caguirofie

哲学いろいろ

#15

――遠藤周作論ノート――
もくじ→2005-11-03 - caguirofie051103

補論 曽野綾子論を交えて

§27 あくまでも復活の問題

わたしたちは 前章で いささか政治的な発言をしてまいりました。社会的な問題に触れないと言いつつ。また 文学を政治の問題にすり変えているのではないかとの批判を呼び起こすかも知れない書き方で。
キリスト・イエスが 政治学を超えてのように 心理学・倫理学は超えていた。ゆえに文学の問題に深くかかわるようにして 政治にもかかわっていないのではない といって応酬するだけでは 不十分となりました。
この問題を 遠藤さんは イエスの当時の情況に即して 例の死海文書が発見されたクムラン教団エッセネ派の動き(政治的な活動がからんでいる)に関連させて 次のように論じている。
例によって 引用また引用の手で。――

私は基督の生涯のうち私生活を棄てて公生活に入る直前の《ユダヤの荒野での修業と悪魔の誘惑》を非常に重大なものと考える一人だが 不幸にして共観福音書ではこの重大な場面を曖昧にしか書いていない。

  • 何をもって 曖昧とするかは問題だが。――引用者註。

しかし曖昧に書いていることは同時に触れたくない謎がそこにひそんでいるとも考えられる。そしてこの謎を解明する新しい光が死海文書から もたらされるのである。この死海文書の解釈には色々な学者の意見が対立しているが しかし基督の教えや原始基督教の組織のなかにクムラン教団の影響と痕跡とを否定する者はもはや今日 いない。当時のエルサレムユダヤ教主力は聖書にしばしば出てくるパリサイ派 サドカイ派に握られ その勢力争いから脱落したエッセネ派は 万物荒涼たるこの死海のほとりに逃れてクムランの修道院をつくり やがて来るべき救い主――メシアが自分たちとローマ帝国の植民地になったユダヤを救い出すことを待望していたのだが

  • つまり この情況にかんする限り 大いに政治的であった。

彼等の考えや組織はたしかに原始基督教と大きな相似があるのである。その洗礼や晩餐についての考え方 暦の使い方は原始基督教に受け継がれているし こうした独自の考え方は当時 ユダヤ教の主流派だったパリサイ派 サドカイ派にはない。
遠藤周作現代日本文学に対する不満 《吾が顔を見る能はじ》所収)

このテーマについて これ以上に明らかな何らかの結論は この小論では――題名の示すごとく 〈現代日本文学に対する不満〉の論へ転調して行っているから――しめされていない。ただ このように主張することは むしろ 政治とのかかわり――ただし政治がこの世の経験的なものに属すことは もはや繰り返さない――が原始キリスト教の活動にもあったのではないか あるいは あったのにかれらはあたかもこれを隠そうとしたのではないかと言いたげである。そのように いくらか 受け取られかねない。だから われわれが 文学論のなかで 政治の議論をやったことに対して 遠藤さんらは その意味で 批判することができる。
わたしの考えでは キリスト・イエスを含めてその活動に 政治的な部分もあった そして仮りに後に弟子たちがこの部分をもはや隠そうとしたと 考えたところで一向にかまわないという立ち場である。その前提でも議論をつづけることが可能である。
要するに イエス・キリストは 復活――しかも肉の復活――を人びとに告知した。

  • ただし 復活の身体は 今のままの肉体とは違うと考えられる。朽ちるべき肉体から朽ちざる肉体へ。ただし このテーマが 経験合理性での議論になじまないのは 言うまでもない。

社会的な政治的な諸制度やもろもろの情況が この信仰――なんなら思想――を人びとが持つことを阻むようなことがあったとしたなら これに対して目をつむっていたとは思えない。《なにもしない勇気》が 一つの活動の基調であったとしても 目をつむったわけではあるまい。それは 人間凝視の仕事であったのだから。
そこで重要なことは 当時にかんする限り またはユダヤ人(ユダヤ教)にかんする限り 異邦人の問題である。イエス・キリストは ユダヤ人のみ・またはおもにかれら のあいだで 活動したが 復活を告知するという愛は ユダヤ人だけに限られたというわけではなかった。ところで もし これを 政治的なメシアとなって 言いかえると ユダヤ人に対してのみ かつ政治的にのみ 達成しようとしたなら 出来なくはなかったであろう。(いまその実現の当否を問わず そう言ってもよいであろう。)ところが そうであろうとなかろうと 政治的な実現は かれの《仕事》にとって その一部である。もしくは その《仕事》の 政治的な土壌を整備するということに限定される。
しかも はじめの仮定を継ぐとすると かれは このような分野にも進出していったか もしくは ユダヤ教(人)という特殊な社会の性格からして 否が応でも この政治の分野とからんでいたと考えなければならない。
ここで重要なことは こういう架空の想像である。すなわち かれが 政治的なメシアとなって ユダヤ人たちを その国の内でおよび外から 解放したとしても 復活――肉の復活――が告知されえたかどうかである。また ユダヤ人だけではなく その他の異邦人に対して 告知されえたかどうかなのである。わたしの証明は このように 帰謬法という単なる論理的なそれにすぎないのであるが もしこれを超えようとおもえば さらに次のごとく。
イエス・キリストは 政治的なメシアとなることも目指したといま考えよう。そうすると かれは これが その道の半ばで挫折したのである。なぜなら 罪はローマ総督によって何も認められなかったが 捕らえられて たしかに十字架にかかったからである。
とうぜんのごとく この仮定に立つならば この挫折を人間イエス・キリストは 欲していなかった。その目標の実現を欲したのだから。なおかつ 復活のイエス・キリストは これを欲した。復活の告知が ユダヤ人に対してだけではなく 全世界におこなわれたから。
これが 結論です。
したがって 政治主義者なら政治主義者のエッセネ派と深くかかわっていようといまいと どちらでもかまわないのです。そのかかわっていたという仮定を取り払うなら 上のことが独自の動きとして より鮮明になるというにすぎないことにほかなりません。
どちらにしても キリスト・イエスの復活以後は パウロにしてもペテロにしても弟子たちは使徒(復活の国の外交官)となって 宣教という愚かな手段をとおして この復活の福音をもたらして行った。
遠藤文学に対するわたしの不満は ここにあるのですが 遠藤さんの現代日本文学に対する不満は 次の点にあるということです。わたしたちは かれの《カトリック作家の問題》の立論(§2)とちがうかれを見出します。

〔このように〕聖書から文学的な何ものかを吹きこまれた人間には 人間と人間との関係

  • これも 厳密には どうでもよい事柄に属す。と同時に 神と人間との関係(その愛)が 人と人との関係と同じだと想定するぶんには およそ絶対的な事柄に属すとも捉えられる。

だけを描いた日本の現代小説を読む時 ある不満を感じるのも仕方がない。人間と社会との関係

  • これについては 上の註に従う。

を劇と思う作品にぶつかった時も心がみたされない。人間の心理をまるでラッキョウを与えられた猿のように一枚 一枚 はいで それを精密に正確に我々に見せてくれる心理小説にも飽きたらない。私は自分の作品は別として

  • どうして?

現代の日本文学にみたされぬ気持をもっている最大の理由は 人間の内部的真実を心理もしくは意識の描写と分析でしか考えていないという点にある。いかに作中人物の心理が的確に細かく描写されていたとしても いかに人間の深層意識が分析されていたとしても それらの作品が共観福音書という小説を読んだ時ほど 人間について感動させないのは何故かと私はしばしば自分に問う時がある。人間の内部とは 心理や意識だけではなく この二つの奥に存在の渇望の領域・・・つまり基督教徒が魂の部分とよんでいるものであり 私はそれをどうしても否定することはできない。

  • 心理小説が 魂――それは 復活に比べれば まだどうでよい事柄に属すわけであるが――を示そうとしていないわけではなく また 誰もこの魂を否定していないと思われるのだが。

遠藤周作現代日本文学に対する私の不満)

おそらく《存在の渇望〔の領域〕》と《存在(わたし)が存在である動態》とを混同しているのでしょう。前者は 想像において魂の部分に肉迫しているのだが 後者は 想像をとおして 身体・魂・精神(つまり広義の精神は 記憶と知解と意志)ともども わたしがわたしである わたしがわたししていることでなければならないことである。前者は わたしがわたしすることを渇望している そしてそれは 原史(エデン)の次の前史(キャピタリスム)に属している。ちょうどマルクスらがそこから出発した《義人同盟》のごとく。

§28 《おんぶお化け》

わたしは この堅苦しい話をつづけようとおもう。やはりまず引用から開始する。復活を想像において抱くということ――魂の領域と言っていても それがやはり心理・想像倫理の域を出ないで むしろその領域に律法的な安全の道を求めてうづくまるのだということ――を次の文章は 示している。これは キリスト教であるかも知れないが わたしたちの道ではないということ。――

何年か前 作家の遠藤周作氏と三浦朱門が――と曽野綾子さんは書いています―― 熱海にある ある会社の寮に泊った時 そこで幽霊を見た ということになっている。

  • 以下ながく・つまり全文を引用しますが お怒りにならないでください。むろん読者の方々に述べているのですが。

そのことについては 遠藤氏が 書いておられるから 私は今はここでは詳しくふれない。幽霊を見たという証拠は 当事者にも出せないだろう。二人が 前夜食べたものに軽くあたって 同時に お腹を悪くしていたので 要するに悪い夢を見たのだということもできる。ただ私は 一晩泊りで帰るはずの二人が 二晩どこかで泊って帰ってきた時 偶然 渋谷の駅で落ち合ったのである。二人の言を信じるかどうかは別としても 私は顔を見るなり 二人がひどくやつれたように感じていた。ことに三浦朱門は無精髭を生やし よれよれのレインコートを着て(今ならさだめしコロンボ風というところかも知れないが)じつに情けない顔をしていた。
 ――どうしたの?
と私は尋ねた。決して夫が一晩余計に外泊したことを詰問したのではない。ただ 何事かあったのではないか ということが 何となく感じられたのである。
 ――実は熱海でお化けを見たんだ。
と三浦は言った。
 ――まさか・・・
以下は省略する。つまり二人は 最初の晩にさんざん恐い目にあったので もしかしたら《オンブお化け》になるのではないかと思い もう一晩 試しに別の宿屋に泊ってみた と言うのであった。
 ――それで 結果は?
お化けは 二人にオンブして来ることはなくて 初めに出たところに 《お留まり》になってくれたらしい。この時のお化けは遠藤さんには音として聞こえ 三浦には後姿として見えた。つまり遠藤さんには《ここで死んだ》という意味のことを言っている声として聞えたといわれ 三浦には鼠色のセルのような和服を着た人物の後向きになった姿として見えた。フランスではお化けは皆声として出現するので フランス文学の教養のある遠藤さんには お化けも心得て フランス風に出たのだろう というもっぱらの評判であった。
お化けの話を長々と書いたのは 他でもない。慎みに欠けるかも知れないが 私の中にも 神というものを ごくわかりやすく 人に説明する時 どことなくお化けの話をしているような思いがあるからである。神は我々に囁くか それとも無言で立っているか あるいは ふり切れるのか それとも オンブお化けのように どこまでも人間についてくるものなのか。
長い間 私にとって神は 何となく オンブお化けに似ているように感じられていた。お化けであり しかもオンブしているので 私は どうしても その支配の範囲からのがれられないのである。私ばかりでなく そのオンブお化けの存在に気づいた人は 誰でも自分の外側から見つめているもう一つの眼を感じるようになる。
こうなると 内面戦争が起こって来る。他人をだますのは ある意味で簡単かも知れないが いつもオンブお化けのように私の後にいる神をちょろまかすのは大仕事で 不可能に近い。
そこで私流の言い方をすれば 信仰を持つ人間こそ 大悪人になり得るのである。何しろ神をだまくらかしてコトを行なうのだから大仕掛けになって来る。罪を本当に犯すことができるのは キリスト者だけだ と言うと クリスチャンは悪いことをしないものだ と思っている世間の人は皆 びっくりしたような表情をする。
さて そういうわけで 私の神は長い間オンブお化けだった。もう少し厳密に言うとそれは 私の右肩の後あたりに いつも じっと立っていて 私がする一切のことを見ていた。私が蒲団をかぶって人にわからないように考えようとしても 右肩の後あたりの神の眼は レントゲンのように 私の心の中を見通していた。もちろん多くの場合 私はこのオンブお化的神を忘れていられたので いわば神と一切の関係のないことを 平気でたくさんやれたのである。
ところが先日 私は あるすばらしく魅力的な修道女と話をする機会があった。
 ――福祉なんかもね その根本の精神は 簡単だと思うのよ。お助けしたいと思う人の中に神を見ていれば 自然に 自分がその方に何をしてさし上げたらいいのかわかりますから。
と その方は言われた。
 ――そうでしょうね。そうすれば 神はお喜びになるでしょうね。
私はそう言った。私は例の右肩の後あたりの神が 私がそういう善きことをするのを見たら 無言で眼瞼をパチパチさせるだろう と想像していた。私の神は 私が気に入ったことをしても 気に入らないことをしても いつもまず眼をパチパチさせる癖があった。
しかし その時 私はふと気になり始めた。それは 私が生まれて初めて感じた疑問だった。
 ――シスターに お尋ねしますが シスターにとって 神はどのへんにいらっしゃいますか?――と私は尋ねた。――私は右肩の後あたりと思い 主人はヅガイ骨の中 と言ったことがあるんでございますが。
本当に下らない質問だ と思ったが 私はひるまなかった。右胸のあたり という人もいるし 頭の真上のはるか彼方 という人もいるからである。
 ――相手の方の中にでございますよ。
シスターは言われた。
 ――じゃ 老人ホームの中でも ひときわ憎らしい根性のひね曲ったお爺さんとか 嫁いびりをするお姑さんの中に 神がいるとおっしゃるわけですか。
 ――はい だって 《まことに私は言う。あなたたちが私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは つまり私にしてくれたことである》(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書25:40)とおっしゃっていますでしょう。
右肩にいた神は 急に私の目の前に廻って来た。
曽野綾子:右肩の後の神 《私の中の聖書 (集英社文庫 9-F)》)

読者はここで 曽野さんが《すばらしく魅力的な修道女》に ちょっぴり甘えて しかし 抗議していることに気づかれるでしょう。昔から言われているように 言外の言を読む あるいは 人の心を推し測るというのは ここでは そういうことになるでしょう。と言うと わたしのこの執拗な批判は おんぶお化けみたいなものですが その言外の言を読んでもらわなければ困ります。
もし曽野さんがここで想像において復活を抱く人であるということに問題がなければ われわれの焦点は このシスターは 修道女というかたちのあの仕事の専従者であることに移行しています。ということは 一般の生活者として仕事がどうつづいているか これが おんぶお化けのように問われている そういう情況にあります。
(つづく→2005-11-18 - caguirofie051118)