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哲学いろいろ

#31

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

§34(その主人公セラドンと愛)

つづいて第五の事項。以上の前提的な考察のあと もし このアストレとセラドンとの悲劇を 新しい生活態度において克服しようとするそのときには まずは一方で フェードルやクレーヴの奥方がおこなったように 激情を古典古代の神々と見なすところを去り 《ここ》に還って来て 作者デュルフェがではなく 登場人物のアストレやセラドンが そういう経験心理の動きなのだとして とらえきるという方向――すなわち フェードル(これも ギリシャ悲劇の主人公であるにもかかわらず)らが やはりまだ悲劇に終わったとしても もはや 情念を神々とは見なしていない もしくは 人間たる自己の内に経験偶有的に働くところの神々であるととらえるようになっている―― この方向を 展開していくことが試みられるであろうし
他方では じっさいに言えば その道具・補助手段として デカルトのように合理思考の展開――だから 生活基礎としては 経済的な所有(労働)の 合理必然的な行為関係の社会一般化――を促していくこと および ホッブズのように この合理思考とその必然行為の関係を 社会全体にも(すなわち この場合 国家という形態制度にも)及ぼすとともに その場ないし交通関係の法律として 具体的な規範をつくりあい 仕上げること これらの実践が 登場することになる。《気取ら》ないで そうすることが 課題となっていった。
これらの新しい二つの方面は 狭義に 人間学と経験科学とである。
だが もう少し デュルフェの文章そのものに とどまりたい。
第六の事項は したがって デカルトホッブズをとおりつつパスカルが 人間学にとどまったように こちらの一方面において デュルフェを――われわれの現代から――捉え返そうとするなら どういうことが言えるか。というのは 現代でも 一般に経験科学――たとえば 経済学の理論からの 個人生活への何らかの要請とか――を 必ずしも当面の課題とはしないで 素朴にだが 人間学の生活実態は 激情の問題を 歴史的に繰り返してのように 起こりえているから。それは 議論の例示形態としても 経験現実としても 第三の事項すなわち 愛の問題である。
デュルフェは 《耳がいい〈愛〉――大文字で始める〈 Amour 〉――》と書いて これが 神々のうちのひとりであり その作用がここでセラドンに及んだというかのように 《気取っ》ている。

  • これが 《機械仕掛けの神 Deus ex machina 》なのかどうか よくわからないが。

《気取り》をもう超えたとするならば やはり 愛――経験心理の愛情 および 主観動態の熱心なる愛――の問題である。
《アストレが腹に考えを持った》その文脈の事情を明らかにしていないが 自身の愛情――経験心理による《はかりごと》――の破綻を 知ったのであろう。そこで言ったアストレの言葉は まるで自分こそが 初めから《あだし心》で セラドンに近づいたことを 暴露したかのようである。そして このことを かのじょは まだ自覚しなかった。または 自分の外の 神々のはかりごととして 自覚していた。自由意志とは 神々のはかりごとに従うことであり それを自分が ちょうど演じきることなのだと。

  • こういう場合の自由意志は ただ自分につごうのよい《神々のはかりごと》だけにしか 従わないものである。妥当であると思われても 自分に都合が悪ければ 無視するという場合が ある。

そしてかのじょも 《気取る》ことができた。神々――情念の偶像――のはかりごとに従わない者は 《軽蔑》にあたいするのだと 深く信じて。アストレは 神々のおしえに忠実なのだ。セラドンが 変わらぬ愛の実践者として もしたたえられたとしたならば かれが この偶像崇拝から自由であったゆえであろう。しかも そのあと 《変わらぬ愛》を 偶像視した。いや もしくは やはり偶像崇拝からあくまで自由なのであって しかも その自由な動態である自己を 偶像視したか 人に(アストレに) 偶像視させるというはかりごとを持った。(投身自殺のことである。)つまり 主観動態が 想像のかなたに えがかれ 持たれている。

  • 想像の問題は 《序の一 / 三》(§16 / 18)。また 《付録》で それについてのパスカルの考え方に触れた。
  • 三木清パスカルにおける人間の研究 (岩波文庫)》も 〈第一 人間の分析(ニ / 三)〉で 想像のもつ欠陥――あるいは 欠陥を想像がおおうということ――を指摘している。
  • われわれは 想像とは 合理思考だと言っておく。つまり 道具であると。ただ ところが たとえ合理思考にもとづく想像行為でも その想像によって 道具を あたかも主体のように 歩かせてみせることができる。そしてわれわれは 想像にかんしては これ以上 内政干渉できない。つまり 本当は したいという気持ちなわけである。

これは――これは―― 経験科学という補助手段を 直接には扱わないところの 生活態度の問題である。そのような生活態度に対する議論の問題である。そして もし 経験科学が補助の力であるとするなら この愛の方面の人間学は 主観基礎であるとともに 経験科学(合理思考たる方法基礎)の どちらかといえば みなもとである。なぞとしての源ではないが 愛(主観基礎どうしの関係)も基礎認識としてここでは議論しているのであるから やはり合理必然の問題である。思考および行為の合理必然のそのまた主体にかかわるから こちらの合理必然のほうが どちらかといえば みなもとである。
主観関係 つまり とくに主観心理の経験関係 これは 偶有的である。つまり 白が黒になったり その逆であったり 赤くなったり青くなったりして 変化する。社会偶然の領域も 同じようにまず合理必然が来るという順序にはなっていない。資本志向以前の旧い時代では 偶然の力の――身分だとか宗教的な非合理だとかの―― つまり観念的な 必然であり(だから 合理必然ではない) 新しい時代では 合理思考を前提にしたところの 必然行為の 偶然総体(自然史的な過程)である。
総体として自然史(つまり 心理自然および物理自然)的な過程たる社会偶然が 合理必然の場である。社会偶然の総体が 世界はそれのみだと見なされることは リベルタンの自由思想であって そういう一つの偶像崇拝だし 合理必然のみだと見なすことも 同様に 別の迷信である。
合理必然を考え行為する主観の方法基礎は 社会偶然史のなかでこの合理必然を自由におこなえるその場の交通整理を 理論し政策として実践する経験科学の方法基礎とならんで この時代に 芽生え その明確な一般化への展開を始めた。主観基礎は それだけではやはり 心がまえだけとか観念論とかに陥りやすいけれども どちらかといえば 原点である。経験科学基礎は そこからの出発行為となっていて 同じくその必要で有益な補助の力である。
補助科学を直接に用いないで 議論することは 一般にその人間を 生活のふつうの実践として 明らかにする。かくて 近代および現代の小説等々の文学。

  • 虚構における真実ということ。ノンフィクションも 補助科学を直接に用いたわけではないだろうが これは 補助科学を虚とは見ない。

アストレという一人の女性は この文学の世界に まだ 入っていない。情念の偶像たる神々の世界で 物語の主人公である。セラドンに 近づけないか もしくは かれをすり抜けてしまった。わたしたちに残された方策は いま 経験科学の補助によらずに――といっても 実際には その時代その時代の 経済政治的な制度をすでに場としていて そういった既成の補助装置は 前提としているのだが―― どういう議論をおこなっていくか すなわち セラドンの場合なら アストレに対してどう振る舞うか これが 素朴な意味でのみなもとたる人間学の問題として 素通りできないことなのである。同じことを 別の事項として次に――。
つまり わたしは まだ現代にも 少なくともこの日本において アストレのような女性がいると思っている。または アストレは小説作品として三・四世紀も前の 問題なのだから あまりにもかわいそうだとすれば 逆に 相手の男を あたかもこのアストレのように振る舞わせようと企むような女性が いると思っている。これは 男性・女性の別なく ひとしく 人間の問題である。
第七の事項。自殺の問題は ここで 論外だが 自殺のこととして処理しなければならなかったとしたら それをめぐって井戸端会議することは 論内である。神をもちだす? 神にいのる? パスカルヤンセン主義者としての或る意味でのように 奇蹟の話として説得する?経験科学をまなべということではないが 職業労働に専念せよと言う?しかも それは 禁欲的にだと 言うか?ホッブズの一面でのように 絶対主権が確立されたなら――つまり これの確立をめざして―― あとの主観関係の偶然事態は 主観心理だけとしてもぺシミスムの中にしか捉えられないと言う?つまり これは 論内ではなく 論外だと言わなければならないと言っているか?革命をおこなう?つまり 政治経済的な革命が先だと言う?つまり やはり経験科学の方法基礎および具体的な理論実践が 人間の主観内基礎に 先行するのだと見るしかないか?
われわれは論内だとしたし/ 職業労働への専念は 資本主義志向(つまり 富の合理主義的な獲得・蓄積)が 禁欲の倫理(ないし宗教規範)に反すると言いつつ 必ずしも ふつうの資本志向にもはやとどまらないで その反するとした志向のほうへ突き進むか もしくは そうでなくとも 良心の志向するところにとどまったとしても 資本志向主義に対する人間学的な自己の生活態度を まだ 確立しえていないままであるかだと 考えるし

  • つまり ボルケナウが見るところのパスカルのように 生きると見るとは いかに良心の命ずるところを行なおうとしても 分離していざるを得ないというところに ともかく おちつくだけにちがいないと考えるし /

政治革命を仮りに経なければならないとしても それを経る前にも――そしてもちろん その過渡期にも後にも―― 生活態度の確立は じゅうぶん問題となっていると言わなければならないであろうし

  • つまり これを不問に付して 革命に突き進むことは もはや内乱という以上 自殺や他殺を 事の前から 少なくとも止むを得ないとすることだと言わなければならない すなわち この場合には 自殺のことがまったく論内の問題となっていて その人びとの生活態度は じっさい 自殺論がその全体を占める つまり ほとんどがこのセラドンの人物像とえらぶところがないようになる。ところが フランス革命も 乱の取っ掛かりは 偶発的なものであった。

だから このデュルフェの小説の一節は その人物つまりセラドンとアストレとが あたかも――上にのべた逆の順序で―― 階級関係に見立てて捉えられていることができるし / 牧歌的な羊飼いという経済生活の舞台にとどまらないで 職業労働・つまり資本主義志向の社会一般化した時代を舞台とするところの経済的な日常生活の問題と 異ならないものとなるし / さすれば 素朴に 経験科学以前の 人間関係の問題として いまだ 論内である。

  • 実際には 経験科学以後だが 論議として その科学を必ずしも直接もちださないかたちで 論内の問題がある。

現代日本の臨時教育審議会は つまり一般に 教育の問題として人びとは これを捉え 一つに いわゆる管理主義とその弊害を乗り越えて 新しい教育管理をとおしての生活態度の形成を 論議し実践していこうとするものであるかも知れない。アストレ問題つまりセラドン問題を そういった観点から 取り上げる。しかし 文学は その時その場の 一回きりの人間関係――社会的だが・あるいは社会的にして 主観どうしの関係――をあつかうことを むねとしている。これは 素朴な人間学 主観基礎のただちの実践にかかわっている。現場で協力し 実践しなさいとただ言うだけに終わらないし 現場にいなくとも アストレ問題は――人間であるかぎり あるいは人間は男と女とにわかれているからには―― だれにとっても 現場である。ただちにというのは 譲歩し 待つことを含むけれども 教育という一般問題視 つまり一方で 教育の理論と実践とに待たねばならないというモラトリアムの姿勢 そして他方で 現場であっても このアストレ問題を 人間・主観動態としてではなく それにかんする教育という一分野・一観点からのみ とらえるしかないという部分的なやはりモラトリアムの姿勢は これに答えたことにはならない。
譲歩し待っていることと 時間の猶予・場の部分的な猶予といったモラトリアムの姿勢とは 重なるけれども 別である。似ても似つかない。セラドンがアストレに この場で どう対処したか 自分はどうするか この生活態度が 過程的にであることは前提だけれども 確立していて初めて 教育を議論することができる。その過程的な結論たる方策が どんな内容としてであれ 問題を議論することは ともかく――ともかく――答えがすでに出ていて おこなうことである。答えの方向がさだまって 議論をはじめる。そうでない段階は 勉強という。
ラドンは 勉強してからにしてくれと言うことはならない。かれは アストレが別れていく理由としてあげる 自分の《あやまち》を 関知していない。《うらぎり屋さん》とよばれることに 身に覚えがない。やはり 論外だとして――つまりアストレは ここで気が狂ったと見なして―― かのじょの去るにまかせるよりないだろうか。だが もしそうだとしても ここで――ここで―― 論外なのである。論外だということは 論内なのである。《耳のいい〈愛〉は かれの耳をふさが》ないであろう。それとも かれにも自分の知らないあやまちが あったのであろうか。
アストレが 自分で 《すべては わたしのはかりごとから始まった》と言ったのなら セラドンにあやまちは なかったであろう。かれが だから善人で義人だと言おうということではなく 出発の時点で まだ あやまちはなかった。あるいは少なくとも あったとしても 故意ではなかった。これを 関係・交通の 遮断の理由にすることは この出発点をとおりこえて 原点つまり 人間への 内政干渉である。基本的な人権を 無視するということである。つまり これは 論外である。アストレの人間という存在じたいは とうぜん――セラドン内政干渉する意志もないし してもいないのだから―― 論内であるが かのじょの出発点とそこからの行為は ここで 論外と成る。教育 神学 職業実践 革命も この人間学基礎にとって代わる形では 論内に入ってくることはない。直接の方策としては およびでない。
この人間学の議論としてその内に入ってきて 論外となることは いったい なにか。論外そのもののこととしては 論じがたいのだから 依然 論内にとどまって 議論しなければならない。

  • 代理概念として 狂気の激情だということはできるが。

つまり 《耳がいい〈愛〉は かれの自由意志――つまり愛の熱心 熱心なる愛――であった》ということでなければならないであろう。これは 譲歩し ときに 待つ。去るにまかせるし そのほかに 何もする必要はない。何もしてはいけないし することもできない。これは 能力によって――つまり 自由な意志の愛の能力によって―― ほかにすることができない。なぞを持った主観の動態つまりだから信仰動態の保持。保持とか持続が 熱心という意味である。その論の内なる論外。パスカルらは この愛を議論した。
パスカルの愛は 時代が異なるということを別にしても 個体・人格が別なのだから わたしたちの愛と それぞれ いちおう別である。ボルケナウは 自分の愛をかたろうとしたが 人間学としてその基礎認識ないし同じくすでに実践としての表現を 思索したが はっきりとは言っていない。
けれども この愛が――わたしの愛 きみの愛が――同じく方法基礎たる経験科学出発点の どちらかといえば みなもとなのだと言ったと考える。あのなぞを容れて またもやはり神学にのがれるように議論すれば 《耳のいい〈愛〉のその耳を 自己において ふさがない》というのが 単なる人間の自由意志のそれだとしても ここでのボルケナウが目指した人間学の実践だと考える。これは たしかに 《単なる主観性の領域》へ 押しやられる。だが 新しい生活態度にとって この議論が 教育のロック 神学のガッサンディ 職業のウェーバー 革命のマルクスの どちらかといえば みなもとだと考える。これは 万人の万人に対する議論である。
愛を 慈悲が超えるという議論をする人がいる。もし だとしたら それとして論内であるばかりか われわれは その人を尊敬して その実践について行かなければならない。もしここでセラドンが《慈悲》の二文字を説教したであろうとか――つまり あだし心の情念をころせと言うべきだとか―― あるいは逆に たしかに論内の論外なのだから セラドンは その論外から受けた傷に耐えて 慈悲をつらぬかなければならない(つまり 慈悲道とは自己をころすことと見つけたりでなければならない)とか説教 いや その人じしん実践するというのでないならば 尊敬してついて行かねばならない。だが いま述べたこれらの説教のほうは いづれも 内政干渉である。つまり 想像じょうだけの主観動態である。どれいの言葉である。わたしたちは 恥ずかしながら 自分たち自身 けっこう耳がいいと思っている。パスカルの耳がもう少し小さかったなら わたしたちは 慈悲道について行ってしまったかも知れない。

§35(愛を論外とする見解への批判)

アウグスティヌスは――とボルケナウは論じる―― 偶然( Fortuna )という言葉を用いたことを遺憾とした。というのは かれによれば 自分はこの言葉によって ただその連関がわれわれの眼にかくされている出来事のみを意味したのではあったが しかし人間は神の支配を強調することをけっしてゆるがせにしてはならないからである。それでも けっきょく われわれ人間の洞察力からすれば 多くの事 たいていの事が 偶然的におきるのであり そして ただ啓示のみが それらの偶然的でないことをわれわれにしめすのである。
(ボルケナウ:封建的世界像から市民的世界像へ§2 自然法則の概念 〓 カルヴァン p.95)

われわれは まだ――いばって言うのだが――ボルケナウの採用している用語を 吟味してみなければならない。
用語の検討に入る前に この引用文の最後の命題 すなわち《一般に社会偶然(その中に自然界の偶然を含めてもよいかも知れない。つまり 自然現象じたいは 自明でなくとも いわゆる自然科学的な法則にしたがって必然であろうけれど その現象に人間の誰れかれが出くわすことは 偶然である)について 〈なぞ〉においては すべてが必然であることをわれわれは 神の啓示によって知る》という命題は ボルケナウ自身のものであるのだろうか。文脈から見ても そして アウグスティヌスにとってだけの命題として言っているわけではないから そうなのだろうか。
ただし この点は われわれにとっては 主観動態になぞがあるということを言うだけで すませるであろう。つまり わざわざ《神の啓示》――われわれは これを あの《耳》をとおして聞くのであるが――を持ち出して 深入りすべき事項ではない。神の啓示によって つまりそのときも謎(不明瞭なアレゴリ)において知るのだが 社会偶然が――その謎においてまた鏡をとおして―― 必然の連鎖であるのを知った人は もしそうだとしたら 自己の主観動態にとっての必然性を人に 語るであろうのであって(あるいは それもやたら 語る必要はない であって) 神の意志としての必然を 預言としてのように 語ることはないであろう。少なくとも 予言者の時代は過ぎたと思われる。
ただし念のため なぞを持った主観動態つまり信仰動態としては 《世界が造られたときから 目に見えない神の性質 つまり神の永遠の力と神性は造られた物に――物にである――現われており これを通して神を知ることができます》(パウロローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6))1:20)。ということは なぞの何ものか・つまりかみを わたしたちは知るのであって これによって生活態度が形成されるのであって 《神の啓示》を――たとえ知ったとしても―― 予言として説き教えたり ましてや この《啓示されたこと》そのものを《神》として信じたりするのではない。アウグスティヌスは 全面的に パウロの生徒である。

  • サヴォナローラ(1452−1498)は ローマ教会の腐敗を突き フィレンツェの政治としてメディチ専制を批判し 予言者のように 神の怒りが外敵の侵入となってフィレンツェに臨むであろうと叫んだ。事実また そうなって ルネサンスの人びとを動かした。
  • しかしサヴォナローラその人が 神なのではなく 予言がそのとおりになったことがでもなく そういった神の啓示の知識そのものが 神なのでもない。
  • これは 新しい生活態度が 原点から出発してからのその合理必然的な実践と実現の問題である。つまり 啓示は サヴォナローラその人の主観動態の問題であり どこまでも この原点は原点である。

検討すべき用語の第一は 《偶然》ということである。
《偶有性》は アウグスティヌスにとって

通常 付随するその事物の或る変化によって失われ得るものを言う。例えば 鳥の羽の色が黒であるように ギリシャ語で΄αχωριδτα とよばれる或るものが《分離されざる》偶有性と言われるとしても 羽は色は失う。・・・
神においては 偶有性によって言い表わされるものはない。
アウグスティヌスアウグスティヌス三位一体論5・4・5)

われわれ人間も 身体は朽ち 精神も変化しうる――《激しい情念の怒りの子らとなりうる》――から 偶有的な存在である。《偶然》とは われわれがこの世に生を享けたことについて 知らないとき――または 生物学の知識を超えてさらに謎において 知るとき―― そう呼ばれえ われわれは 死を偶然にむかえる。死そのものは 偶有的な存在に 必然でもあるのだが。死が必然なことは 或る意味で なぞである。あるいは そうではないかも知れぬ。
経験科学の眼は 身体の質料的な原因と結果 つまり必然性を明らかにしようとするし 一つの最終的な回答としてやはり 《可死的なものは可死的だ》という自同律をこえて謎もあると付け加えたとしても それ以外には何も付け加えるべきでないのかも知れない。ところが 死が必然であるとしても われわれの自由意志は 死を欲していないというのも 一つの合理思考なのであって 経験的に言っても 合理必然を形成している。死は必然的でこれを免れうるものではないが その一歩手前までは 自由意志による合理必然のもとに 生きていたいというのも 一つの人間の真実を構成する。
この真実が充たされないときには セラドンのように この世から去ってしまうというのも 可能性としては あった。神秘的に言うとすると 生の合理必然と死の必然とが 矛盾しないように 生きたいという欲求も考えられる。この欲求は 激しい情念や愛情であるかもしれないし 《わたしが存在しなければ 事は始まらなかった》というときのその自己の存在を愛するという熱心にもとづくものであるかも知れない。
この主観動態の熱心は 死をおそれるゆえでもなければ いづれは必然的にやってくる死を いま願ってのように 自己の合理必然の中へたぐり寄せてくるゆえでもなく なぞを恐れる(または なぞにおいて信じ愛する)ゆえの場合である。《わたしがわたしする》という自己の自乗と 《可死的なものは可死的だ》という経験科学的な自同律とは 別だと見て その自同律だけでは 満足しない場合である。(消極的に 満足していることはありうるかも知れないが。)
だとすると これは なにも神秘的ではない。神秘の部分を含むのだけれど。

ゆえに わたしたちは神の予知(たとえば 偶然にやってくる死の必然のことを こう捉える)を保持して意志の自由選択(合理必然の経験行為)を排除したり あるいは意志の自由選択を保持して神が将来について予知しまうことを否定するように(つまり なぞは一切ないとか なぞは どこかの一点で すべて解かれたとか と言い張ってのように)(これは 許されないことである) 強制されているわけではない。
むしろわたしたちはこれら両方とも心から受け入れ 両方とも信仰と真実をもって認めるのである。前者(神の予知)を認めるのは 正しく(ベネ)信じるためであり 後者(意志の自由選択)を認めるのは よく(ベネ)生きるためである。だが もし人が神について正しく信じないならば(神でないものを神とするならば) その人は悪く生きるのである。
アウグスティヌス神の国 1 (岩波文庫 青 805-3)5・10)

と――断片的だが――アウグスティヌスは 言っている。
だから 第ニの検討すべき用語として 《神の支配》についても これで吟味した。
第三の用語は 《啓示》である。ちなみに第二点で 《神の予知》と《予定》とは げんみつに言うと――これは周知のごとく――ちがう。われわれの言うべきことは 《予知》を 人間が過程的に捉えるとき つまり言いかえると むしろ偶有的なものとして捉えるとき(これは 迷信である。だが)予知が 予定を含むかたちで 《えらびの予定》として表現されえた。迷信も その内容事項としてどこかで 真実を含みうるように 《予定》も《予知》のことを示しえたかも知れない。
ここで カルヴァンは 《予知》にかんする知識を 啓示されて 《予定》説として表わしたかも知れない。ただし ただちに言いうることは 啓示の内容知識が 神ではなく また予定されているが人間にはわからないということそのものが 信じるべき神なのでもない。
この点は  ボルケナウも主張しようと――つまりカルヴァンを批判して―― 努めたことである。

カルヴァンの神は 中世のそれとまったく異なり その全本質からいって隠された神( Deus absconditus )なのである。
(ボルケナウ§2・〓 p.91)

ところが このボルケナウの判断内容は 一つに単純に 《カルヴァンの神は パウロの神とちがう》と言って そこから出発もして 処理すべきであったか もう一つに ともかく《神》と言っているのだとしたら 《隠された》も《顕われた》もないであろう。つまり 後者で言いたいのは 《隠された神》は 《神》そのものではなく 単に説明しようとした一表現形式にすぎない。もちろん 《神》と言っていても ことばであり 表現形態でしかないことは そうなのだが。
この《カルヴァンの神》でボルケナウの理解する内容は その理由として

この世界が善ではなく(自由な合理必然のとおらない・またオプティミスムのつらぬかれないものであり) そして 神が世界についてなにを欲し給うであろうかは 個々の点について一時的にではなく 全面的にしかも永久に秘されているからである。
(§2・〓 p.91)

パウロの神との矛盾を持ち出さないとすると カルヴァンは何を言いたかったのであろうか。カルヴァンは 啓示で知ったそのことを 神とした。あるいは すべて 説明として 述べた。そのどちらかであろう。だが 予定説へのボルケナウの反駁は ここで主張しようとつとめているのであって 明らかなかたちで 議論してはいない。《カルヴァンの神は 隠された神だ》という理解だけでは 何も言っていない。
最初の引用文 つまり《ただ啓示だけが それらの偶然的でないことを われわれにしめすのである》ということで カルヴァンを反駁したのであろうか。ボルケナウに啓示があったのなら 《カルヴァンの教義の出現したことの 偶然的でないこと》をかれは われわれに示さなければならない。かれは 《啓示》という用語をもちだすことによって 説明したと思っている。
カルヴァンの予定説の起こりえたところを これこれの神の必然だというふうに 説明しようとわれわれは 思わない。われわれは 啓示を持ち出さない。ところが カルヴァンは 《われわれ人間が 救いか滅びか いずれか一方の道に予定されていて その予定ということは 確実にわかているのだが どの主観動態(つまりどの人)がどうであるか または 個々の行為事実が 一般予定の軌道の中で どのような必然をとっているものなのか それらは まったくわからない》と 仮りに説明だけとして言ったとしても そう言ったとしたなら これは 人がその意志による自由選択(つまり合理必然)とともに 神の予知(つまりなぞ)を 認めてもいけないし 主観表現として口に出して言うことも それは 論外だとしたことである。
予定として つまり人間にはついぞわからない予定として このなぞのことを 口にださなくてはならないのだと。けれども なぞは 不明瞭だが たとえでもある。なぞにおいて予知を けっきょく口にださなくとも 知ることも(つまり 知ったと思うことも) ゆるされないとカルヴァンは 言ったことになる。同じようなことで ちがう言い方としては カルヴァンは わたしたちが なぞは予定として認めてもよいが 意志の自由選択は 認めてはいけないか それとも そんなことをしても無駄だという新しい教えをのべたことになる。
つまり セラドンは 予定説の議論の内に入るが アストレは まったく論外にいると言ったことになるか それとも むしろアストレは論内にいて セラドンが論外だと見たことになるか あるいはそれとも 両者ともカルヴァンのおしえからみれば 論外――まったくの論外――だと説いたことになる。つまり いまこのわれわれの議論は あくまで 特定の人間の 一定の時点・一定の場所での振る舞い(生活態度)の問題としてであるから もしカルヴァン自身が セラドンであったとしても 生活態度じたいが 《善でない》のだから われわれの問題と議論とのすべてが 論外だということになる。ひたむきに禁欲に生きるしかないと。
禁欲とかひたむきとかにこだわらなければ そういった無関心は カルヴァン主義ないしウェーバー主義の徒としての現代人のものなのでもある。 《予知》は 人間的に言ってやはり 《愛》の出発点(または媒介点)をもっているであろうから――人間の意志の自由選択をも認めるのであるゆえ そして つまりこういうことは カルヴァンにとってまったく論外だとされたとしても 人が逃れ得ない《いま・ここ》からの出発(または すでに旅の過程)は 広く《愛》の問題であることを見たゆえ―― 直接的な表現で 愛を原点としてのように持ったセラドン(あるいは作者デュルフェ)は たしかに カルヴァンから見て 議論のはしにも棒にもかからないと言ったことになるであろう。
カルヴァンの神は そういう神である。つまり そういう顕われた神である。すべての人間の自由意志による合理必然の選択を あたかも無効力とする神 いや おしえなのである。むしろ 主観動態が 隠された いな 無効とされた。《予定の内にあり しかも この予定はわからない》と表明する主観動態だけが すくわれるかも知れないだけだと。
《慈悲道》もこれに近い。ただし カルヴァン主義が もはやこの世の生活としては やみくもに 特に経済生活ないし職業労働に 専念するしかないという方面へ進んだとしたなら 《論外》の世界で 禁欲的にだと言いつつ とにかくやりたいことをやって生を送るという内容的な場には とどまったように 慈悲主義者も 妥協している。
日本では 無教会主義のキリスト信者が この慈悲主義になりえたと わたしは思っている。《まったくの論外の世界(そこへの妥協)》ということを 《涙の谷を渡る》という用語で 表現する。
見たまえ アウグスティヌス人間学を。

  • 無教会がわるいと言ったのではない。ただし 無教会というやはり組織のことを 論じたのでもない。

(つづく→2005-10-25 - caguirofie051025)