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哲学いろいろ

#4

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Madaurus, or Madaura
A titular see of Numidia. It was an old Numidian town which, having once belonged to the Kingdom of Syphax, was annexed to that of Massinissa at the close of the second Punic War. It became a Roman colony about the end of the first century and was famous for its schools. It was the native town of Apuleius, author of "The Golden Ass", and of the grammarians Nonius and Maximus. St. Augustine studied there;
(Madaura: rovine chiesa paleocristiana )

第一部 インタスサノヲイスム(連帯)

第二章b 回心つまりアマアガリするスサノヲたちにとって課題は 《アマテラス予備軍(=マニ教徒たち)からの社会(やしろ)の解放》である

――マニ教徒たちの罠が 砕かれ棄てられるということ――

夕となり 夜へは渡されずに 次の朝を迎える。また 夜の闇 闇の夜がなければ 《神のあわれみの佑助》は必要ではなかったと言いうるほどに 人間の《一日》は 夜から始められる。どういうことか。
ところが 光と闇 善と悪 精神(A)と身体(S)との二元論に立つばあいには――わたしたちも それら二元 いや 二者が あることを否定し得ないけれども その二者が いづれも根元であると見なして しかも その二元を原理とする主義に立つ場合には―― 《一日》が そのように二元的に《昼と夜》とから成り立つと考えることから始められ これら二元のうちのそれぞれ前者の優位・主導的な位置を見て掲げることより 時間が生起し 世界が動くということになる。
たしかに人間にとって 《A者性とS者性》とは 分離して連関しているが 前者の優位論に立ち その論を張る自己じしんの権能によって 自治(生産を含む)するとき 後者の肉と物への欲望から自由であろうとして A者性によるS者性への支配つまり支配の欲望 また A者(公民)としての自己の S者(市民)に対する優位性と支配欲の熱望にかられることになる。かくて 性としては A者を自認する男の かれがS者と見なす女に対する関係のうえで 《A(主導支配)‐Sの連関制》が(つまり 男尊女卑が) 人間の知恵の名のもとに律法(掟 また ならわし)としてのごとく また やしろの形態としては かれらがS者と見なす人びととその生活するS圏への 主導形態としての《アマテラス‐スサノヲ》連関体制が 同じく律法としてのごとく 生起した。
むろん A者を自認する女の かのじょがS者と見なす男へのそのような支配連関(つまり 女尊男卑)が または 自分たちこそがA者だと自認するS者市民(ことに 《労働者》)たちの A者・A圏への あるいは 《S圏‐A圏連関形態なるヤシロ全体》への 独裁的な支配体制が――それぞれこれらが 人間の知恵によるものとして考え出され―― 実行にも移されうるようになり 実際に移され得た。
しかし もしこのような二元論に立たず すなわち 神(自己)でないものを神(自己)とするのではなく 昼から夕へ そして夜へは渡されず 次の朝へ牽き行かれる人びとは これらの《マニ教徒たちのわなが砕かれ棄てられて ついにキュリアコンまたはエクレシアなるヤシロのふところに立ち帰る》と宣言することになる。
《わたしは神に対して生きるために 律法(昼)に対しては律法によって死んだのです》(ガラテア人への手紙 2:19)とパウロは 言った。神は――となおも神の語を用いるとすれば―― われわれをここに復活させたまうために 律法によって自治していたわたしたちを 死なせたまうと言われる。マルクスは このことを 《自己還帰》と言った。また 時間的・経験的には 《私有財産(アマテラス語律法による S者的=私的な所有制)の積極的な止揚》であると。(経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2))むろん キリスト史観とて この復活=回心=アマアガリがかいま見られたなら すべては終われリとするわけではなく 経験的・時間的な行為過程つまり ヤシロにおける生としては 次のようにこれを捉えていく。

わたしたちは 律法が霊的なもの(身体と魂との本質=存在としてのもの)であるということを知っています。しかし わたしは生まれながらの本性の弱さをまとった者であり 罪(A者支配自治の二重性・二元論性)に売り渡されています。わたしは 自分の行なっていることがわかりません。自分がしたいと思うことは実行せず かえって憎んでいることを行なうからです。もし したいと思わないことを行なっているとすれば 律法を善いものとして認めていることになります。そして そういうことを行なっているのは もはやわたしではなく わたしの中に住んでいる罪(現代社会では 労働の二重性)なのです。
わたしは 自分の内 つまり わたしの生まれながらの本性には善が住んでいないことを知っています。善いことをしようという意志はありますが それを実行することができないからです。わたしはしたいと思う善いことは行なわず したいと思わない悪いことを行なっているのです。もし わたしがしたいと思わないことを行なっているとすれば それを行なっているのは もはやわたしではなく わたしの中に住んでいる罪なのです。
それで 善いことをしようと思う自分には いつも悪がつきまとっているという事実に気づきます。内なる人間としては神の律法を喜んでいますが わたしの五体にはもう一つの法則があって(――たしかに 《昼とそして夜》とがあって――) 心の法則と戦い わたしを 五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間でしょう。死に定められたこの体から だれがわたしをすくってくれるでしょうか。・・・
ローマ人への手紙〈1〉 (コンパクト聖書注解) 7:14−24)

したがって ここで言いたいことは 回心後に すでにすべて義(自由)とされるのではなく そうではないからこそ 経験的な世界では たとえば《私有財産の積極的な止揚》の行為へとおもむくということのように思われる。その逆の順序ではないはずだ。言いかえると 逆の順序に立ったばあい つまり 私有財産の積極的な止揚ののち――社会階級闘争ののち―― 罪の法則の支配する必然の王国から自由の王国へ移るというばあい それは そのように《科学的》に主張されてくる根拠は 次の点にある。
たとえば上の使徒パウロの言葉が その文字じたいが神とされてのように 観念的に いわゆる宗教の神と化してしまうというそのような《人間的な律法を超えようとする別種の律法主義》に対して 批判するところに いわゆるマルクシスムの ヤシロ的な実践一本を主張する根拠がある。キリスト教が 公認され国教ともされ 支配的になると アマテラス予備軍があらたに起こって 二元論でない宗教とされたその善と それ以外のものの悪という新たな二元論に立ってのように 別種の律法主義が 現われた。これに対する批判として 科学的な階級闘争一本の史観が 優勢となった。
それは 科学的であり また 科学(ヤシロロジ)だけでしかない。批判じたいに意義が あったその意味で 科学的であった。
だから マルクスの――マルクス本人の――《政治経済学〔批判〕》が 上に見たようなキリスト史観(信仰の問題)と無縁であるとは 考えない。この点は 追って考察していくことにして 問題は 《〔神のあわれみ(わたしの神 きみの神 マルクスの神 のあわれみ)――神はあわれむことを欲したまう者をあわれみ かたくなにすることを欲したまう者をかたくなにしたまう(ローマ書9:18)――の佑助により〕 このアマテラス予備軍らのわなが砕かれ棄てられる》ことにある。誰もがみな 《したいと思う善いことは行なわず したいと思わない悪いことを行なっている》のならば みな このアマテラス予備軍のわなに陥っていたのであり その《罠が砕かれ棄てられる》ということは わたしたち〔旧い人として〕がそれぞれ 死なしめられるのであろう。みな ともに あの人間キリスト・イエスの同じように 十字架の上に登らせられ 《わが神 わが神 なにゆえわれを捨てたまいしや》(詩編22:1 マルコ15:34)と言うということを 意味するように思われる。マルクスも 復活するために 死なしめられた。これを ここから 経験科学的に 批判として理論として かれは語った。
この回心(自己還帰) 死と復活〔の約束〕なるアマアガリを通過せしめられて アウグスティヌスは 《今やっと少なくともあの当時のわたしのみじめさをじっくりと眺め嘆くことができるようになりました》(二つの魂)と言っている。
この告白を マルクスは嫌った。告白として語ることを嫌った。また かれの個人的なくせとして 嫌った。現代人あるいは日本人は 一般に また このような告白の表現形式には なじまないようである。あるいは ちょうど回心がはじめから存在し生起していたように このアマアガリの原点をもはや明示的に発言することなく ヤシロ的行為への発言に出発する人はいる。しかしこの場合も 《異言》(コリント前書14:1−25)としては 当然のごとく 自己のアマアガリにかんして触れているのではある。
マルクスの《科学》が その社会に対する政策的な議論を除いて――なぜならたとえば《コミュニスト党宣言》に発表された諸政策は 正しくないというよりは 少なくとも現象的には ほぼすべて実現されてきている―― すべて正しいとしても その理論じたいが 神のことばであるのではない。また マルクス自身が 神であるのではない。そして それはあたりまえの如く 宗教としてのキリスト教があらたな律法主義に陥ったように マルクシスムが あらたなアマテラス予備軍を得て 別種の律法主義に陥らなかったとは 言えない。しかし このように言うことは マルクシスムのマルクシスムそのものとしての復活を用意するためではなく キリスト史観(アマアガリ)に立ったマルクスの理論の復活を それらが正しいとする限りで 言うことになるかも知れない。
ただ わたしたちは たしかに《宗教の神は死んだ》のであるから つまり言いかえると 神と言わずしても現代人は 近代市民の継承・発展としての現代市民は たしかにあの《回心の告白》を通過している。両世界大戦に際して 《A‐S連関体制》なる国家の律法的な発動による戦争行為をとおして 死を引き受けた・死を死なしめられた・その《告白》は おのおの自己の内に持つというほどに 神は 観念的な宗教としてではなく 動態的な(アマアガリする)信仰として 生きていると言っているのであるから この《神》という語 あるいはキリスト史観という語を ことさらわれわれは用いない。けれども 逆に言うと マルクスは そのことがキリスト宗教の優勢であったヨーロッパ社会の中でやむを得なかったとしても もう少しはっきりと 自己のキリスト史観について述べているべきであった。したがって マルクシスムに立った・A‐S連関体制としてのソシアリスム(その国家)は 総じてアジア等の諸社会に起こった。これを別としても そうでなかったから つまり キリスト史観についてマルクスは明確に述べていなかったから また かれ自身が神格化されるという別種のマニケイスムのわなが敷かれることとなった。
ここでは したがって 第一章の命題から引き出されるべき課題は 一つに 《アマテラス予備軍の社会的な解放》であり これに立ち向かう〔・もはや必ずしも必要でない限りキリスト史観の語を用いないとすれば〕アマアガリするS者市民 これを つまり われわれ自身を インタスサノヲイストと呼ぶことにし そこから始めることのように思う。
(つづく→2006-12-28 - caguirofie061228)