caguirofie

哲学いろいろ

もっと自由に! もっともっと自由に。もっともっともっと自由に!

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10031150.html

1. マルクスは まちがっている。青年ヘーゲル派の哲学をとり上げて批判
するとき:

   (あ) 人間はこれまでいつも自分自身について すなわち
  自分がなんであるか またはなんであるべきかについて まち
  がった観念をいだいてきた。
   神 規範的人間などについてのかれらの観念にしたがって 
  かれらはかれらの関係をととのえてきた。・・・
   (マルクスエンゲルス:『ドイツ・イデオロギー』 〈序文〉
    古在由重訳)
 
のではない。そうではない とわれわれは ただちに言っているべきであった。

2. もし こうした歴史的な人間を その歴史的であるということにおいて
批難せねばならないとしたなら そこに まちがいは つねにある と言って 
批評することから始めていなければならなかった。

    (い) 人間はこれまでいつも自分の生活態度について 
   すなわち自分がなんで生活するか またはなんで生きるかに
   ついて 神 規範的人間などについての観念によって説明し
   自分たちの関係をととのえようと すなわち自己をそれぞれ
   弁明しようと してきた。

のであり それだけのことだと ただちに説明し返しているべきであった。
3. 《観念がまちがっていた》のではない。または 観念がたとえまちがっ
ていたとしても そのことじたいを責めるには及ばない。責めても不十分であ
る。説明の内容 弁明のための観念と理論とは もしいやしくも それによっ
て自分たちの関係をととのえ得てきたのなら 人間の合理性をどこかに持って
いたであろうし 一般にそれとして妥当なものなのである。

4. われわれの弁明しようとする欲望が まちがっていたのである。弁明の
ための根拠 すなわち 生活態度また生きる理由と目的 これらが まちがっ
ているのである。

5. しかも 歴史経験的であるという人間の条件の限りでは まちがってい
ても 経験妥当なものでありえた。まちがった観念を持った人を 何が何でも 
断頭台に送ればよいというわけにはいかない。



             

6. ただ――ただただ―― 弁明の要らない地点に立てばよいのだ。はだか
の我れに立ち還ること。

7. クリスマスツリーのカザリがおのれの心の奥の院なる《固有の時》にふ
さわしくないとなれば すみやかにこれを取り除けばよい。樅の木だけになれ
ばよい。

8. われわれは なぜおまえは そこにおまえとして居るのか? などと誰
からも検問される謂われはない。

9. 公理としての自由存在に立つべし。生まれつきそなわった自然本性のま
まで 何が不都合か。

10. いっさいの宗教のオシヘで着飾ることから自由になろう。

11. もっと自由に。もっともっと自由に。もっともっともっと自由に。



☆ これを問います。