caguirofie

哲学いろいろ

#20

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§29(会議の宣言)

  1. ものごとの原因は その結果に先行する。けれども ものごとの結果は 時間過程的に後行する。この原因を人間が その結果を目的として 起こしたなら 原因と結果とは その人間の主観において 同時一体のものであった。因果関係の知解および これを欲する意志において 結果も――主観に関する限り―― 原因と 同時一体である。
  2. 人間のはじめの主観内では 原因(または手段)と結果(目的)とが同時一体であるということは そのひとまとまりとして さらに 人間の存在に 原理的に後行する。行為におけるものごとの因果関係に人間の主観も 原理的に先行している。主観のなかでは ものごとを知解したあとでこれを意志しておこなうのではあるが 知解に先立ってそれを知解しようとする意志があったと考えられる。ゆえにこの主観内では 知解と意志とは やはり同時一体であるか それとも 互いの先後関係をそれほど言う必要のないほど ひと組みのものである。
  3. 一般に 人間が行為するという場合 主観内の知解および意志の行為が 実際の行為に先行する。行動ないしものごとの現象としては むろん 手段の実行たる原因が先行して 時間的に 目的の獲得(または不首尾)たる結果が後行する。
  4. 主観に先行するものは何か。あるとすれば 原理的に 存在(本質)である。知解が あるいは意志が行為するのではなく 《わたし》がそうするのであるから。人間というこの存在に先行するものは何か。さらに あるとすれば なぞのなにものかである。つまり 人間をこえたなにものかが原理的に人間の存在に先行し これらに後行して人間は主観をもつといったことの 先後関係は なぞである。なぞとして存在するとすれば これが 原理である。原理( principe )とは はじめのことである。
  5. 人間も時間的な存在である。原理は それが存在するとすれば 時間をこえたものである。時間といえば 歴史とか経験のことである。原理的にいえば 経験的な存在たる人間についても その主観行為が じっさいの行動のおよびそれに付随するものごとの因果過程に 先行する。大きくは主観活動も 行動の因果関係も 人間の経験行為である。ある行動が原因となって 別の行動を結果として持つその過程関係は 時間的な先行と後行とのそれである。主観行為(知解と意志)は この行動としての経験に 広義の経験行為のなかでだが 原理的に先行すると言える。原理的に先行するところの人間の存在は ここで 主観動態である。
  6. 広義の経験行為という点にかんがみて 存在の主観動態が 時間的な行為に対して持っているその接点は 出発点である。主観動態は 原点である。人間の広義の経験行為を 原点たる主観動態を基礎として とらえるとき それは 人間学とよばれる。原点からの出発点を基礎として 同じく人間の存在過程をとらえるなら それを 生活態度とよぶ。出発したあとの行動関係 これは 生活――社会生活――とよぶ。
  7. 社会生活は 一個の主観の知解し意志したとおりには行かないとき すなわち 原因(手段)が めざす結果(目的)をもたらすとは限らないとき 偶然である。原点たる主観動態と出発点たる生活態度との関係は 必然である。また この原点および出発点における 原因と結果との知解 また 手段と目的とへの意志 ここまでは 同じく 必然である。
  8. 人間存在は 人間的な論法で言って その判断の主体ないし規準を 精神・理性として持っているから かれの経験行為の必然性は 合理性である。人間の行為としての必然たる合理性は とくに意志の側面あるいは そのとき相手を想定するはずだから 生活態度における人間関係の側面 この側面に重きを置いてとらえるなら それは 人間の相対性である。わかりやすく言うと 民主主義である。
  9. 主観動態(原点)‐生活態度(出発点)‐社会生活(出発進行の過程またその場)。原理的にこの順序で 先行と後行との関係。社会生活の中では 先行と後行との関係は 一般に時間的である。また有限・可変的である。つまり相対的である。大きくは 原点の主観動態も 時間的な存在であり 有限で 生と死を経験し 可変的で 考えや生活態度が変わりうる。原点と出発点とは また それら主観動態および生活態度の内における 知解や意志のそれぞれの行為は 主観的に真実であり 理性にもとづき合理的であり それらとして 必然的である。非合理的なことを欲するのは それでよいと判断する理性のもとに やはり大きくは合理的である。
  10. 人は 真実で合理必然的な出発点から 社会生活の場で 行為をすすめる。しかも この進行の場は 偶然的である。つまり 偶然のなかで 主観の必然性をうちだしていく。偶然とは 複数の主観の真実が 互いに矛盾しつつも 多立しうることを含むかも知れないし そこに 一つの合理必然的な因果関係が存在する・つまり必然であるかも知れないが それが完全にはわからなかったり またさらになぞが残ったりするといった意味で 用いることとする。
  11. 社会生活の偶然は 習慣とかかわるかも知れない。思うとおりにならない行為結果を受けて その結果としての行為形式を繰りかえしておこなわなければならないとき くせがかたちづくられ 習慣が形成される。あるいはまた それにとどまらずに 社会習慣のなかで 人びとがそれぞれの必然合理の真実をうちだしていくとき そのように必然的であろうとする決まりを 形成し共有したりする。倫理あるいは道徳とよばれたりする。慣習のおきては 法律のはじまりである。つまり法律は 主観動態の合理必然性をあらわしたもので そう取り決めあっていくものである。
  12. 社会生活の習慣の場で 主観真実の合理必然性が法律となるということは その原点たる主観動態が みづからの内に ある法を持つということである。大きくは経験的な存在たる人間が――少なくとも理性にもとづいて必然真実とみるところの――或る法をもつということは 自然の法とこれをよびうる。自然のとは 人間が この法をもった存在として 生まれてくるということである。人間は この限りで原理的にいって 自然法主体である。
  13. 自然法にさらに原理的に先行するものは あるか。あるならそれは なにか。すなわち あるとすれば または その存在を否定しないでこれをなぞのなにものかと言うとすれば そのなにものかの存在は 永久法また真理である。この真理または永久法は 一方で 人間・経験をこえるものであるから そして他方で それは人間に原理的に先行するともし言うなら そのように言うのは人間がこれをとらえて言っているのであるゆえ やはり人間の主観動態の内にも存在していると言わなければならないから これら両方の理由で この真理または永久法は なぞにおいて 経験行為の鏡をとおして 見られるものである。見られるかに――もしそうだとするなら――想定されるものである。
  14. なぞとは 不明瞭な寓喩である。原理的に最先行するその存在は 人間に不明瞭である。かつ 人間の主観動態の内に最先行して存在するのなら たとえのかたちで たとえをとおして それを見ることができる。不明瞭な寓喩において 鏡をとおして われわれは真理を もしそうだとすれば 見る。つまり 見ることができないとも言える。そして この場合には なぞも そのなにものかも いっさい存在しないという意見(経験行為の知解)も出される。ただ 真理・永久法の存在――つまり そういう言葉を人間が持ち 使っていることは 言うまでもないことで しかもそれだけではなく その存在――は 考えること(知解すること)はできなくても 一般に信じられている。
  15. 信じるとは 考えるの範囲をこえたものに対して おこなう主観動態である。すなわち 主観動態は 永久法が存在するとも存在しないとも 考えることができない。考えてその最終の判断をくだすことができない。その知解の範囲をこえているのだから。できないというよりも しないのであり また定義からいって それは 考えで判断を決めてはいけない・思いこんではいけないものである。だから 考えや思い込みを超えた主観動態の内容を 信じるという。けれども人びとは 真理の存在を信じている。と言っていい。( 信じないと言っても 論理的にはそれも 考えるを超えているから 信じると言うのと 同じことになるからである。)
  16. 永久法(真理・原理・また《なぞ》においてのもの)‐自然法(その主体存在としての人間。その主観動態が原点である)‐法律(生活態度の出発点におけるものであり また 習慣偶然たる社会生活の場に持たれるものでもある) こういった原理的な順序における 先行・後行の関係。法律は 人定法とも呼ばれ 人定・実定されなくとも 道徳・倫理としても機能する。法律や倫理・道徳(また慣習)は 既に形成されているものであるから その限りでそれらは 社会習慣の領域に属すると言ってもいい。つまりその限りで 偶然のものであり そういう最後行する領域のものとして とくに有限・可変的である。これら法律や倫理やが 出発点の(そしてその限りで主観動態内の)生活態度と みっせつに関連するというのは もちろん もともとは 主観真実の合理必然性をうちだそうとしたときの――そのままではないにせよ――結果であるからである。
  17. 主観動態は 出発点たる生活態度を接点として これら法律や倫理あるいは一般に社会習慣の領域(つまり他の人間)と あい対するとき 身体の感性をとおしてでもあるが 心の動きをもつ。つまり心理を経験する。この心理は すでに主観の内におこるのであるが それは あらたな知解 別の行動への意志を形成するためのきっかけである。心理は 感性とともに 情念ともなるが そしてくりかえすと これは主観の内でおこるのだが まだ 主観動態ではないであろう。原点の存在は この心理・情念に対処する主体である。また 心理は 出発点の生活態度じたいでもない。
  18. 人間が社会生活するとき 生活態度を接点として それをとおして 主観の内に 心理のうごきをもつ。つまり この心理は じっさいじょう 外の社会習慣の経験行動なのである。言いかえると 心理は 偶然のものである。主観動態の知解(合理性)と意志(民主主義)が形成した生活態度までが 必然真実である。(偶然真実というようなことがあるかも知れないが 別としておくことができるであろう。)生活態度から合理必然を 民主主義的に うちだすとき それは 社会習慣の領域に向かってであるのだが そのとき 主観動態は 法律や倫理に基づきその法律や倫理を活用していくのであるように 同じく この心理経験をも用いていく。しかも 法律や倫理は すでに合理必然的な主観真実と 少なくとも一定の過去において つながったものであったが 経験心理は まだ そこまでにも至っていないものである。
  19. そうすると こう言うべきである。主観動態は 偶然のなかで起こった心理経験をとおしての人間関係に向かって すでに一定の必然合理として持たれている倫理や法律を用いて対処していくのだと。既成の法律などでも間に合わないとき――法律も改正されていくということとともに―― 原点の主観動態がやはりそれらに先行するものとして 一編の主観真実をもって 心理関係や習慣関係やの社会偶然に対処していくのだと。法律や倫理を含めた意味での習慣はこれを われわれが用いていくものであり その習慣は われわれに先行しはしない。心理もおなじく。つまり 法律や倫理に合致した心理・情念でさえも われわれの主観動態および生活態度に 先行するものではない。さいしょに とびこんできたりするものではある。
  20. 情念(信念)をともなった正義の(つまり一編の主観真実合理必然の)心理が 生活態度にとって 起動力となってのように 新しい法律の作成をうながす――また 広く社会習慣の生活経験一般を 形式において つくりかえていく――ことはありうるが この起動力には 主観動態が先行する。すなわち 心理が先行することはないと言わなければならないし 習慣関係の領域での起動力となることはあっても 存在原点の推進力となることはありえない。
  21. 一般に 心理起動力だけで動くことは 原点の主観動態が それでよいとしたか または それに譲歩したことである。心理の起動力というものは それに対して 先行する主観動態が 必然真実の合理をもって ひかえているということはありうるけれども その主観動態を無視する場合もあり どちらかといえば このほうが多い。心理の起動力は 推進力たる主観動態のきっかけである。
  22. 主観動態が心理経験を用いていく――あるいはそれに対処していく――のではなく 心理経験が生活態度そのものになり さらにあたかも主観動態(これは《わたし》のことでもある)をひっぱっていくとするなら これは 狂気である。あるいは 暴力である。すなわち 生活態度という出発点=接点における気が ちがった方向を向いている。つまり 原点‐出発点‐進行過程(その場)の先後関係の順序を狂わせている。つまり 基本原点は 自由というほどに 無力になりうる。無力になりうるほど 自由である
  23. 主観動態から 生活の経済的な側面で 資本を蓄え増やそうと 一編の合理必然的な主観真実をもってする生活態度は 社会習慣の経済的な側面において 合理志向であり 資本志向である。そこには その限りでの心理も ともなうかも知れない。経済的な合理志向および資本志向が 主観に 心理を経験させるとき(たとえば ゆたかになりたいという欲求・情念をもつとき) さらにすすんでこの心理経験を先行させ これで 習慣領域を突っ走るのは 経済的な合理主義志向であり資本主義志向である。つまり(勤勉ガリとであり) 心理経験――あるいは法律・倫理・道徳または それらの思想をおしえとして受け取り さらに宗教としたもの――をもって 主観動態の原理的な先行・後行の順序をくるわせて 第一義の先行条件とするとき それは なになに主義となる。生活態度が 主観主義・真実主義・必然主義・合理主義あるいは〈民主主義〉主義その他その他といった意志の方向をもつし そのためにこそ あらゆる習慣行為を――じっさいには合理的になのだが――知解しようとつとめる。
  24. 主観真実の必然(これは 外の相手にとっても 真実であることを 予定したものである。そういう必然性。相手が同意しなければ 一たん消える)の合理志向が 合理主義志向となるというのは 相手の心理やまた法律・道徳を利用して 自分のその生活態度を どうしても 社会必然的なものにしたいと思うことだし その欲求をどうしても引っ込めず 時には法律にまでのしあげて つらぬこうとすることである。社会偶然として これが 実現されることさえありうる。みんなが 合理主義志向の生活態度をもてばいいという心理先行の起動力によって。(みんなで渡ればこわくないというのは 真理だという人までいる。)ものごとの――ものごとじたいに関する――合理そのものは その場合でも けっこう真実であり必然形成的なものである。(欲望一辺倒のばあいは いちおう論外としている:§28)。
  25. 生活の経済的な側面で 資本の形成・享受にかんする合理の志向が 資本主義志向または資本志向主義となるのも 同様である。社会生活――それは一般に 習慣的・偶然的である――のさまざまな側面のうち 経済生活は その基礎であるから(つまり存在の維持・そして身体の維持にかんして 基礎であるから つまり時間行動として 先立つものであるから) 主観真実の合理必然が 生活態度をとおして うちだされていくのは この経済側面を基礎とするし また その先立つ基礎であることは 時間行動的にも人びとに 普遍的なものであるのだから 必然合理が 一般に よく通る。つらぬかれやすい。(価値をはかる規準が 数量化されうる。)かくて 経済生活の側面からいって 主観動態の資本志向(勤勉)と 主観心理の資本主義志向ガリ勉)と。
  26. 志向――意志の方向――とは じっさい 愛である。真理の愛 原点の愛 出発点の愛 経験進行(また心理経験)の愛。資本志向は 主観動態の 資本の愛であり 資本主義志向は 主観動態に代えて 心理経験の愛をもってすればよいだろうと考える資本の愛である。また愛は 永久法の愛 自然法の愛 接点の愛 人定法の愛 習慣の愛。この原理的な先行・後行の順序に立つ愛(意志)は むしろ じっさいの経験行為として 後行するもののほうから 始める。歴史を夜から始める。順序を逆にし狂わせる愛(意志)は 後行するものを じっさいには先行させ むしろ その知解(言いわけ)として 先行するもののほうから 始める。その愛は 昼にある。つまり 昼の中にあると 公言する。われわれが夜から始めるというのは(――スミスが 利己心をみとめるというのは――) じっさいにはこの昼から始める資本主義志向を 対象として 言っている。
  27. 資本主義志向という愛は 心理経験進行のまたは現行の法律の 愛を先行させてそこに立ち そうした上で ほんとうの先行するものの愛をまっさきに取り出し 合理性・必然性・真実・民主主義を旗印にかかげる。なかんづく 原点の主観動態の存在するそのありかたとして――先行するもののほうが たしかに原理的に 自由なものなのだから―― その自由をとり上げ 第一位にこれをおく。言いわけがととのったと考えるのである。真昼の真実なのだと。あとは 心理経験の習慣進行があるのみだと。これは 不自由である。不合理 ただの偶然 不真実 暴君である。
  28. ただ社会習慣の偶然領域では あたかも なんでも 起こりうる。原理的な順序を狂わせた生活行為には ふつうの生活者は 譲歩しなければならないからである。譲る譲らないもなく 生活交通ができないからである。ふつうの先行・後行の関係の主観動態に帰ることを まつからである。譲歩し待つというのは 主観動態の順序をその人たちの主観動態の内に 想起させることである。ここまでが 主観動態の自由である。それ以上は 内政干渉になる。
  29. こうして 人間の社会の歴史は 始まってきたし いまもおこなわれている。近代という時代とそこに生きた市民たちは 主観動態の真実・合理・必然 そして経済生活の面でのそれらの自由な実践 したがってまた 社会関係の習慣に対する共同自治 およびそれの手段としての法律などなどの面での実践 これらを それまでの時代の 宗教・政治そして法律・経済等々の古い制約をとりはらって いとなむことを開始した時代と人びととである。

つづく→2006-01-13 - caguirofie060113