞれ弁明しようと してきた。

のであると ただちに説明しかえしているべきであった。
《観念がまちがっていた》のではない。または 観念がたとえまちがっていたとしても そのことじたいを責めるには及ばない。責めても不十分である。説明の内容 弁明のための観念と理論とは もしいやしくも それによって自分たちの関係をととのえ得てきたのなら 人間の合理性をどこかに持っているであろうし 一般に妥当なものなのである。弁明しようとする欲望が まちがっていたのである。弁明のための根拠 すなわち 生活態度また生きる理由と目的 これらが まちがっているのである。
しかも 歴史経験的であるという人間の条件の限りでは まちがっていても 経験妥当なものでありえた。まちがった観念を持った人を 何が何でも 断頭台に送ればよいというわけにはいかない。
したがって マルクスらが 自分たちの《出発する前提は――観念一般そのものでもなければ――なんら任意のもの なんら教条ではない》と言って さらに

それは現実的な諸個人 かれらの行動であり そして眼のまえにみいだされもすれば自分自身の行動によってつくりだされもするところのかれらの物質的な生活条件である。したがってこれらの前提は純粋に経験的なやりかたで確認されうるのである。
(古在由重訳書 pp.23−24 〈Ⅰ フォイエルバハ A イデオロギー一般の ことにドイツの〉新編輯版 ドイツ・イデオロギー (ワイド版岩波文庫) p.25)

と説明したとき われわれは マルクスエンゲルスよ 気がくるったのかと 問い返さなければいけない。《まちがった観念をいだいてきた》人間も 《ドイツ・イデオロギーの代表者たち》も マルクスらの言う前提に立ってこそ 自分を弁明しようとしたし 自分たちそれぞれの思想をあらたに提出したのである。《物質的な生活条件》とは そういうものである。《これらの前提は 純粋にであろうとなかろうと 経験的なやりかたで すでに十分に 確認され》ているのだから。そうでなければ 幽霊が生存している。したがって 弁明のための《観念》を持った。まちがっていようが 弁明をととのえつつ 社会の関係をととのえようとしてきたのである。かれらとて 《観念》を持ったから この観念の関数として その物質的な生活条件を《眼のまえに見出》すことがやっと出来たとか 弁明ゆえに同じく《自分自身の行動によって作り出》していけるのだとか 信じてはいない。弁明が古くなったら なんのちゅうちょもなく それをお払い箱に入れるし あらたな弁明につとめるであろう。マルクスらは 上の言明の内容として――あるいはやはり形式=出し方の方面として―― 気がおかしくなっている。
ドイツの哲学者たち《青年ヘーゲル派》も 人間の 自己弁明の欲望 その弁明の根拠が まちがいであることを ついたのである。

かれらの空想からいえば人間の関係 その全行動 その桎梏と制限はその意識の産物なのだから

  • すなわち 《物質的な生活条件》を前提にしてこそ この《意識とその産物》が 弁明の体系として つくりあげられたものなのだから(引用者)

青年ヘーゲル派が当然にも人間に課する道徳的な要請は 人間の現在の意識を人間的な 批判的な意識あるいは主我的な意識ととりかえ それによって人間の制限をとりのぞけということになる。
(古在訳書 pp.22−23;新編輯版 ドイツ・イデオロギー (ワイド版岩波文庫) p.41)

こういう一つの 弁明――既成の弁明体系――への批判である。この《空想》のほうが 経験現実的なのである。必要にして十分かどうかは まだ別である。つまり

意識をかえよというこの要求は つまり現在するものに別の解釈をせよ すなわちそれを別の解釈によって承認せよという要求になる。
(p.23;新編輯版 ドイツ・イデオロギー (ワイド版岩波文庫) p.41)

し また それだけのことである。しかし その内容を別として 《意識のあり方じたいを変える》必要はまだない。《これらの哲学者たちのうちだれも ドイツの哲学とドイツの現実とのつながり それの批判とそれ自身の物質的環境とのつながりを問題にすることにはおよばなかった》(p.23)としても 意識の同じあり方で それに思い及んでいけばよい。意識そのものを改造せよと もしマルクスらがここで言ったのだとしたなら 気がくるっている。もし そのためなら われわれは――つまりマルクスらも―― この世から出て 意識のないところ または きよらかな意識だけがあるところへ去って 行かなければならない。《すべての人間史の第一の前提はもちろん生きた人間的個体の生存である》(p.24;新編輯版 ドイツ・イデオロギー (ワイド版岩波文庫) p.25)のだから。
政治経済学の重要性かつ有用性を言いたかったのなら それをそのまま 提出すればよい。人間の意識の経験的なあり方(もしくは 出かた)が そのときにも 変わる(改造される)ことは ない。もし こんなことはわかっていて マルクスらが 人間の自己弁解でないところの哲学および経済学を 表明しようとしたのなら これは じっさい 神学に属する。
むろん 人間学と言ってもよい。《物質的な生活条件なる前提に立った哲学》すなわち人間学をもって 既成の哲学や経済学理論などの やはり人間学的な前提の部分つまりそれらの場合にはその部分での欠陥 これを明らかにしようとつとめているのである。こういう思想は 神学がじぶんの任務としてきたものであるから。神学の系譜に立つと言わなかったなら――積極的に そういう歴史的な継承だと 〔もちろんかれらの試みは新しいものであるが〕 明らかにすることを怠り 歴史を切断しようとさえの調子をもって 言明しつづけたのだとしたのなら―― かれらのその新しい思想も どこかあの世での真正な経験科学を建設したいという 常軌を逸した努力だったのである。《正気でなかったなら それは神のためである》と解説するのなら 別だが。このへんの事情にかんする一つの性格規定は マルクスらについて うごかないものであり 批判が要請されている。
(つづく→2005-12-24 - caguirofie051224)