caguirofie

哲学いろいろ

#6

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第一章f 神の国について

 いまスサノヲらに初めて生起した神の国によって 過去へさかのぼり その国の歴史が 人間の歴史として つらなった。つらなって見られるようになった。しかも 神の国は そうして永遠であるけれども 神は永遠に王であるのではない。王というのは その臣民であるようになってその臣民に対して関係的に言われる。市民にとって神が王であるのは 永遠にそうなのではない。けれども 神は愛ではないか。

 人間が愛すること――この地上の国において経験的に 宗教と宗教による生活とを愛し 宗教による呪術の園なる生活以外に 何もこの世に新しきものはないと考える場合 それゆえ この知識のほかの事柄に対してはすべてを疑うというある種の愛をもって 上の生活を統治する愛(意志・経営) さらにそして 他方では これらの呪術的な(非思考の)生活とその善悪の基準である宗教の王となっての疑いによる政治とを 嫌うという愛―― これら人間が経験的におこなう愛 この普通の愛をとおして 新しい愛が いわば王として立ち上がる。自分たちは この謎の愛によって生まれたとスサノヲたちは見出した。この神の国は その市民となることによって この世の経験的な愛である血筋や肉の意志や人間の意志による誕生 そのような生と死との世界を克服することが出来ると語っている。


 ところで このスサノヲたちは この神に向かって 神よ我が愛よ あなたは王として我があわれみでありますとは言わなかった。かれらは 神は愛なりと見出した。*1


 アマテラスやかのじょの周囲の人たちのおかげで かれらとの関係(社会的諸関係の総和)をとおして スサノヲは 自分が あたらしく生まれたと見出したのだから。言いかえると 父であるイザナキの命令であっても ウナハラの統治=宗教的な司祭となることは みづからの良心によってこれを拒否し また その拒否に対するアマテラスの疑い――なぜなら 呪術の世界・必然の王国による生活を拒否することは この世にとって《新しい》ものであり アマテラスの知識の中にはこれがなく 許されざるものであった――を 疑い返し疑いつらぬき そうして 何ものかのちから――神なる愛――によって アマテラスらを愛した(憎まなかった・耐えた・信じた)ことにより 神が王であることが成り立った。神の国はここにあって ここに始まった。・・・

 だから 神は永遠に王であるのではなく したがって スサノヲは 神に向かって わが愛よ あなたは我があわれみですとは言わなかった。こう言ったところで――そう言うことじたいは ありえたのだが―― 何も解決しなかったであろう。神よ わが愛よと言うことは わが愛はあなたから来るゆえということを意味している。誰もがみな〔経験的に〕愛する人であるのだから こう言ったところで 事は解決しなかった。そうではなく スサノヲは 神は愛なりと見出し 自己が自己となった。人を人として存在(生存)させている力である愛と 人を神の国の子らとして存在させる力としての愛とは ちがうと考えられた。けれども 後者の愛が 神の国の歴史を意味しており したがって 日本人の・人間の 歴史にかかわっていよう。後者が栄光であるとすれば 前者も栄光である。生命は光りである。前者――いわば前史――も これをとおして 後者――ゆえに後史――の栄光を視ることが出来た。それは 前史の愛の中にも はたらいていた。そして 後史の栄光において 自己が自己である 人間が人間である 人間がわたしする わたしが人間する もはやわたしでないわたしが人間する とスサノヲは思った。

 神の国は この世にあって 地上の国と混同しているから 後史の人びとも いわば前史の母斑を身につけている。社会(やしろ)の全体にあって 前史の世界の愛を 自分のちからで振り切ったのではない。前史と後史との全体の世界に つまり ここに 自分たちが 寄留していると。

   *

(つづく→2007-04-22 - caguirofie070422)

*1:《神よわが愛ようんぬん》という議論は アウグスティヌス:《アウグスティヌス三位一体論》・・・(検索中)・・・に見出される。その議論を解釈した。