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哲学いろいろ

#18

――遠藤周作論ノート――
もくじ→2005-11-03 - caguirofie051103

§31 《白い人・黄色い人 (講談社文芸文庫)

抽象的に人間はというのではなく ふたたび 日本人なら日本人というテーマで論じることが必要です。
遠藤周作は これを初期の作品で 《白い人・黄色い人および黒い人》といったかたちの区分による観点から論じました。
小説

白い人・黄色い人 (講談社文芸文庫)

白い人・黄色い人 (講談社文芸文庫)

の《黄色い人》の最初と最後とを抜き書きすると まず最初の序にあたる部分の全部で これらの分類をおこない かつ 《黄色い人》を具体的に日本人に当て その日本人について 次のように捉えたのです。それは きわめて自虐的ですが まずこの論に付き合わなければなりません。

神さまは宇宙にひとりでいられるのがとても淋しくなられたので人間を創ろうとお考えになりました。そこでパン粉を自分のお姿にかたどってこねられ竈でやかれました。
あまり待ちどおしいので 五分もたたぬうちに竈をおあけになりました。もちろんできあがったのは まだ生やけの真白な人間です。《仕方がない。わしはこれを白人とよぶことにしよう》と神さまはつぶやかれました。
こんどは失敗にこりて うんと時間をかけることになさいました。すこしウトウトとされているうち こげくさい臭いがします。あわてて蓋をおあけになると 真黒にやけすぎた人間ができているではありませんか。《しまった。でも これは黒人とすることにしよう》。
最後に神さまはいい加減なところで竈をひらかれました。黄いろくやけた人間が作られていました。《なにごとも中庸がよろしい》。神さまはうなずかれました。《これを黄色人とよぼう》。(童話より)
我汝の業を知れり。即ち汝は冷ややかなるにも非ず 熱きにも非ざるなり。寧ろ冷ややかに或は熱くあらばや。然れども汝は冷ややかにも熱くも非ずして温きがゆえに 我は汝を口より吐き出さんとす。(黙示録)
遠藤周作:黄色い人 冒頭)

《冷ややかでもなく熱くもなく》《なにごとも中庸がよろしい》と言うことによって 復活の《口から吐き出さ》れてしまうと言う黄色い人 ここでは日本人 これの内実は 小説の結語の部分に出ています。

ちびた蝋燭の下でかいたこの手紙ももう筆をおきましょう。もう真夜中です。Xマスの夜だということを忘れていました。あなたには神がこの闇に光をあたえた夜なのでしょう。だが黄いろいぼく等には闇も光も その区別はないのです。デュランさんはそれを死ぬ前に知ったのでした。爆撃(B29の)の直前 あの老人がリューマチの足をひきずりながら歩いていった後姿がまだ眼にみえます。爆撃が彼を殺したのではない。日記をぼくに托した以上老人が自殺したような気がしてならぬのです。あの人がそのため貴方たちの神から 今 裁きをうけているか それとも 裁きも罰もない黄いろい世界 疲れて目をつむるように ただうつろな眠りに溶けこんだのか しりません。だが 同じ白い人でもデュランさんのことならまだ ぼく等には理解できるような気がします。しかし 貴方のように純白な世界ほどぼく等 黄いろい者たちから隔たったものはない。それがこの手紙をしたためさせた 理由になるかもしれません。
(《黄色い人》 Ⅴ)

これは したがって 前章にわれわれが論じた《解纜》の問題となります。この問いに遠藤さんは――物語に即するかぎりで―― 一見解を示して 次のように言ったことになるでしょう。
あの仕事は――純白とか黄色いとか黒いとか 人間にかんする色は 知りませんが―― 強制ですから 黄色い中庸の土壌では そのままでは おこなわれがたい。しかしながら その《教え》を 黄色い人も《真白い》と認識している。しかるに この純白の教えをもっぱらおこなう人――つまり強制する人――は すべからく もし この専従的な仕事の成就をねがうなら 殉教しなければ(自殺であろうが 迫害によるのであろうが) 言いかえると その船のともづなを解かなければ このくにでは 無理であって それ以外のやり方では まったく根付かず 迎え入れられないと。
こうなると 専従者としての仕事(司祭とか)によりは 一般的な仕事つまりわれわれの生活ということに 重心がかけられてくる。議論が 発展する。つまり さらになお この重心は 同じく 《ぼくたち日本人》というわたしにかけられてくる。そういうことになるのです。
遠藤さんが この問題を放棄しているのではないのです。カトリック作家なのですから。また カトリック作家であると名乗っている一日本人市民なのですから。かれは 復活を信じている。復活の像を問い求めている。もっと言うならば 救いを信じており 人びとも自分も救われることを 欲し ねがっている。もしそうでなければ カトリック作家などと自称する意味は これっぽっちもありません。また 復活について キリスト・イエスについて 何と言おうと その議論は 何の値打ちもありません。《闇も光も 区別していない》人に属しています。
また 想像倫理として同伴者イエスという像を説くことによって お化けをおんぶさせ わたしたちの仕事の妨害をしているだけではないのです。この遠藤さんの仕事を 復活に関係づけなければならない。またこれを わたしたちの仕事のなかに関係づけて 捉えなければならない。
はじめに述べたように(§1) この仕事の一環としての所謂遠藤文学の批判は すでに 密教的には済んでいる。なぜなら 日本人の基調は かれを キリストのしもべであると思ってはいない。かつ これを わたしたちの仕事の力量に応じて 隠れたところで点検し 明るみに出すことが必要である。なぜなら 知られ得べきものでないなら 知られ得ないのですから。

  • ですから どこまでが必要で どこからが必要でないかなどと あまり神経質にならないでよいでしょう。遠藤さんは ストーリの中でとは言え ぼくたちの祖先は 闇も光も 区別しない人種であるとまで のたもうたのです。

そして このとき同時に 愛し得べきものは愛されていたと知ることは それが 密教的に隠れた所でおこなわれていたのだと知ることにつながります。
ここでは あたかも あの仕事がつづく いま仕事に着手した ということは じつは 前まえから この仕事をおこなってきたのだと わたしがわたしするということに等しいと言ってもよい。

  • なんじ自らを知れと言われたそのとき じつは きみは それまで自分を愛して来なかったわけではないことを知っている。しかし 知らなかったもの つまり 知り得べきものは 知り得べきように 知りえたのである。

すでに この補論では 上に引用しそこに問題点を見たテーマなどについては 詳しい議論をおこないませんが いま述べた点 すなわち 仕事のあれこれといったテーマ別の観点と議論に重心を置くのではなく 仕事がつづくとはどういうことかの問題 これを明らかにして 把捉する必要がある。もう一度 総論というわけですが 焦点をここに移すことは可能。
このつてで――このつてで―― 自分の生涯の過去と現在とのつながり(密教的な部分が明るみに出されることによって捉えられるその一貫性)は じつに 歴史の全般に及ぶのです。たとえば すでに触れたように 原史・前史・後史と区分した見方が それです。
エデンの園で狩猟・採集の生活をしていたアダムとエワ かれらは じつにわたし〔たち〕なのです。(前世の正体だとかいう意味ではありません。)原史の楽園を追われた――つまり想像倫理による善悪の判断を知るようになって 楽園の至福を追われた――のも このわたしです。これによって 前史が始まり――つまり 人類の歴史(人間の時間・また時間的存在)がその意味で 始まり―― 想像倫理(律法)によって律法そのものの生活をおこなう人 これが 白い人であります。黒い人は これとは全く無縁であるかどうか知りませんが エデンの楽園の生活(未開社会と言われる)が色濃く残ったばあいにあてはまるのかも知れません。黄色い人とは この想像倫理を持たないのではなく 想像倫理を――或る種 自己鎖国的に――想像において想像する人びとです。

  • 源氏物語には 倫理もへちまもないのですが 人びとは想像をたくましくして心理小説の高い水準を獲得した そうして同時に ブッディスムならブッディスムという想像倫理にかかわっている。

白い人――はじめは ユダヤ人 またのちに 人種的にそうであることをその特徴として ヨーロッパ人――は もちろん教え つまりユダヤ教キリスト教によって 自分以外の人々を 異邦人・異教徒と呼んだわけです。もちろん キリスト・イエスに 異邦人問題は 人間的に存在しなかったし 復活において 存在しなかった。パウロは 異邦人のための宣教師となったということです。
ここで 前史――言わば白い人にとっては律法の時代――は 人間的に後史 復活において本史へ 回転したのだとおもいます。逆に言って 前史と原史とが つながった。人間的な論法で 本史が明らかに指摘されるようになったのは まだだとも言えるし マルクスによってとも言いうる つまり マルクスに従えば 近代市民としてのわたしが キャピタリストたちの社会を進展させて行くとき これにつれてだというわけです。復活にとっては 千年が一日だというわけですから。
この前史の時代は つまり キリスト・イエスによってすでに後史に入っているところの前史の時代(キリスト紀元後の時間)は 教えの先住者を生んで 仕事が 聖職者として始められ――ユダヤ人から見た異邦人の全世界の中でそのように始められ―― やがてわたしたち日本人にとっては その宣教師たちの強制を受けてというように 東洋と西洋との出会い つまり 黄色い人と白い人との邂逅とあいなったわけです。
遠藤さんの言うには 白い人は 黄色い土地で そのままでは 受け容れられない つまり 純白の人は 殉教しなければ あるいは自殺しなければ だめだと考えられているということだそうです。はたしてそうかが 問われています。
(つづく→2005-11-21 - caguirofie051121)