caguirofie

哲学いろいろ

#31

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§40(重商主義:幸福からの跳躍)

そのときわれわれは 上流の人びとの邸宅と家計のなかを紙背している快適性の美しさに 魅惑されるのであり そして いかにすべてのものが かれらの安楽の促進に かれらの欠乏の阻止に かれらの欲望の充足に かれらのもっともつまらぬ欲求を楽しませ慰めるのに 適合させられているかということに 感嘆するのである。
もしわれわれが こられすべてのものが提供しうる真実の満足を それ自体で それを促進するのに適合させられた配置の美しさとはべつに 考察するならば それはつねに 最高度に軽蔑すべく つまらぬものと 見えるであろう。だがわれわれは めったにそれを この抽象的で哲学的な見方では 見ないのである。われわれは自然にそれを われわれの想像のなかで それを生み出す手段である組織 機構または管理の 秩序および規則的で調和的な運動と 混同する。この複合的な見方で考察されたばあいには 富と地位の快楽は なにか偉大で美しく高貴なもの それの達成は われわれが それにあのように投じがちな 苦労と懸念のすべてに十分にあたいするものとして 想像力に強い印象をあたえるのである。
そして 自然がこのようにしてわれわれをだますのは いいことである。人類の勤労をかきたて 継続的に運動させておくのは この欺瞞である。・・・
(4・1)

道徳感情論〈上〉 (岩波文庫)

道徳感情論〈上〉 (岩波文庫)

この一節にかんして わたしたちが考えうることは 二つある。そして つきつめていくと 同じ一つのことがらになるものと考えられる。
《自然がこのようにして――すなわち 資本志向の生活態度も 資本主義志向とその成果(!?)に魅惑され 懸念をもちながらもそのように苦労してみたいと思わしめられるようにして―― わたしたちをだますのは いいことである》というのは そのただ今 発展に向けて進んでいるときだからといったように考えられることを別とすれば これは まず 二重会議派の動きを許容した基本会議の進展を ヨーロッパ人として捉えたものである。すなわち 《なにかの骨のおれる職業において 自己をきわだたせようと苦心〔し〕 もっとも頑強な勤勉さをもって・・・自分のすべての競争者にまさる才能を獲得するために 日夜苦労する》(道徳感情論〈上〉 (岩波文庫) 4・1)ところの資本主義志向は 一般にヨーロッパ人のあいだにおいて といってももちろん 会議人の自由とあたかも同じく《最高度に軽蔑すべく つまらぬものにみえるであろう》ガリ勉の側面をも持っているであろうが 理知的なものであろうし スミスはこのことを 理念の 極端なかたちではあっても 動きのもとにおけるものとして 叙述していはずである。むろん 非ヨーロッパ圏に 理知的な資本主義志向がなかったり あるいは これから指摘するところの欠陥が 逆にヨーロッパ人のあいだに ないと言ったりすることではない。ただ ヨーロッパ人の文章は 理知的な動きを 生活態度の理念的な動きとして――また 情感は その概念による把握として―― 叙述するかたちをとるのが 一般なのではないか。いうところは こうである。すなわち
《自然がこのようにしてわれわれをだますのは いいことである》と言える とともに そのガリ勉への起動力が 二重会議をとること――労働・商品の記号と ゆたかになりたいという信号との――までもまだ いいことであるとしても その二重会議が密約となることは よくない。たとえば 商品記号関係での独占を 隠れた意図の信号のもとに実現しようとすることが考えられる。そして しかも このような社会一般の事態にかんしては まだ 経済学によって対処していけると考えられるのであるが ここで われわれが欠陥とよぶところのほんとうによくないことは 具体的な個人どうしの交通において 人格の交換がおこなわれるということである。
これは たしかに無効の跳躍なのであって われわれはこれに基本的に関知しないのであるから スミスも 理念的ないし概念的な価値中立の叙述で処理している。だから 関与しようとおもうなら 自然がこのようにわれわれをだますのは よくないことである。いや ゆたかになりたいという信号による二重会議(現実と夢と)は 別にわるいことなのではない。いづれにしても よくないのは だまされるとき この信号がいまひとつ別の信号ないし信用によって包摂され 信用までいくなら 人格が交換される気配が生じるときである。富裕への欲求という信号をもつというときにも むしろ はじめにこの――具体的な人間の交通関係をとおして―― 人格交換がおこったことの結果である場合があるということである。人為的にだまされるのである。
これは 人格交換――相互抱擁――によるところの二重会議である。ヨーロッパに 人格の交換なる手口がないわけではないだろうが 相互抱擁による商業主義の帝国は 比較的に起こりがたいものなのではないだろうか。欧米の人が 日本を住みよいところだと見いだして 住みつくという場合 そういう人のなかには 日本人の相互抱擁による二重会議になれしたしんだ結果である場合もあるとは わたしは鬼になって言わなければならないとは思うが。
スミスは 社会総体の問題 すなわち経済学のことがらとして 二重会議――かれのばあいのそれは 重商主義――に 対決したと言えるかも知れない。《階級的特権的利己心とか 政治家のあやまった国家理性とか》となって この重商主義はあらわれるわけであるから この二重会議は――つまり一般にヨーロッパ人のあいだのそれは―― 人間と人間との人格交換としてではなく ひとりの人間が 階級的特権(その地位)や国家理性と その自己の人格とを交換する そしてそういう人びとが 友だちの環をつくるというふうなのではないか。
考えうる二つのことが けっきょく一つのことに帰着すると言ったのは したがって 日本では――わたしの認識した経験的な事実の一つの一般的な傾向としてだが―― 二重会議は はじめに人格どうしが 互いを交換し抱擁しあうという場合が考えられるからである。日本では さいしょに友だちの環をつくって そのあと 階級的特権(たとえば学者のあいだにも見られると思われるもの)や国家理性(情念?)やを 利用しあって 独占する場合もあるだろうし 社会をうまく運営する場合もあるだろう。こういった ヨーロッパと日本との二つの例にして一つの種類の二重会議。
わたしは言うが――鬼になってついでにわたしは言うが―― とくに日本でのように 二重会議を人格交換から始める場合には 生活の出発点から 生きることを放棄しているようなものである。この問題は どちらかといえば ルウソのものである。ヨーロッパ人には まれだと言ったけれど ルウソの対決した問題としては ヨーロッパ型の・当時のフランス型の 人格交換による二重会議がみられたところに捉えうるのではないだろうか。
スミスの尊敬したヴォルテール(1694−1778)や あるいは百科全書派の人びとのあいだにさえも ルウソに対して 出発点での鎖国政策型(これが日本式)の二重会議を ヨーロッパ人ふうに とったうたがいがある。ヨーロッパ人ふうにというのは じっさいには一般に 互いの人格をまず認め合うことから 出発してもいるからである。ルウソに対する場合は 例外であったかも知れない。もっとも この場合に例外というのは 数量の問題ではないから いちど起こったら 重要な問題である。そして もっとも ルウソについては かれが《山師》であったという批評も 他方には存在する。もう一つそして 経済学上の生活態度のうえで 人びとから その人びとの山師根性を 交換されたのか それとも かれは かれらよりもさらに一層 跳躍する山師だったのか。一つには さいわいにルウソは 迫害されている。超山師ならば むしろ人びとの上に君臨するであろう。論証したことにはならないが こういった問題として 次へつなげよう。
なお われわれは とは言ってもすでに 本文の再論の中(§25)で 《ダブル・バインド》に触れていた。イギリス人 G.ベイトスン(1904−1980)が ニュー・ギニアやバリでフィールドワークし アメリカに渡って この《 double bind 》を言い出した ということは 日本やアジアの地以外にも 人格交換から仕掛けるタイプの二重会議が 問題となりえていると考えられる。さや入れとか いれこ(入子・入籠)構造などと訳される《 invagination 》などとも 言われたりするのだから 日本が特異であったり ルウソ当時のフランスが特異であったということだったりするのではないだろう。経済上の二重会議たる重商主義も 植民地をもって 植民地に対して 《 double bind 》や《 invagination 》とよびうる政策をおこなうものと思われる。植民地というのは しばしば経済上 企業間の二重構造でもありうると考えられるが。
そういえばマルクスも――思い出したように言ってはいけないが―― 労働・商品の二重性を指摘していたのであった。わたしたちとしては これを 《使用価値と価値記号との基本構成》および《単独分立したかのような記号価値》という二重会議と見たわけであった。平田清明がおもしろく説明している。

亜麻布と上衣の例でいえば 亜麻布は自分勝手に自分の心(愛)を上衣のなかに見つけだして 上衣を自分に関係させてしまうのである。このために上衣は身も心も亜麻布のものとされてしまう。ただし御注意でがいたい。まだプラトニックなのである。この触れなば落ち何微妙な関係を フランス語版《資本論》はまさに確認している。

靡こうとはしない上衣の気持をもかまわずに 亜麻布は 価値のあだし心を上衣のなかにおぼえる。これがことのプラトニックな現局面なのだ。

(平田清明経済学と歴史認識 4・Ⅲ・A・鄱)