caguirofie

哲学いろいろ

#25

――遠藤周作論ノート――
もくじ→2005-11-03 - caguirofie051103

§38 場違いの断章

このゆえに 世あるいは世の部分を支配するあの権能(抽象普遍のアマテラス語になる理論――引用者(以下 記号の*で示す))によって神を問い求める人びとは神から引き離され遠く散らされる。しかしこれは場所の離隔(権力への遠近*)によるのではなく 情念の多様性による。

  • 情念の多様性が アマテラス語理論を何とかして体系化し 欠陥のないものにしようとする。これが 知の私有財産制――というもう一つの権力の構築――の始めである。*

それゆえに かれらは聖なる天的な権能について語るのを聞き あるいはそれをあれこれと思っても 人間の弱さを驚異させるかれらの業(わざ:世界一の知者となること*)を願望するが それによって神の憩いが与えられる敬虔を倣おうとしない。かれらは敬虔によって天使(思想*)の存在を欲するよりも 高慢(高慢とは 自己の心を楽しませること*)によって天使の能力を欲する。
しかし いかなる聖徒(あの仕事に就く者*)も自分の権能を喜ばず 自分がふさわしくもち得る能力を与えたまうお方の権能(やしろ資本の推進力*)を喜ぶのである。すなわち かれは自分の固有の権能や意志によってこのようなことを為し得ない人びとが戦慄することを為し得るよりは 敬虔な意志によって全能者に結合されるほうが一層力強いことを知っているのである。そこで 主イエス・キリスト御自身がこのような不思議な業をなしたまうのは それを驚異する人びとに一層偉大なものを教え そして時間的な奇蹟(アマテラス語理論体系*)によって心奪われた者 また不安な状態におかれている者を永遠的なもの 内的なものへ向き変えるためである。
そこで主は語りたまう 

労苦する者 重荷を負う者 我に来たれ 我汝らを休ません。わが軛を汝らの上に取れ。(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書11:28)

しかし 主は 四日もの間 死んでいた者をよみがえらせし我に学べ と言われず 

我に学べ。我は柔和にして心低き者なればなり。
(承前)

と言いたまうのである。それはこの上なく堅固な謙虚(低み*)は この上なく空しい高ぶり(高み*)よりも力あり安全であるから。それゆえ 主はつづいて 

されば汝らは魂の憩いを見出さん。
(承前)

と言いたまう。なぜなら 

愛は驕らず。(コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)13:4)
神は愛である。(ヨハネによる第一の手紙4:8 ヨハネの手紙1、2、3 (インタープリテイション・シリーズ)

そして外にある喧噪から静かなる歓喜へとよび戻されている 《信ずる人びとは愛によってかれと共に憩う》(知恵の書3:9)からである。視よ 《神は愛である》。もし私たちが神の御許にあることを欲するなら 自分たちのもとに居られるお方を問い求める私たちが どうして天の高み(アマテラス語理論による知の富者*)と地の低き(権謀術数による政治行為の愛*)へ走り行くであろうか。


誰も 私は何を愛するのか知らない と言ってはならない。兄弟(人*)を愛させよ。そうすればこの同じ愛をかれは愛するのである。というのは かれは愛する兄弟(知のおよび富の私有財産制によるやしろの共同自治への人間的な愛*)よりも かれにそのように愛させる愛のほうをよく知っているからである。視よ かれは兄弟(他者の存在*)よりもよく知られている神を持ち得る。つまり 神が明らかにより知られている( notior )というのは 神がより現在的である( paesentior )からである。また神がより知られているというのは 神がより内的である( interior )からであり さらに神がより知られているというのは神がより確実である( certior )からである。
神である愛をかき抱き 愛において神をかき抱け。すべての善き天使とすべての神の僕(しもべ)を聖性の紐帯によって一つになし 私たちとかれらを相互に結合し 私たちを神に服従せしめるのが実に愛そのものである。だから 私たちは高ぶりの膨張から癒されればいやされるほど 愛においてより満たされるのである。愛によって満たされる人は神によらずして 誰に満たされるであろうか。
アウグスティヌスアウグスティヌス三位一体論 8・7〔11〕−8・8〔12〕)


《現代教師聖職論》に驚きました。また 《現代の現実に絶望している しかし 希望を持っていないわけではない》におどろきました。
《たしかに自分の持っている律法には 知識と真理が具体的に示されています、それなのにあなたは 他人には教えながら 自分には教えないのですか》(ローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6))2:20−21)。《聖性の紐帯(霊的な共同主観)によって一つになさしめられること》を教えながら 自分には教えないのですか。《神にある愛をかき抱き 愛において神をかき懐か》ないのですか。
なぜならわれわれには 愚痴は必要ないからです。また 愚痴を打ち破る高ぶりの理論も必要ないからです。やしろ資本推進力が愛なのですから この《主において誇ら》なければならない。マルクスはこの資本を それとして科学的に明らかにしようとした。
かれが 《神から人間の中へ到来し 人間に近づく》のと別の方法で生きたとは思われない。したがってわれわれは 《かれにそのように愛させる愛のほうをよく知っている》。かくて 聖徒たちの共同主観 つまり 《移ろい行かないものの移り行く思惟が生じるのである》。これはわれわれが 前者つまりやしろ資本推進力なる愛を 分有して生きることであると察せられる。またしたがって この共同主観の過程と構造を 対象化して捉らえ したがって精神は滞留して やしろの中で 教育・学問は この滞留をとおしての自己の再形成の過程を その存在の前提としての構造つまり共同主観の構造を 明らかにして 進めなければならない。

だが非物体的本性をもって 場所にある物体が感覚に可視的であるように 精神の視野に叡智的なものが現前する。場所に置かれた感性的なものの叡智的・非物体的な根拠(《物質》といってもよい*)が場所的・空間的でなく留まるだけではなく また時間において移り行くものの運動の感性的なではなくたしかに叡智的な根拠も 時間の移り行きなく滞留する。
精神の眼差しによってこれらのものに到達するのは極く少数の人である。また なし得る限り 到達するとき 到達する人自身がそこに留まるのではなく その眼差しそのものはいわばそこで撃退されて はね返され そして移ろい行かないものの移り行く思惟が生じるのである。
しかも この移り行く思惟は 精神を教育する学問によって記憶に委託される。従って 移ろい行かざるを得ない思惟が再び還帰し得る或る場所が存在するのである。思惟が記憶に還帰せずして そこで先に記憶に委託したものを見出さないなら 無学な人のように すでに導かれたところに連れ戻され そして最初に見出したところ すなわち非物体的な真理においてそれを見出すであろう。それはそこから再び いわば書き写されたものとして記憶に固着される。例えば 四角形の物体の非物体的・不可変的な根拠が留まるように 人間の思惟は たとい場所的・空間的な表象なくして真理に到達し得たとしても そのように真理に留まるのではない。あるいは 或る美しい音楽的な音のリズムが 移り行く時間によって把握され ある隠れた深い沈黙において時間を離れて留まっているとき その歌が聞かれる間は少なくとも思惟(おも)われ得るのである。
しかも精神の視野が たとい移り行っても そこから捉えたものを いわば胃袋の中に呑み込むようにして 記憶の中に預け そして回想によって或る仕方で反芻し かくて学知したものを学問に引き渡し得る。もしも このことが全き忘却によって消失されたなら 再び学知の導きによって全く失ってしまったものに到達し このようにして それがあったままに見出されるのである。
アウグスティヌス三位一体論12・14)

このような存在(知恵)の前提としての 個体のおよび或る種の仕方でやしろの 滞留しかつ前進する過程的な構造――ごくあたりまえの――が まず 明らかにされる要がある。
そうすることによって 《聖(聖職なるあの仕事)》あるいは《主・神》さえも――それら言葉として―― 揚棄されて行くと考える。
《聖職者論》も《労働者論》も ともに《移ろい行かないものの移り行く思惟》であるのに むしろ――この思惟・教育・学問の前提があいまいにされていることによって―― 《移ろい行かないもの》そのものであると見なされてのように主張し合われる。したがって それらにかかわるところのそのような《学知の導き》の過程的な構造をよく知っている必要がある。その構造の前提としては つまりわれわれの存在そのことである。
精神の胃袋にしろ実際の胃袋にしろ それらのはたらきが再び還帰し得るはたらきのみなもとなる或る場所が存在するのであって それら両者の機能や力の大いさを競い合うことに さして意義はないのであり――あるとされると 聖職者論と労働者論とが競いあわれる―― 二つの胃袋の主体 つまりわたしが よく知られよく思惟(おも)われなければならない。学知の導きをこのような構造を前提にして築いていく必要がある。
この大前提のうえでは 移ろい行かないものにかんする認識を 物質ととらえて 一般にはこの行き方を 唯物史観と言ってもよいわけであるが これがすでにいくらか旧い表現であるとするなら 表現じょう やしろ資本推進力であるとか(もっともこの語はマルクスも用いている)また愛であるとかとするほうがよい。わたしは キリスト信仰によっておしえられたものであるゆえ キリスト史観とよぶのであるが もちろん一般性を持たせて インタスサノヲイスム〔史観〕というのである。(おわり)

  • 付論もしくは特にこの最後の断章については――はじめからこの遠藤周作論が 覚え書き程度のものであるのだけれど―― そのノート程度であるばかりではなく 議論が必ずしも噛み合っていないと言われるかも知れない。
  • これについては まず キリスト教といわれる宗教の教義には 興味もないのですが 遠藤らが提出しているそれらの内容と多少はかみ合わせる必要があると考えた結果のものでした。
  • また かれらカトリック信徒のあり方・生き方にも触れられていたので この最後の章の内容は わたしの受けとめているキリスト者の生活態度について少しでも議論を添えたいと思いました。