caguirofie

哲学いろいろ

#5

――遠藤周作論ノート――
もくじ→2005-11-03 - caguirofie051103
§8 《わたしが棄てた女 (講談社文庫)

わたしは 自分に与えられた神の恵みによって 熟練した建築家のように土台を据えました。そして 他の人がその上に家を建てています。ただ おのおの どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストというすでに据えられている土台を無視して だれもほかの土台を据えることは出来ません。この土台の上に だれかが 金 銀 宝石 木 革 わらで家を建てる場合 おのおのの仕事は明るみに出されます。《あのさばきの日》にそれは明らかにされるのです。なぜなら《あのさばきの日》が火とともに現われ その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた家が燃えずに残れば その人は報いを受けますが 燃え尽きてしまえば 損害を受けます。ただ その人は 火の中をくぐり抜けて来た者のように すくわれるでしょう。
パウロコリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 3:10−15)

このような言葉によってわたしは これまで遠藤の議論やランボーの詩を検討してまいりました。
ただわたしは ウソの全き欠如を指し示すというよりも ウソを許容するこの世の人間の矛盾を それが構造的なものであるとして 示そうと努めました。言いかえると このたとえば使徒パウロの言葉に服従するとかいうことではなくて ウソを語りうる人間の言葉で ウソまたは真実のさまざまについて 理性的に争われるべきだと言ってきたつもりです。
この仕事( Le Devoir )はつづき 新しい学問が打ち立てられてゆくのではないかと。
繰り返し確認すると 復活はこの世に属していない そしてもしキリスト・イエスが 虚偽のまったき欠如なる真実のひととして 歴史したと考えられるときには この過去の歴史が真実であるなら この復活は将来すべきものとして臨むのが正しい このようなこの世の歴史課程がつづくであろうと推論したわけです。
ただしここで この同じ使徒が わたしたちの矛盾をさらに濃くするように 《わたしたちは信仰によって義とされています。(虚偽の欠如の状態へと移し変えられています。もしくは 虚偽の欠如の状態をあたかも見えるようにされています。)》(パウロローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6))5:1)と言ったことに注意してみなければなりません。わたしたちは これまで見てきたように この世では義とされないと聞き なおかつ 信仰によって義とされていると聞かねばならないかも知れないからです。キリスト教の教義のことはわかりませんが 遠藤の議論を検討し その言う人間凝視の義務をなお放擲しないとすれば これに省察を加えてみる必要がある。
けれども わたしの考えでは このことは 復活を将来すべきものとしての臨むのが正しいという視点 これにかかわるのではないか。そのゆえに この章でつづいて見ておきたいと思うことです。
おそらく ウソまたは罪を免れないが この罪が覆われる このことが起こる ということではないかと考えたのです。また すべての犯罪は罪であるが すべての罪が犯罪なのではない こういう視点に導かれると思いました。

  • ちなみに 申し遅れましたが わたしたちの書き物の上での導き手は わたしにとってアウグスティヌスです。いちいちとしては出典も示さずに かれの思索の成果を述べていることがあったりします。全体にわたっての断り書きです。
  • つまり かれの思想だったと知らずに そのような内容のことを述べてしまっているということがあります。ただ もっとも そういう場合は その内容や意味あいが微妙にちがってきてはいるようです。そんな事情の点をひとこと おことわりしておきたいと思います。

ところがここでも わたしたちは遠藤さんに異を唱えます。かれの議論によると 同伴者イエスの発見にせよかれの復活を見祀ったと言っておきながら 《永遠の同伴者》であることによって まるでわたしたちは 一生を罪人として送らねばならないかのように説いていると考えられるからです。
この自由な一議論に対して 自由に論議することがつづくと思いました。永続革命ではありませんが この点は つづいて同時に思惟しておかねばならない。わたしたちは ある暗い密林をとおっていま道を切り拓いているとも考えられました。
このような快活な恐れがわれわれの仕事としてつづくのではないか。われわれは まったく聖書の講義をするというわけではなく むしろ遠藤の作品の一読者として もう少しそれらを吟味して 自由な論議を発展させていきたい。憶測でものを言うとすると このようにこれからは 作者と読者との 作品の著述と読了のあとの あの矛盾構造の展開 これがより一層 現実として生起して来るものと考えます。えらそうに言うならばそうなると思います。
このつてで なお偉そうに言うとするなら われわれは この世で罪をまぬかれない けれどももしあの義の太陽がすでに昇り その翼には癒す力が備えられていると聞くとすると この罪がかれによっておおわれる こう聞くことになると思います。
わたしはいま 遠藤の小説《わたしが棄てた女 (講談社文庫)》のことを思っています。主人公の《ぼく》とかれが棄てた女《森田ミツ》との関係 これについて議論を頭に描いています。

あの日に 棄てた あの女
今ごろ 何処で 生きてるか
今ごろ なにを しているか
知ったことではないけれど
(〈ぼくの手記(三)〉)

わたしが棄てた女 (講談社文庫)

わたしが棄てた女 (講談社文庫)

この歌が――これは歌であり 主人公は誰かがこれをうたっていたのを思い出すという設定であるこの歌が―― 議論の焦点であるのではないか。
例によってストーリの紹介をみな端折って話をすすめるのですが おそらく《女(または男)を棄てる》ことは ある種の仕方で 罪であると考えられます。この罪を犯した男(ないし女)が どう生きてゆくか このことにかかわるというように思われます。

  • 罪というのは たとえば一般に 人を道具扱いしたという非難があります。あるいは相手のある話で いちど相手の合意をとりつけた自分の一定の意志決定について その判断を 相手の了解を得ずに 勝手に破棄するという自己矛盾という罪。

わたしたちの結論はすでに提示したわけですが その内容は 争われるべきである。逆の順序では 遠藤のこの作品を読むとき もしそのわれわれの観想が異を唱えているとするなら その内容を明らかにする必要がある。
わたしは 結論として この歌に表されたような関係 つまり二人にとって互いが そのような内面的な同伴者であるという関係――そしてその場合には 一方が他方に対して罪を犯したかどうかをもはや問題にしなくてもよいような一般的な心理・倫理の世界の出来事として ということは 実際には 二人の当事者のあいだで罪が犯されたことを問題にしなくとも 一般に人は罪人であったのだから やはり ウソをつくことが出来る人間の凝視の問題ということになる そのような矛盾構造の展開において 《同伴者》を内に・また互いに持つということ―― これは どうでもよいことなのだと考えるという寸法です。
いささか不道徳のように聞こえるかも知れませんが そもそも道徳・倫理とは むしろそのようであるということを考えます。むしろこの同伴者関係が 倫理的なと称することが出来るわたしたちのこの世の暗い密林なのであると。なぜなら それらの出来事はすべて あの心理とその想像によっているのだから。なぜなら 復活はこの世界に属していないのであるから。
それでも 信仰によって義とされる われわれが復活に牽き行かれることが現実であると 他方でわたしたちは聞いたという構図であったと思います。
なぜなら 互いが互いにとって同伴者であるのでさえなく そこでは実は 過去に犯した罪が人びとに同伴しているにすぎないと言われるべきだからです。もし人間の凝視(あるいは尊敬)によって 《今ごろ何処で生きてるか / 今ごろなにをしているか》と その人間に思いをはせるとすると それは 実に 人間にとって 快活な恐れでしかないようになるはずだからです。なぜなら 復活がかれ(かのじょ)に同伴しているのですから。われわれは この作品の遠藤の議論には――それがたとい反面教師であるとしても―― 非常な虚偽を見ます。この矛盾は 虚偽です。
キョギを内的に棄てるのではなく それと隠微にかつ美しやかにも同伴している。のを見ないであろうか。むしろ 罪人であったことを自覚するなら たしかに《知ったことではある》のです。しかもこの罪がもはや おおわれていると聞かなければならないのではないか。キリスト教の教義はわかりませんが ここにわたしは《カトリック作家の問題》の問題を見ます。
もちろんこの自由討議は 遠藤さんあるいはカトリック作家の人たちが さらに論議を展開して 争われるべきです。わたしが《キリスト教の教義はわかりませんが》と言ったのは その教義いやむしろ神の言葉に人は想像において逃れるべきではない 言いかえると 人間の有限な真実の言葉で論議すべきだと主張したかったからにほかなりません。このことを捕捉しておきたいと思います。

 《吉岡さん。口じゃ不良みたいな物の言いかたをするけど》とマリ子はある雨の日 喫茶店でしみじみ言ったのだった。《本当は純粋なのね》。
 《そうかね》。
 《あたし そんなん好きよ。だから吉岡さんのそばに夜遅くまでいても あたし安心できるの》。
 《俺だって男だよ。しかし恋愛中には越えるべからざるものを越えてはならぬ とマルクスも言っている。そのマルクスの言葉こそがわが信念だな》。
 《えらいわ。吉岡さん。あなたはいつもマルクスの言葉のいいとこだけを取るのねえ》。
 《そうかな。それほどでもねえや。しかしマルクスはよく読んだねえ・・・》
 しかしぼくは マリ子にも言わぬ秘密があった。ぼくはマリ子との逢引きをすませたあと 二度か三度 赤線に女を買いに行ったことがある。マリ子から感じた肉体の衝動をどこかで消化する必要があったからだ。マリ子によってみたせぬものを街の女で解消しようという考えだった。
恋人をもちながら その恋人の肉体にふれようとせず 欲望のはけ口を商売の女に見出すという心理をぼくは別に矛盾したものと思ってもいなかった。マリ子にたいする裏切りとも考えなかった。もちろんマリ子にはそのことを話さなかったが それは彼女のような娘には若い男性の生理が理解できず きたないものと誤解されるのを恐れたからである。いや ぼくの心情は女を二つにわけて Aの女にでききないことを Bの女に平気でできたのだ。そしてAの女には三浦マリ子が入っていた。Bの女には街の商売女や森田ミツが入っていたのである。
わたしが棄てた女 (講談社文庫) 〈ぼくの手記(五)〉)

§9 《愛のおのづから起こるまでは》

前章の最後に引用した文章にかんしては それがむろん遠藤の主張ではない。そして物語の中だけではなく実際にもそういう議論が聞かれるとしたら いくらか論議を呼ぶものと思われる。
わたしの感想としては 次の二・三のことがらである。
一つに。女を《Aの女とBの女》に あるいはウソを《男のウソと女のウソ》に分ける区別は どうでもよい事柄に属すとおもったこと。逆に言いかえると 《若い男性の生理が理解できず きたないものと誤解しうることを恐れなければならない》ような《Aの女》をむしろ作るということ これが どうでもよい事柄に属していると。だから《誤解しないように 理解させよ》ということには結びつかないのであって 女性がそれを理解できない場合 何か不都合があるのかとも考えられる。
この点は これだけを言っておくだけになる。問題は 作者・遠藤が このような男の主人公について その後 この森田ミツつまりかれが棄てた女が かれの内なる同伴者になっていったと主張しているように考えられる点にある。

  • 実際には 《もし この修道女(森田ミツの知り合い)が信じている 神というものが本当にあるならば 神はそうした痕跡(男にミツが同伴者となったということ)を通して ぼくらに話しかけるのか》(〈ぼくの手記(七)〉)というかたちなのであるが 神を語らないとすれば 上のように捉えて差し支えないとわたしたちには考えられる。

つまり このような同伴者のイメージは 実際には 人間としての同伴者ではなく――あるいは もしもとしても神が語りかける声としてのような同伴者でもなく―― 過去の罪の同伴でしかないとまずは思われる。

  • 微妙であるが 論旨の破綻を恐れずにこう発議してみる。過去の罪が同伴しているという認識をとおして どうでもよいのではないもの(神)の力のはたらきを観想することがありうる。

作者は あなたがたは罪人であると悟れと言っているようである。虚構を超えて作者はそう主張したいかのようであり カトリック作家の問題にかかわっているとあるいは考えているかも知れない。もっと卑近なこととしては 実際 上に見た《Aの女》たちには このような罪がまるでなく またこの罪をかのじょたちには持たせないし 見せないと言おうとしているかのようである。持たない・作らない・持ち込ませないの非罪三原則を カトリック作家がつくりこれを守ろうとしているかのごとくに。
これは事実 人間としての同伴者ではなく――罪人であるがその罪がおおわれて 互いに快活な恐れをもって あの仕事がつづく人びとの 同伴者ではなく―― 罪の同伴を自覚することによって この罪の非在・中立の人を自分の手元にかこうべきだとあたかも言おうとしているように見える。
感想の二つ目に。物語で述べられたことが実際だという限りで 《マルクスの言葉こそがわが信念だな》ということと《わが信念はマルクスの言ったことと同じだ》ということとは 違う。後者は 想像をとおして マルクスを人として言わばなんなら同伴者としている。前者は 想像において そうしている。もしくは もう少し精確には マルクスの想像した思惟が かれ(吉岡さん)の想像力の鏡となり またその意味でむしろかれ自身の限界となっている。そしてこのことを 吉岡さん自身は 罪をおかさないためにそう考えそう信じているという恰好である。
けれども 《わが信念はマルクスの言うところと同じである》というときには わたしはマルクスと同じように 自分がおかすかも知れない罪に対してまた全体として現在および将来の自己の生きる過程にあって 快活な恐れを持っていると言っているのだ。言いかえると 鏡をとおして見ている。言いかえると わたしは この吉岡さんと違って かれ以上に罪をおかすかも知れないが――そのことはわからないが―― その基本は 《Aの女とBの女と》というふうに 罪の一例としてのその対象を分けないことを意味する。
言いかえると 《マリ子から感じた肉体の衝動をどこかで消化する必要があった》というとき 消化する・しないをいま別として わたしの言いたいのは 《マリ子はこの感性を――吉岡の・あるいはかのじょ自身の感性の動きを――感じてはいなかったのであろうか》 この問いを発することなのだと思われる。
言いかえると 吉岡はマリ子に対しても 人間としての同伴者関係にあるべきなのであって 実際そうなのであって(つまり この感情をすでに持ったとするなら それによっておかすかも知れない罪の恐れをともに持つことが出来るのであって) マリ子だけは罪をおかさない《Aの女》であると考える・またそう作る根拠は どこにあるのか。なければ かれは実際 自分およびマリ子の人間を見つめたはずである。吉岡は マルクスの言葉を想像において鏡とし――もしくは 二人の関係のあいだにその鏡を据えて 人間の凝視を中断した形で怠って―― むしろこれを限界としている。だから むしろマルクスの言葉そのものがかれの神となっている。かんたんな神として 自分が利用する道具となっている。

  • この場合 いくつかいろんな神がいて そのうちのひとつとして マルクスの言葉があるという意味である。

わたしは物語の中の人物に対して批判しているのではなく 吉岡にとってのマルクスの言葉というものを 遠藤その人にとっての《同伴者イエス》なる言葉というものに置き換えてみるなら 遠藤の人間凝視の義務はまだ始まっていないと見ざるをえない。
そのばあい遠藤は 《同伴者イエス》なる想像の成果をもって これを神また鏡として 罪をおかさないように心がけている そういう心理的・倫理的なだから経験的な世界における出来事を扱っている。
それでは わたしたちは 《越えるべからざるものを越えてしまえ》と何か不道徳なことを言ったことになるでしょうか。そうではなく いま仮りに《同伴者イエス》を思惟することがただしいことだとしたなら 遠藤は・そして《Aの仮りに階級に属するとされ また自らもそう思う女たち》は この同伴者イエスによって 越えるべからざるものを想定しこれを越えないように努める。けれどもわたしたちは 同伴者イエスによって 越えるべからざるものを越える罪への快活な恐れを見いだしている。これは AとかBとかの区別によらずに 相手がだれであろうと この矛盾あるいはなんなら不純を知って その罪のおおわれて生きられることを問い求めている。(むろん おかさないで済むように。)
言いかえると この世でも義とされることを そしてだからウソをつきうるけれども虚偽のないことを問い求めている。マルクスもそういうことを言ったのだとすると マルクスとともに同じように 少なくともこの問い求めの場は見いだしている。
越えるべからざるものを越えてはならぬという言葉を 想像において 守るというのではなく――そうすると 想像しない場合には・その相手には 守らず また じっさいには厚かましくも 守る必要はないと考えることになる―― 越えるべからざるものを越えてしまう罪への快活な恐れを 同伴者イエスによって 与えられている。つまり 太陽によってこの海を航くというわけです。
物体的な太陽が出ていないときには 月光のドミナによって 海の中ふかくもぐるというわけには行かないでしょう。それがゆるされるのは その罪が覆われてあるときであり 海の波が激しいときではなくすでに海の波が自己の肉体をさらって行く時 つまりどっちにしても太陽によってこの海を航く時にほかならないと思われます。
なお ここでは一つの教訓が必要であるかとも思います。わたしの考えでは やはり聖書から引くことがゆるされるならば 次の旧約聖書《雅歌》の一節です。

愛のおのづから起こるときまでは
ことさらに呼び起こすことも
さますこともしないように。
(《雅歌(歌のなかの歌)》2:7伝道の書・雅歌 (デイリー・スタディー・バイブル)

もしこの教訓を鏡とするなら 論理的にはその限りでそれを自己の限界としてもいることになるかも知れませんが そのことについては この教訓をはじめに掲げるというよりも 上に考察してきた議論のまとめとしてというほどのことだと弁解して逃がれなければならないかも知れません。しかしわたしの考えでは この旧約聖書の一教訓は 罪への快活な恐れを持つと言うのと同じことだと理解しているというわけです。

  • 教訓という言葉はあまり適切ではないかも知れないのだけれど。

(つづく→2005-11-08 - caguirofie051108