caguirofie

哲学いろいろ

#14

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§19

男女両性の結婚は 自由な意志による行為でありその合意にもとづく。主観的な信号の共同化として成立する。
結婚式もしくは披露宴は その記号である。このばあい 式や宴をあげなければ成立しないのではないが 合意成立の社会的な承認は そのものとして 記号をなしてもいる。記号というなら 法律上の婚姻届けのほうが それにふさわしいが。
ここで 欲望はほとんど存在していない。感性がどこかへ捨て去られたものではなく しかも この結婚という人間の交通のかたちは 基本的な人間の関係として成り立つ愛(意志)のできごとである。
ここでも 欲望は心理の動きとして顔を出し だからあるいは 記号としての結婚・つまり人間の基本的な 男女両性の特定の交通関係という公式 これが 理念であって その理念が念観され 自己じしんたる記号を欲することへ走り出すことが 顔を出し 跳躍も起こりえた。最終の(基本の)目的ではない記号と理念との世界で 一たん秘密の会合を持ち その雲の上にとどまるということが 起こりえた。
結婚の 記号理念の世界での 自己目的化。記号じたいが 信号を発しなければならず それゆえに 無限の運動をくりかえす。ほんとうの(つまり ふつうの)生ける赤児をもうけても あたかも さらにつねに 記号理念じたいが その生ける赤児を産んで自己増殖していかなければならないというような 結婚交通そのものの無限運動化。
跳躍した世界で――あるいはむしろ そこへ転落して(ただし 記号理念からも離れている男女の関係は 論外なのである)―― 互いに信号を無限増殖していないなら 基本の人間関係が 成り立たず壊れるという強迫観念。結婚は人生の墓場だという別の一観念は この強迫観念の裏返しである。
要するに 記号理念は 記号でしかなくても 理念として 人間の先行するものの領域(つまり自由)を言い当てている ゆえに 結婚は すばらしいものでなくてはならない ばら色の日々がつづかなくてはならないと 思われる。思い込みがなければ じっさい つづくはずである。結婚は すでに基本先行の領域で 関係的な存在である主体の自立という問題でしかない。
男女両性の特定の交通関係において起こりえたこの無限運動の強迫観念から まぬかれることは 比較的に容易である。仮りに 跳躍した世界で一組みの夫婦が 秘密の倉庫を持ったとしても すでにいちじくの葉で身をおおうようになってからというもの それは 密室での出来事であるとして わきまえられている。強迫観念(あるいはそれの転化した絶望感)は とうぜん――それがあるとするなら―― 社会一般の経済的な交通関係の領域から来て それとつながったかたちのものとしてのみ まとわりついている。つまりむしろ 個体ごとに 自立が阻まれるという問題としてである。
しかも 記号理念ゆえの社会生活――その特に 労働あるいは経済活動の側面――のなかで 結婚は 跳躍し自己目的化し無限運動をおこなうものとして 展開されうる。理念は 持たれているのである。むしろこの理念にしがみついている。しかも 理念は それとしては 先行するものを言い当てている。人間が そういうことば(概念)を持ったのである。会議は とうぜん ここでも 有効である。しかも この記号理念(平等・自由な合意)ゆえに記号理念として記号理念のために 結婚するという強迫観念が あたりまえの意識としてのように うごきまわっている。結婚という記号が 一人歩きしている。しかも結婚は善である。
基本的な人間の関係が ひとりの男性としてあるいはひとりの女性として 交通しあえることは よりいっそう高い善であるが 結婚という交通形態は 善である。これについてもわれわれは 自由な意志による互いの信号の合意成立をふくみうる交通の関係 これを会議での同意事項として 前提し 出発し あとは関知しない。
結婚は 両性の合意によって成立する。結婚式あるいは 男女の交通関係としての記号理念たる公式によって 成立するのではない。商品ではないのだから。しかも 経済領域での商品も 自分ゆえに商品であるのではないし その商品記号ゆえに 信号の交通関係が成立するものではない。この先行するものの領域での価値観が 跳躍した経済運動を容れた生活世界のなかで 無力とされていることと その記号理念の自己目的化した運動へ跳躍していかなければならないなどということとは 別である。
結婚は結婚であって 記号理念になりうるけれども それではない。まして商品ではない。経済上の商品は 記号概念を持ちその交換価値でありうるけれども 物としては使用価値に 主体に対してはその信号の交通行為に それぞれ従属(後行)している。すなわち 《価値》ではない。価値の素材であり 価値の記号をもっており この記号は 信号交通を・あるいはまた最終の価値使用を 代理しうる。
《商品の交換関係そのものにおいては その交換価値は その使用価値から全く独立しているあるものとして 現われた》(資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) Ⅰ・1・1・1)のは そういう記号の世界の分析としてのみである。《もしいま実際に労働生産物の使用価値から抽象するとすれば いま規定されたばかりの労働生産物の価値が得られる》(同上)かも知れないが 《商品の交換比率または交換価値に表われている共通なものは かくて その価値である》(同上)というのは どこまでも 解剖して見出される記号要素であるにすぎない。
けれども 商品は 実験室での分析値や 解剖台の上にのったすがたで 市場に現われるのではない。われわれは 解剖学の分析概念で 交通および交換の行為に際して 信号をおくるのではない。分析概念たる記号をもって信号をおくるのではあるが 記号は 使用価値の主観共同化の行為たる信号伝達とまったく同じものではない。解剖学の知識のまま われわれが生活しているというのには 無理がある。電報でも――記号だけで意図の信号をおくろうとする電報文でも―― 発進人と受信人とがいる。マルクスは 記号論理学でよく事を説明するが 説明じたいは まだ 生活態度ではない。解剖学者の 実験室での研究態度は まだ かれの生活態度ではない。出発点の――出発点の――説明は すでにそのことで 出発する人の 生活態度 その意図の発信となっているものである。
マルクスは この信号としては やはり依然として 記号論理学ないし解剖学によって得られた歴史上の経験法則のかたちで その抽象一般的な展望としてのみ 伝達している。つまりまだ 主観の発信をおこなっていない。相対性理論が 街を歩いているようなものである。すなわち かれは 意図の王国へ飛翔していってしまっている。と結論づけざるをえない。

  • その研究を 究極の最終目的とするとことわっているし たとえば逆に 労働時間の短縮といった主張つまり主観の発信を むろん おこなっている。ということは そういったことわり書きを前提にしたうえでの研究や また 研究態度としてではなく生活態度の問題として個人の主張を展開することやについては いってみればここに降りてくるという出発点での出発が 著書のあとに 必須のものとなっている。ややこしいことだが これを はらんでいる。

水田洋は この点を次のように議論する。

ついでにいっておくと ぼくは マルクス主義認識論のなかで 模写説=反映説という大脳生理学的な系統と 階級意識イデオロギー論という社会科学的な系統との 橋わたしがおこなわれたことがあるのか 疑問をもっている。すくなくとも マルクス エンゲルス レーニンにおいては それぞれが未整理のままで混在していたし それだから とくに後者には 未整理なもののもつ魅力があった。ところが いまいった橋わたしの問題はべつとしても 個人意識と階級意識の関係とは あいまいなままであるか 無条件に一致するものとされていた。じつは それでは 意識=思想の問題そのものがでてこないのである。
創始者たちにおいては こういう無条件的一致はブルジョアジーの虚偽意識について とくに強調され それはそれでただしかったし プロレタリアートについては かならずしも つねに明言されなかった。だからこそ プロレタリアートの理想化とか前衛党の指導とかいう 媒介項が必要になったのである。
(水田洋:現代とマルクス主義 後編・第三章 マルクス主義の歴史的位置・5)

《意識=思想の問題》というものが われわれの言葉で強いて確認するならば そのうち《思想》が自由な意志をあらわし 《意識》が――心理・欲望のことではなく――具体的な意図のことだと考える。ちなみに やぼを承知でつけ加えれば 意図は(つまり わたしが意図するときには) 跳躍する人びとの意図のなかの心理や欲望をも認識して それに対処するように 自分じしんを形成して持つものであるのだから そこに《意識》をふくまないわけのものではない。意識を排除し去ってしまっているというものではない。
水田は 先行するものについて一般的な合意を見た会議にかんして つまり出発点の生活態度にかんして 《思想(思想史)》の分野に焦点をあてて論ずる具体的な思想家あるいは人びとと思想について すでに知解内容の問題として とりあげている。わたしたちは 《誰も自分が想起しないもの また全く知らないものは愛さないであろう》という観点に立って 意志および意図が 意識(つまり意識された現実)に対して知解し理解するその思想へも まだ 進まない。意志および意図そのもののあり方 ここにとどまっている。
この出発点に立つことの想起 その主体(つまり 自己)の愛 これを言いつづける。水田は そうしていない場合の思想にかんして 知解力(あるいはまた 知識人)の問題として 批判をおこないつつ議論する。つまり 同じように 生活態度の会議過程 主体の想起と愛とを 主張する。マルクスは これを前提していたのであろうし また いってみれば《後提》していたのであろう。わたしたちは 強くもないし そんなむずかしい説明の仕方はいやだから まだ 井戸端会議にとどまっている。ただし 出発点は ここにあると考えている。

再論――記号概念の秘密 じつは 信号交換の密約――

§20

記号には秘密がないということが その秘密である。使用価値をめぐる信号には 秘密がある。秘密の跳躍がありうる。その信号交換は 記号を用いておこなうのであるが そこに 密約を生じさせることができた。すなわち すでに交換価値または商品価格としての記号を用いておこなう信号交換に際して 密約が生じえた。

したがって 価値関係(交通関係のすでに交換行為)を通して 商品Bの自然形態は 商品Aの価値形態となる。あるいは商品Bの肉体は 商品Aの価値かがみとなる。
資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) Ⅰ・1・1・3〔・A・2・a 〕)

のではない。と言っていこうとおもう。
AとB二つの商品を交換するとき 交通の当事者は それぞれ自分の商品の価値(使用価値)についての数量的な判断をもち それを信号として送りあう。価値の数量的な単位が記号であり これら二つの商品について互いに等価の量を決めあう。同意が成立したその比率も 記号である。ただそれだけである。
なるほど 比率記号の成立の前に 商品の肉体が 他の商品の価値かがみとなったかに見える。商品どうしが見合いをして Bの自然形態をもって Aの価値形態となしたかに見える。むろんこれは その背後に 信号の交換が・あるいは交通当事者双方が 価値かがみといえば価値かがみどうしとして ひかえているのである。見合いするものどうしふたりだけで 自由に話し合っていただきましょうというわけにいくものではない。また そういうわけにいくものなら いかせるのは 価値かがみどうしの信号のほうである。
ところが この価値かがみ――つまりこの価値かがみへの互いの信号の反映――は マルクスが次のようにこの上の引用文に注釈することとは いくらかちがうと考えられる。

このことは 商品と同じようにいくらか人間にもあてはまる。人間は 鏡をもって生まれてくるものでも フィヒテ流の哲学者として 我は我であると言って生まれてくるのでもないのであるから まず他の人間の中に 自分を照らし出すのである。ペーテルという人間は パウルという人間にたいして 自身に等しいものとして相関係することによって 初めて 自分自身に人間として相関係する。しかしながら このようにしてペーテルにとっては パウルなるものの全身が そのパウル的肉体性のままで 人間という種の現象形態と考えられるのである。
(同上:Ⅰ・1・1・3〔・A・2・a 〕)

われわれは 《鏡を持って 我は我であると言って 生まれてくる》のである。ペテロはパウロと交通しあって 《自身に等しいものとして〔もういちど言えば〕交通することによって 初めて 自分自身に人間として相い関係する》という時間的な歴史的な過程をへるのであるが それは はじめの《我は我である》ということが したがって そういう人間どうしの基本の関係が 自覚される経緯を言っているのにすぎない。
主体という存在の基本の関係は もとから 先行するものとして 生まれて来ている。ゆえに 後行する交通において 人間は《鏡を持って》いる恰好で 互いを・つまり具体的に互いの信号を照らし出し合う。先行するものの領域としていえば 鏡をもって生まれてくるのである。
先行する基本主体である人間の関係は 後行して交通を持つ。つまりそこで 出発点としての生活態度が形成される。生活の基礎は 経済活動である。すでに交換を前提していたから 経済生活での交通は 使用価値の商品としての交換をおこなっている。価値かがみとなるのも ここで 人間である。交通当事者として 交換の主体として そしてさらにもっと具体的には信号伝達において 互いに価値かがみとなる。
商品であるAとBとのあいだには 交換比率たる記号としてはこの記号(価格)があるのみである。価格としての記号の成立のまえには なるほど 自然形態の商品Bが 商品Aの価値形態となるという価値の代理またはしるしとしての記号が成立するかと考えられる。しかしこれも すでに記号概念だと考えられる、商品どうしは 見合いをしない。そして そう(見合いをしていると)解してもよいように 人間どうしが信号を送りあっているのである。――マルクスの意図はもともとこうであったとするなら この箇所でただちに明言してすすむべきだと言ったまでであるのだが。


マルクスは この《相対的価値形態)の段階と《等価形態》のそれとを区別して 前者から後者へ進展するといった見方で 説明している。
かんたんにいえば 価値をあらわす記号の段階と 記号がある種の価値となって現われるかのような段階とであるが われわれの言おうとするところは――そして実際 マルクスの意図するところも と思われることには―― 記号に秘密はなく 商品が価値かがみとなっているように見えるのも 記号がなぞを持ったからではなく むしろ《我は我である》という人間が 意志を自由に発揮しうるのであり そのことは一つの合理的な知解として 会議の合意事項ではあるが この自由意志は固定的な念観すべき理念なのではないから そこになぞを留保する・むしろ価値かがみとなりうる人間のほうになぞを留保する したがって この人間の意図ないし信号には なぞ・秘密・密約の生じる余地があるという方面のことを 明らかにすることである。交換に際しての価値形態の段階的な進展 これの説明の順序には すでに従わないことができる。わざといえば 解剖をきらうと言ったほうがよい。
価値かがみ――それは 信号を映すのであるが じっさいには 記号提出によって取って代わられる つまり 一つの媒介となる交換行為の焦点としては この記号をのみ映すであろう――となる信号どうしのあいだでは しかしながら この記号をめぐって跳躍しあうような だから背後の 密約が生じることが出来た。
記号価格が 等価交換として 成立したならば じっさい それとしては 秘密はありえない。せいぜい 商品にきずがあって これを隠していた(また 知らなかった)とかいったもので これは 記号の秘密ではなく やはり信号(信号主体の主観)の秘密であるが このような場合の秘密は 跳躍点の密約のことではない。跳躍しないで 信義を問い 一たん成立した交換を無効として 原状に復帰させるという方面の問題である。
価値かがみどうしの信号交換における跳躍が生じるということ これは 等価交換の記号が成立したとき その記号とは別のところで 棲息するものである。記号が成立しなければ 跳躍は実現しないが 記号とは別のところにしか 密約はありえない。(会議の以前 等価交換の以前の段階での 交通関係における密約は いま あつかわない。)しかも 会議の以後としても 商業道徳といった信義の問題は やはり別である。
問題はおそらく 抽象的にかんたんに言うと 価値かがみ(つまり人間)と価値かがみとの交通および交換行為において たとえばKの鏡がLの鏡を 何らかの手段で おおいつつむといったその交通関係の現象形態にある。そこで 信号間に密約が生じる。基本出発点の生活態度たる会議から その理念をとうとび しかもこの理念をあまりにも守るがゆえに そこへ跳躍しようとする この跳躍しようとしていた意図の信号が 同じような仲間を見いだすことによってか あるいは この跳躍の信号が けっきょく相手によって受け入れられるかたちでか 密約または密会をもつ。
基本会議の背後の密会は 価値かがみどうしの背後の意図の相互抱擁である。善意の密会者(つまり単純には だまされたばあい)の抱擁をふくめて これである。一般に KによるLの包摂。
これは じっさいには 交換という経済行為をとおしての 経済外の問題であり 政治的な交通関係あるいは抽象的に愛(意志・意図)の問題である。《パリは確かにミサに値いする( Paris vaut bien une messe. )》というときのそれであり(同上:Ⅰ・1・1・3) 《貨幣所有者は資本家として先頭に進んでい〔て〕 労働力所有者は その労働者として彼の後に従っている。一人は意味深そうにあいそ笑いをしながら 業務に心を奪われた人のように。他の一人は おずおずといやいやながら ちょうど身を投げ出して尽くしても もはや――打ちのめされるほかに 何も期待できない人のように》《労働力の買いと売りとが》(Ⅰ・2・4・3) もしおこなわれているとするのならば そのときの信号交換の交通関係としてである。
すすんで跳躍しようとする人・Kの鏡が この跳躍をゆるさざるをえないとする(――それは 跳躍が無効だから関知しないゆえでもあるが――) その人・Lの鏡をおおいつつむとき 信号間に密約が 結果的にとしても 生じた。記号は記号であり 成立した等価交換に秘密はない。それとして 合法的である。会議の合意事項にのっとっている。そしてもちろん 事は 生活の基礎たる経済上の交換をとおして 生じる密約こそが 会議の出発点からの跳躍を 自己目的化させ あたかも恒常的なものとする。
アンリ四世は新教徒であったが 旧教に改宗し(《ミサ》にのぞむことを受けいれ) 旧教徒の支配するパリにおもむき 国王となった。そのとき 世にいうナントの勅令で 信教の自由という信号ないし記号を発布したが ここでのあたかも交換行為もしくは交通関係は 旧教の優勢を保証するという条件ないし密約のもとに(すなわち そういう一つの生活態度を出発点として) 王権を立てる社会体制の記号形態を継続させたことである。《パリは確かにミサに値いする》という記号は アンリ四世とパリの貴族たちとのあいだに 等位の交通関係の定式として成り立ったなら ただ記号であるだけであって 当事者たちの鏡に映し出されていた信号およびそこでの密約(ないし契約)は 王と貴族たちとの 以前からの或る種の跳躍状態の保守を その内容とする。これは 会議以前の段階ではある。もちろん 経済的な動機がないわけではない。
会議の合意事項としての出発点たる生活態度は その自分じしんに――それは人間の態度なのだから―― 鏡・価値かがみを 持っているということができる。あとは知らないとして 出発点からの跳躍に対して 基本的には関知しないというのは この鏡にこのような跳躍(あるいは転落)を映し出していて それを認識するということは しているのである。
跳躍が つまりそれをひそかに伝えようとするひとりの人の信号が 他の人の信号と交通しあって その同意を得たとするならば まさにそれは 密約だと言われたと考えられる。密約だという認識 これもじゅうぶん 持っている。ならば 出発点の生活態度の問題しか ここには ありえない。そして 顕在したのは 等価交換の記号であり この記号には 秘密はない。
記号商品の集積が なぞの象形文字の体系となっているように見えても 記号が秘密を持ったのではなく 信号交換が 記号概念とはほかのところで ひそかな楽しみを楽しんでいるというにすぎない。価値かがみたる人間が むしろ なぞである。なぞゆえに あとは知らないというのと 密約を持つこととは 別である。
密約がおこなわれたと認識しつつも それに対しても あとは知らないと言えるのは この密約は 現われた記号成立の点では 合法的なものだからである。秘密の跳躍を われわれは 取り除くのではなく(――すでに むしろ個人的に 現行犯の問題として糾弾すべきだが 必ずしも告発しようとすることでもなく――) 会議の出発点に 密会する人びとが復帰するのを俟つしかない。
生活態度の出発点を想起せしめることまでしか することができない。告発とか社会的な制裁とか法律の問題は 人間学や経済学の問題にちがいはないが ただちにそうなのではない。法律上の処置は 人が跳躍するしないを別として 人間学および経済学の出発点の合意事項をもともと守らず すでに合法的でなくなっている行為に対して 言ってみれば確かに その生活態度に復帰するよう 制裁をおこなうものである。われわれのここでの問題は 出発点に立ったあと これを 商品記号の交換行為としては合法的に経済活動するばあいの かくれた信号交換にかんするものである。
会議の歴史的な成立とそこからの生活展開の社会的な実現 この基本に 不都合はないし 等価交換がまもられていることについて やはり不都合なものはない。もちろん もっとも 記号概念での等価交換にまさる主観共同化のあたらしい交通形式が 考察されるなら また話は別である。
結婚は善であり そういう交通関係公式としての記号となった側面を持っていても この記号に罪はないし秘密もない。(この場合の記号とは 数量的なものでなく 自由とか平等とかの理念である。)密約は 記号成立の合法的な交通関係のうえで それとは別のところで おこなわれる。個人的に現行犯の問題としては とうぜん密約の実行は 糾弾されるべきだが 一般にわれわれが実践していくのは 出発点の生活態度への復帰を 想起せしめていくことである。法律は法律の問題として これまた おこなわれていくであろう。経済学の踏み出しは 会議にあり 人間学である。


ちなみに 新聞報道によると

インド北部のラジャスタン州ジャイプールの高等裁判所は〔一九八五年十二月〕五日 持参金不足を理由に新婦を焼き殺した二人に対し 公開絞首刑の厳しい判決を言い渡した。
朝日新聞 1985年12月7日朝刊)

とある。《二つの事件は別々で〔一人は〕息子が迎えた嫁が十分な持参金を用意できなかったとして嫁を焼き殺した。〔もう一人は これも〕また 新妻の持参金不足に腹を立て 焼き殺した》というものだそうで ここには 一方で法律の問題 他方で人間学=経済学の問題がある。さらにまず 新聞の伝えるところによると

インドでは 結婚の際 嫁が持ってくる贈り物や財産が少ないために夫やその家族が殺す《持参金殺人》は現在でも後を絶たず 毎日のように新聞で報じられるほど。多くのケースは家族内として始末されるという。
今回の高裁判決は 一罰百戒の意味も込め 独立後はじめての公開絞首刑言い渡しとなった。
(同上)

一方の法律の問題は 法律の名による殺人がよいとは思わないが これを措く。他方の問題としては どうか。持参金の多いか少ないかをめぐる価値の所有は 自己運動する価値記号ないし記号価値をめぐっての信号跳躍であるのかないのか。
記号は 主観共同化の便宜的な手段であって この制度に同意するなら 会議はそこで成立している。しかも この会議の以前の情態なのか 以後の密約にからむ事件なのか。持参金は その額が やはり一種の記号だと考えられる。それでよいかどうかを別として。そうするとやはり 価値かがみとしての主体 その信号と信号とのあいだの密約あるいはその破綻が からんでいるのか。
持参金の額が記号として成立しないまま 信号があたかも成立したとして 事がすすめられたのなら 会議以前であるだろう。会議以後のばあいなら 価値かがみどうしの――あるいは 家という擬制的な主体としての価値かがみどうしの――互いの蔽い合い(単純に支配欲 をとおした意図どうしのあらそい)の問題だと考えられる。つまり 結論づけていうならば 跳躍する資本の運動であろうとなかろうと 基本的に欲望は存在していないと考えなければならない。それが存在するのだという無効の出発点に立って 事がはこばれている。
つづく→2006-01-06 - caguirofie060106