caguirofie

哲学いろいろ

#31

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Cicero Denouncing Catiline, Engraved by B. Barloccini, 1849

第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム

第十八章 しかし インタスサノヲイスムがすべてである

――共同主観の歴史におけるアウグスティヌスの位置――


《前史から本史へ》ではなく 《本史へのアマアガリ後の自己に立って 前史を復活させつつ 後史としてすすむ》。友人・家族との共同主観形成 つまり上の方法が 社会思想(文学)たるインタスサノヲイスムとしてだけではなく ヤシロロジ(社会科学)視点をも 含まねばならぬ。
これが 前章までに得られた方法の内容(形式)です。この内容が具体的に内容とすることがらは 共同主観形成であるから むろん前史的な共同主観の揚棄でありその過程としての動態であり――そしてこの前史の止揚は 本史によって後史から 後ろ向きに対処している であり―― より具体的にこの《アウフヘーベン》は アマテラス予備軍による《やしろのふところ》の否定 を否定することである。しかもこの否定(つまり 否定の否定)は 当然のごとく 肯定であり 《本史》の肯定であり(直観的に与えられるべきかつ理性的に知解してすすむべき主観の《アマアガリ》が それであり) このわれわれの自己還帰が アマテラス予備軍のあの《否定》という欠陥を 取り除くのではなく 癒しかれらの自己の回復を俟ちつつ すすめられるのである。ここには 一点の曇りもない。また 妥協はありうべくもない。
人間キリスト・イエスは 《悪魔から誘惑を受ける》という記事が 聖書に書いてある(マタイ4:1−11;マルコ1:12−13;ルカ4:1−13)。
かれは やしろの資本(愛)過程のふところに立って この悪魔との闘いの推進力たる源を 告知しようとした。悪魔の誘惑したがって悪魔との闘いの形態は 三つである。

(1)

人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。
申命記8:3)

と聖書に書いてある。
(マタイ4:4)

(2)

お前の神である主を試してはならない。
申命記6:16)

とも書いてある。
(マタイ4:7)

(3)

しりぞけ サタン。

お前の神である主を礼拝し ただ主に仕えよ。
申命記6:13)

と書いてあるのだ。
(マタイ4:10)

これらは アマテラス予備軍のわなをしりぞけることを 神学的に語ったことがらである。言いかえると アマテラス予備軍の親分である《空中の権能》(エペソ書2:2)たる悪魔との闘いとして 語られた。誘惑の第一では 悪魔が《イエスに 〈お前が《神の子》なら そこらの石がパンになるように命令したらどうだ〉と言った》(マタイ4:3)。資本の生産・再生産に 魔術を使えと誘惑したのである。
協働からの生産物を うまく要領よく人間の知恵をはたらかせて自分の所有とせよと言ったのである。イエスは これに対して 《人間はパンで生きるのではない》ではなく 《パンだけで生きるのではない》と答えたのである。すなわち 人間が生きるのは 愛によってではないなら そしてこの愛が 資本形成・協働行為と無関係な幻想であるとしたなら われわれは何と言うだろうか。
悪魔は 《お前が〈神の子〉なら 〔神殿の屋根から〕飛び降りたらどうだ。〈神が天使たちに命じると お前の足が石に打ち当たることのないように 天使たちは手でお前を支える>(詩編91:11−12)と書いてあるのだ》(マタイ4:6)と第二の誘惑を差し出した。夕鶴つうが 自分の羽根から取って――夫である与ひょうの愛をつなぎとめておくために――布を織り ついに――或る種の美談を感じさせつつ――アマガケリしていった。つまり文字通り《飛び降りた》のである。
《天使たちが 手で支えた》と共同幻想されたのである。つまり まつりあげられたのでもある。神は或る種の仕方で或る人びとには 自殺を命じることもあるらしい(神の国について1・21)が 《われわれが 不死を得るために あるいは不幸を避けたり取り除いたりするために 自殺することを命じたり許可したりする神の言葉(やしろの愛)は どこにも見出されない》(神の国について1・20)。つうは 神の恩恵を盾に取って 神を試したとさえ言わなければならないかも知れない。与ひょうを つまりは回りまわってわれわれを 試したのである。与ひょうの友だちである《惣ど》や《運ず》の――むろんかれらは 悪に引き入れようとする側の者であるが かれらの――《おかね》に支配された生活 これに 無関心であってはならないのである。つうは かれらの言葉を解さないという設定なのである。
無関心の法則が 《自殺》である。《神を試す》こと・つまりわれわれ人間に挑戦することである。一物一価の無差別の法則が 存在するとするなら われわれはこれを 前史・必然の王国として むしろ用いることができる。これを止揚しつつ用いることができる。これを止揚しつつわれわれ自身を アマアガリにおいて神が善用したまうであろう。
一商品一価格という無差別の法則は いわゆる《市場(市場経済)》と解されているが これが いわゆる人間の自然史過程として出来上がることに 心を留める必要はない。言いかえると 精神主義的に――理性によって―― この無関心の法則に 立つ べきなのではない。この自然史過程の一法則を盾に取ることは 無関心という精神主義(アマテラシスム)なる自殺であって 《自殺は精神の強さを照明するものではない》(神の国について1・22)と考えられる。パンで生きるのではないと言ってのように 自殺するつうは パンだけで生きる運ずや惣どと 同じ邪欲=必然の王国の住人であると人は 知らなければならない。
木下順二じしんは その作品《夕鶴》にかんして 

ことばの点でいえば つうは私の造語でいうと 《純粋日本語》をしゃべり 他の男たちは私の造語でいうと 《普遍的地域語》をしゃべる。
( 夕鶴・彦市ばなし 他二篇―木下順二戯曲選〈2〉 (岩波文庫) 〈あとがき〉)

と言っている。わたしたちの考えでは 《純粋日本語》などというものは存在せず もしくは逆に《人間の真実(愚か でもよい)》というほどの それは 存在であり――しかしわたしたちは この真実たとえば天使たちに仕えるのではなく 神すなわち真理に仕えるのであり 天使とは むろん 神のみ使いである―― だれも それぞれ言うなれば《普遍的地域語(A者性的S語)》の世界にある。これが 前史そのままの姿であるか――そしてこのとき この前史を厭うあまり 天使のようにアマガケリしていこうとする男女の一群がある―― もしくは たしかに後史からそれを前史なのだと確認して生きているか どちらかである。
後者のばあいは もしなんなら 人間の真実という意味での純粋日本語 つまりより正確に言うなら 日本語とか何々語とかの或る国語にまだ属さない人間の言葉 この言葉を / または この言葉で 語っている。もちろん つうが そのように しゃべっていたというのなら わたしたちは 後史に立っているから いまの見方を言いかえると 本史に仕えて このことば(純粋日本語)を 愛し語ろうとするのであると言う。つうは この純粋日本語とその精神および美に仕えていたと考えられる。(それは まちがっているという意味である)。
前者を――すなわちこの《つう》を アマガケリゆくまでに そのような美に仕えることを――《演出》したと仮りにするなら その作品《夕鶴》の罪は 重い。この個人攻撃が わたしたちの愛なのだと考える。これに無関心でいることは 共同自殺または自殺幇助の罪をまぬかれないゆえ。

さらに――第三の誘惑として―― 悪魔はイエスを非常に高い山へ連れて行き 世界中の国々とその繁栄ぶりを見せて

もし お前がひれ伏してわたしを拝むなら これをみんなお前にやろう。

と言った。
(マタイ8:9)

《ひれ伏して空中の権能を拝んだ》のが アマテラス予備軍である。なぜなら A圏のアマテラス語理論の蔽いで(価値自由的な学問と知識で)――権力からは離れていると 純粋の見せかけによって つまり S圏のうたをうたっているのだよと見せかけ―― 《世界中の国々の繁栄をみんな自分のものとしよう》と考えたからである。観念の世界においてである。百科事典のような知識の集大成(価値自由的に知ればよいというイデオロギ)とコンピューターの導入(コンピューターのように理解力をはたらかせる学者の結集)が それである。
われわれはこれらを 排斥するのではないが 前史として用いなければならず その方法は 資本やしろ連関において 《〈お前の神である主を礼拝し ただ主に仕えよ〉と書いてあるのだ》と言ってイエスを 内なる人の秘蹟および外なる人の模範として 聞くことにある。第一の死を引き受け この譲歩の死が死なしめられ 内へ向き変えられるとき キリスト・イエスなる《神の背面》(出エジプト記33:22)を見 この本史から後史に立たしめられ 前史へ向き直らせられることは そのこと自体が アマアガリであると言ってのように それは――自分の力でキリストのように上昇し 実際にはアマガケリすることであってはならず―― 現実の資本連関の中に立たしめられるのである。
ただこれだけだと言ってもよい。けれども これは 一人ぼっちでではなく 共同主観者となってのように 愛の火に燃え立たしめられることである。けれどもこれは アマテラス予備軍のわなをではなく 形態的なアマテラス圏(権力)を 敵として そのA圏打倒へと燃え立たしめられることではない。S圏のやしろ資本形成に燃え立たしめられるのである。ウェーバーの用語を用いるなら いまだ 魔術の園の中で 資本形成していたからである。
これらの行為過程において A圏のアマクダリを 歴史的に成就することでなければいけない。ウェーバーは この偽りのアマアガリに立つA圏のしんきろう魔術からの解放という新しいことばの魔術を かぶせようとしたようである。もし《経済》と《エートス》とを分裂させたとするなら。
A圏とかS圏とか あるいはアマアガリとかアマクダリとか これらの語は 神的権威の著わされた聖書にあることばではなく 単に日本人がその歴史と生活において用いることばであり またそれらを概念として用いたのは ほかならぬこのわたしです。けれども 聖書をとおして《神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる》人びとは――すなわちこの小説は これらの人びとつまりすでに信じる人びとに向けられている―― これらの理論的なことばが意味表示する〔可変的だが その〕真実について どんな危険もなく同意するなら わたしとともに歩み進むでしょう。また この〔信仰による〕歩みを 理性的に知解してそのようにも(理論的にも) 自分のもとに所有している者とされるために このキリスト史観の問い求めが わたしたちに課せられた任務であることを わたしは知っています。その余のことは わたしちが《夕となり また朝となった》新しい《一日》を開始することにおける《前史》なのであると 人びとは容易に合意するであろう。


以上述べたことが――これについてはもっと委曲をつくし もっと適切に答えることができるとしても―― 主キリストの贖われた家族にして 王キリストの寄留しつつある国が その敵対者に与える答えである。
この国は 敵対者たちの中にさえ 将来その民となる者たちが隠れていることを心にとめるべきである。またかれらと対立するに至るまではその敵意に耐えることを無意味なことだと考えてはならない。・・・
しかしながら きわめて明らかな反抗者たちの中にも たとえかれら自身は知らないとしても わたしたちの友となるように予定された者たちが隠れているとすれば ましていま述べたような者たちが(すなわち 《かれらは神のサクラメント秘蹟)を受けているのに 神に敵対する者たちと共につぶやくことをためらわない》と表現される者たちが) 矯正されることに絶望してはならない。たしかに 最後の審判(自分の一生涯の終わりと考えて差し支えない――引用者註)が分けるまでは これら二つの国は この世の中にあっては互いに絡み合い混合しているのである。・・・
神の国について 1・35〈神の民と地の国の民とは混合する〉)

つづいて 《わたしが語らなければならないと思うことは これら二つの国の開始と展開と定められた終末についてである》(同上)とアウグスティヌスは述べ これに着手した。マルクスが これに連らなった。
わたしは ただこれらの系譜のりんかくを明らかにすることで満足である。むろん だから 《世界の解釈》とともに 《世界の変革》が必要であり これにわたしたちが〔再度〕着手すると言ったとしても わたしたちは不遜ではないであろう。
(つづく→2007-01-24 - caguirofie070124)