caguirofie

哲学いろいろ

#20

――遠藤周作論ノート――
もくじ→2005-11-03 - caguirofie051103

§33 繻子で織られた倫理の想像なるわたしが焼き尽くされて

わたしは このように批判する知識をいったいどこから得て来たのかと問われたことに対して それは 遠藤周作さんや その他 批判の対象としている・またはそれを援用している人びとの作品であると言い訳することは可能であるし この点は バツの悪さを与えてしまったことに対して そう言い訳をしなければならないことかも知れない。あるいはわたしは この言い訳を隠して用意していたのかも知れない。しかし 事は本質的に この弁解だけでは済まないのであって 人はさらに その知識じたいの源泉を訊いているのではない そのように批判する元の観点 いわばきみの知恵はどこから得て来たのか こう問い返して来ます。しかもわたしは 神秘的な表現でこれに返事をかえすことはゆるされない。それは ありうべき言い訳の隠匿であるから。
しかしわたしは この問いには すでに答えております。言外の言を読む その人を読むのだと。想像においてではなく 想像をとおして。わたしがわたしするときだと。そうしてまた 遠藤さんらの作品に引用された教えからでもあると。そのわたしの解釈をも示して来ました。また 前史のわたしは 焼き尽くされるのだと。《繻子の消し炭の中から 仕事がつづく》のだと。
こうしてわたしは 《大悪人》となったのですが その理由は 一言でいうなら 想像で織られた安全の道なる繻子 これのきらびやかさや哀しさまたそのメロディを人は見つめてはならないという一つの教訓にあるのです。人間的な繻子の倫理と心理の道 これは この世のものではないのではなかった。この安全の道に背いてはならないが――そのときには 罪を犯すなら 死ぬであろう(罰せられるであろう)と言われた―― この律法の道を人間の自己のちからによって成就することは出来ないというのは 遠藤さんも曽野さんも 十分に説得しようとしていることである。
律法の繻子は 原史の楽園を追われた人間が 共同自治のために織り上げた善悪の判断そのものである。これは 白いけれども この白によっては海を航くことは不可能であると言ったのは ほかならぬ遠藤さんその人であるのに かれは この繻子で 復活のキリスト・イエスの像を 仕立て直したのだと思われます。それは 美や善に関係しているけれども 復活そのものではない。復活は 人間がそこへ原史から入った前史を後史へ回転すると言われたのであるから これを読者が信じる前になぜ その像――本史の像――を ふたたび描こうとするのだろう。
新しい繻子の倫理も 前史の同じ繻子の美であり ならなぜ この繻子が焼き尽くされるという動態を見ないのであろう。《わたしに触れるな まだ天の国に上がっていないから》と言われるというのに。
本史の像を 繻子の倫理と心理(魂を含む)で想像することは わたしに触れることであり そのイメージはとうぜんのごとく 想像において それに甘えて行く言わば認識の目標をつくるのです。

  • 作者が甘えなくても 読者がそうしがちになる。読者は そうしなくとも そうする読者の想定じたいに作者は甘えている。

この目標 この認識が 作家や理論家によって明らかになるのなら そしてそれですべて事足りるのなら 人間は その生きる海がすでに試練でもなんでもなく とっくに本史に入っているであろう。このように言うことは 謎を深くすることであるだろうか。魂が存在を渇望する領域があるというのなら この渇きが癒されるであろうと言われるのだから どうしてあの この渇望の心理と倫理を 美しく彩って 魂を神とするのであろう。
試練――繻子が焼き尽くされること――を回避してでないなら なぜであろう。試練の悲惨に 勇敢にも 耐えているからでないなら なぜであろう。オーケストラが必要だが この海がオーケストラだが 

人間にはそれぞれにまったく違う資質を与えられ それがオーケストラの一つ一つの楽器のように 社会というオーケストラ(社会的諸関係の総和)を構成するのに必要なのである。ヴァイオリンは大切だが ヴァイオリンだけではオーケストラにならない。
曽野綾子:《私の中の聖書 (集英社文庫 9-F)》?? 〈12 神の教育基本法〉)

というのに なぜヴァイオリンが繻子の倫理を奏でるのか。オーケストラまた社会的諸関係の総和 つまり要するに矛盾構造の社会総体としての過程は これをこうだと捉えるだけで済むのに この鏡を どうして 想像倫理で色彩り 安全の道たる枠をはめてしまうのであろう。
言いかえると それは 啓蒙である。つまり まだ 律法を与えたモーセの前史の時代に住んでいる。解纜を言うなら 足かせがはずれるのを言うなら この律法の枠がはずされたことであるのに それによってオーケストラは海を渡れるし またすでに渡ってきたのであるのに なぜそのことの啓蒙が必要となるのであろう。
この繻子の新しい想像倫理は カトリック作家やマルクシストの学者が ためにする首かせではないのか。形態的な像の認識の目標をなぜ 再生産しようとするのか。想像知の個人的な増殖のためでないなら なぜであろう。
学問や芸術 この公共のため 広く読者のためにおこなわれる仕事が 私的な仕事に陥って前史へ逆戻りしている。いまだ前史にあって 私的な仕事に陥っている。
いつまで 前史 前史なのでしょう。いつまで オーケストラ オーケストラばかりなのでしょう。
どうして古いともづなを解かないのでしょう。足かせを首かせに代えて モーセに倣うのでしょう。原史・前史・後史と 歴史が一貫してつながったのなら 前史の前期のモーセは この足かせがはずされる日を 楽しみにしていたはずです。かれの律法のともづなは やがてその前史が後史へ回転する日まで その日に本史が出現するまでの ヴァイオリンだったのではないでしょうか。かれは この回転のあと 自由なオーケストラが奏でられるのを見て 待ち望んでいたはずです。どうして第二・第三のモーセとなるのでしょう。
そうすることしか出来ないというのなら 回転の推進力たるイエス・キリストは 大うそつきです。その大うそつきを どうして 人びとは 美化するのでしょう。また 逆に マルクスその人を その推進力たる人に仕上げて ふたたびのモーセ(たとえば ヘーゲル)の止揚を 啓蒙しようとするのでしょう。
しかも 人間イエス・キリストは 肉における小さき存在であった。それを わざわざさらに なぜ 無力なイエスと言って像を練り上げなければならないのでしょう。
きみは イエスを信じるのか。歴史を信じるのか。原史からの歴史の展開を捉えたのか。律法の前史の 愛の後史への回転を信じたのか。いまのキャピタリスムの並びにソシアリスムの海を きみは何によって 航こうとするのか。
オーケストラの舞台が用意されているのに なぜ そこへ上がろうとしないのか。
舞台を想像してからでないと ちゅうちょすると言うのだろうか。この舞台を わざわざ 美化し この美に殉教しなければ 人は人間しないというのであろうか。わたしは どうして わたししないで 想像において想像するのか。
わたしが 表現じょう キリストすることによって わたしするとき 言いかえると やはり表現じょう 太陽によってつまり木(十字架)の船に乗って この海をわたるとき わたしはすでに オーケストラの一員である。原史からの歴史の共同相続人であるから。しかるのちに 各自の職業があるのです。
はじめの分業=協業が オーケストラを形成するのでは じつは ないのです。そうでなければ すでにこの分業=協業 つまり世界史的に有機的なキャピタリスムの現代社会は とっくにれっきとしたコミュニスムであり 神の国であります。
各自の分業する職業(そういった立ち場)から それぞれが 同伴者イエスあるいはコミュニスム社会の像をイメージして この想像規範によって協業するなら オーケストラが奏でられる あるいは少なくともその演奏が可能となることを目標として歩んでいる ということにはならないのです。
モーセは この足かせがはずれることを 待ち望んでいた。想像におけるともづなが解かれることによって 霊的な・想像をとおしての船のともづな(友綱)が築かれることを楽しみにしていた。そしてすでに 復活に際して 歓んだのです。この謎を見ないことのほうが もっと不思議な謎にみちている。
もし ウソと思うなら 自分の想像物を疑ってみるがいい。そしてそのときには もはやキリスト・イエスを 神・永遠・真理・復活とよぶことは やめにしたほうがよい。カトリック作家もそうであり マルクシストは真理などとよぶことを やめにしたほうがいい。
マルクシストは わたしに触れるなといわれているのに 歴史法則などと呼んで これを想像において想像することは やめにしたほうがいい。もし 知られ得べきことが知られ得ていくなら 愛し得べきものを愛するように つまりすでに愛して来たことを 自覚するがいい。もし ウソと思うなら 人間しないがいい。
この最終章は このようにわたしも同じように 想像において想像したのです。
このノートが なにかの一助になるなら 幸いです。
(つづく→2005-11-23 - caguirofie051123)