caguirofie

哲学いろいろ

#7

――遠藤周作論ノート――
もくじ→2005-11-03 - caguirofie051103

§12 《私のイエス―日本人のための聖書入門 (ノン・ポシェット)

善意の人びとも 牧さんやあるいはこのわたしを《倨傲な性格》のひとであると言うかも知れない。
そこで――そのことを もっとも 否定しようというのではありませんが―― あえて醜い泥仕合をわたしは 遠藤さんと闘ってみたいと思います。優雅さを失おうとは思わずに。
ただちに わたしの方から攻撃を開始します。

それゆえ――と遠藤さんは書いています―― カトリック者の本来の姿勢は 東洋的な神々の世界のもつ あの優しい受身の世界ではなく 戦闘的な 能動的なものです。彼が闘い終って その霊魂をかえす時にも 神の審判が待っています。永遠の生命か 永遠の地獄かという 審判が待っています。
カトリック文学とは こうした人間の戦闘や 歓喜や苦悩を描くものです。しかもカトリック文学は 文学である以上 その重心を人間におくのであって 決して天使や神におくのではない。・・・
遠藤周作:神々と神と 1947《吾が顔を見る能はじ》所収)

私が聖書を最初に読んだ時――と同じ遠藤さんは書いています―― やはりいちばん当惑したのは・・・罪の罰とか あるいは 悪人が罰せられるとかいう そういう厳しい 苛酷な神のイメージということでした。そういう厳しい 苛酷な神のイメージに慣れていない日本人にとっては そういうキリスト教の持つ神の厳しいイメージというのは やはり距離感を抱かざるをえないわけです。
そこで私は 聖書の中に本当にそういうキリスト教の苛酷なイメージがあるのかと 新約聖書を読み返してみました。その結果 ほかの人はどうか知りませんが 私は キリストが言っている神のイメージは そういうような苛酷な 厳しい神のイメージよりも やさしい神のイメージが強いことを発見しました。これは私にとって ひじょうに大きな救いでした。苛酷な厳しい神のイメージというのは 実は イエス以前のユダヤ教の中にあって その厳しいイメージをひっくり返そうとしたのが新約聖書だった という気さえしたのです。
・・・いわゆる古いキリスト教のイエスのイメージは まるで罰したり裁いたりする響きがあります。少なくとも そういう調子があります。しかし 私の考えでは それはイエスの言っていることではないような気がするのです。
(3・Ⅰ)

わたしは この二つの文章をよんで よく考えてみると そこには(二つの間に)矛盾があるのではない また 前者から後者への発展・深化があるのでもないと思うようになりました。先のほうの引用では《カトリック者の本来の姿勢は 東洋的な神々の世界のもつ あの優しい受身の世界ではなく 戦闘的な 能動的なものです》が 後のほうのでは《やさしい神のイメージが強いことを発見しました》ということだそうです。矛盾がないとしたら それは 神はやさしいが その信徒は 戦闘的であるというふうに分けて捉えているのでしょうか。でも 再考の結果 ここには 矛盾はないのだと思いました。
前者の論考では 別の箇所で

ぼくは今 カトリック文学(主にヨーロッパの)を読む時 一番大事な事の一つは これら異質の作品がぼく等に当然あたえてくる《距離感》を 決して敬遠しない事 むしろ 逆に それを意識し それに抵抗することからはじめるべきだ。
(〈神々と神と〉)

と述べられたように そして 後者の著作では 

《よし これ(キリスト教)が日本人としての自分の肉体に合わない洋服ならば 自分の後の半生を 自分の体に合う和服に仕立て直してみよう。仕立て直せるかどうかはわからないけれども そういうトライだけはやってみよう》
そういうふうに考えた。
(1章)

と聞くように 上の二つの引用文の間には 同じ一つの姿勢がつらぬかれているとさえ言ったほうがよい。つまり いくらか思い入れをして見れば 《カトリック者の本来の姿勢は・・・優しい受身の世界ではない》(=前者の引用文)が 《キリストが言っている神のイメージは・・・やさしい神のイメージが強い》(後者の引用文)というふうな一つにまとまった視点をとらえることができるからです。もっとも 《わたしにとって生きるとは キリストを生きることである》(ピリピ 1:21)というときには 言葉のうえでいくらかの衝突が見受けられるのですが。
しかし――あるいは したがって―― 問題は すでにこのように確かに教訓を披露する遠藤さんは 《倨傲な性格》をよくあらわしていないか ここにあるとまず 思われます。
この遠藤が模索して得てこうして披露している教訓のその性格にかかわっていると思われます。
けれども 問題のつづく第二点は この教訓の性格にかかわってくるでしょう。牧さんの教訓は 兎の通い道のように 伝統的なと呼ばれる安全の道ではあるものも その行き着く先は 死であることが 後悔をもって現実に生じうる だから 旧来の慣習をよく点検し新しい道をも問い求めなければならない という一つの具体的な問題にかかわっているものでした。
これに対して 遠藤さんの教訓はその性格として この世のどうでもよい道ではなく キリストという道にかかわっています。なおかつ そのとき 人びとは 兎のように善意で 律法を越えない自分の道を歩まねばならないというものであるわけです。少なくとも 《倨傲の性格のために善意の人びとを傷つけてはならないであろう》というものであったわけです。
そうすると カトリック文学者である遠藤さん自身の立ち場は どうなるかと言うと ちょうど兎の調教師で 鷹やイタチからその兎を守る《戦闘的な能動的な》役目をになっているということになるのでしょうか。
これは たしかに 倨傲というよりは すでに言ったように 陰険な押しつけであると考えたほうがよい。善意の人びとの生活は カトリック文学者の苦闘(作品執筆の内外の)という警察網(治安の力)によって守られている 言いかえると 通いなれた和服の安全の道は じつは 罪をまぬかれておらず死の道ではあるが 警察官の指し示す同伴者イエスの像を信じることによって この罪をもはや見ない・言わない・聞かないという兎の三原則が保持されているということになるでしょうか。
ここに確かにわたしたちの批判点があって それは 和服に仕立て直された洋服としての遠藤さんにとってのキリスト教(このばあいは 信仰というよりは集団としての宗教といったほうがよいでしょう)の問題 そして なおかつ このことには 言葉としてはきついですがあのきだみのるの描いてみせた《気違い部落の青春》等々の問題が横たわっている。
なぜなら このような警察官たるカトリック文学(それは 政治?)に従いこれによって 善良な兎となって生活する社会は じつに幻影の楽園 幻想の帝国のほかの実態ではないと思われます。

  • 罪が 動態的におおわれるのではなく この罪を あの同伴者イエスの・または森田ミツの像を想像することにおいて 見せない・言わせない・聞かせないのであり これが A階級人格論というまぼろしとなっている。人為的に作り話の中で 罪をおおう。作品はそのために 存在すると言おうとしている。

もし反対に 仮りにあのユダヤ教ユダヤ社会が なお言うところの《苛酷な厳しい神のイメージ》をもって 犯すべからざる律法によって 人びとは逆に《鷹や猟師》にならなければならないと言いあって 生活しているのだとしたなら そのように内容を異にして 同じくそれは 幻想の楽園 幻影の帝国であることのほかの実態ではないと言わざるをえないからです。
要するに そのイメージが《きびしい》であれ《優しい》であれその神を想像において抱いて 鷹の律法あるいは兎の安全の道をもって これを越えてはならないと ますます人びとに罪の自覚を促しつつ生きる社会が それです。
矛盾構造がじつは 人びとの現実であり これは そのまま開かれた・人間的な・動態的にして発展する過程なのではないでしょうか。わたしたちは キリスト教の教義はわかりませんから ただこのことを確認し しかもこの開かれた動態を 想像において 一面的なあの《復活》の像を置くことによって 閉じられた兎の社会とすることには 反対せざるを得ないと述べてきました。
もちろん遠藤さんがその張本人なのではなく 社会の中でそのような確かに動きが一部に見られ これを遠藤さんは キリスト教を借りてうまくなぞらえたというにすぎないのだと捉えます。ちなみに いわゆる唯物論者は このような宗教批判はすでに終えられているから――たしかに宗教批判はすでに終えられていると考えるから―― しかもこれらの宗教的な動きを無視するというよりは この宗教批判の終えられた地点をむしろ想像(また理論)において捉え胸に抱いている 言いかえると 構造的・過程的だがすでに矛盾はないような世界に住んでいる 住んでいると信じている このような情況ではないでしょうか。

§13 《吾が顔を見る能はじ》

遠藤さんの本のタイトル《吾が顔を見る能はじ》というのは 聖書のことばであり 《吾》というのは 神のことですから 《あの復活(つまり吾が顔)を人は見ることが出来ない》という意味です。
しかも われわれの罪が覆われている つまりこの今 復活には将来すべきものとして臨んでいると観想されたから この世は 決して一面的ではなく 矛盾をはらんで構造的であると考えてきました。ところが この世の経験的などうでもよい事柄の一面的な世界を 凝視するのではなく いつしかただ観察するということによって これをしかし どうでもよいのではない《復活》の像としての別のほうの一面へ人間は上げてしまった。遠藤さんまたかれの描くキリスト教がそれであり ちなみに無神論に立つという唯物論者たちは 決して ふたたび地上の一面へ降りてしまったのではなく 同じ想像世界の・つまりどうでもよいのではない世界の地点にあって その宗教性をすべて取り払ってしまった そういうある種の理論的・科学的な《復活》の像を 現実であると考えている。マルクシストたちもこの意味で 《見る能はざる吾が顔を 見ている 見ていると思っている》のだと思われます。
これらは 《罪がおおわれた》というとき そこに・この地上に罪がないのではない つまり少なくとも罪をおかす可能性への快活な恐れが存在しているはずであるのに そのこと自体を 想像において 信じたりまたは理論したりして それぞれ一面的な閉じられたものとしてしまっている。矛盾構造を 一方で 律法という一つの固定的な《伝統的な》安全の道として兎となって守り 他方で 確かに構造的・過程的な視点を保ちつつも すでに矛盾の解かれた理論としての《復活》――少なくとも これを理論体系化できるし しなければならないし そうすることが 復活であると思っている――として むしろ宗教の世界に入ってしまった。
後者は あるいは前者も 《見る能はざる吾が顔をこの世で見た 見なければならない》と言っているかのようである。
ところが今度は――或る意味で議論を反転させるとすると―― 罪がおおわれているのなら 《復活を見た 見たと思う》ということは ゆるされるし 正当にも言われるべきであるでしょう。問題は これまでの議論を綜合するとき 

見つかったよ。何が?――永遠が。

というような《復活》の観想――カトリック作家にとっても マルクシストや社会科学者にとっても 要するにわたしたちにとって――は 表現されて一向にかまわないわけであるが その大前提を たしかにどこかで前提していなければならないでしょう。つまりこの世とそしてこの世に属していないものとの矛盾構造という大前提であり だから確かに人は 信じることによって生きていると捉えられるところの現実だと思われます。
実際そうであって このような作者(理論家)と読者との関係 あるいは 政治家と一般市民との関係などなど これが カトリック作家問題の問題であると いま明らかにして 語ることができるのではないか。
この点は 大前提の問題として ここまでのことであるが あの人間凝視の義務がつづく( Le Devoir s'exhale / Sans qu'on dise : enfin )――要するに つづくということ――にかかわると思われる。
《 Science avec patience 》というように とうぜん学問にもかかわるであろうし 罪の共同自治という点は 生活にも政治にもである。このことを平俗的に言うと もう一度 教訓といったことがらをも われわれは見直してみるべきなのかも知れません。また 小説作品などは ただエンターテインメントであるだけではないということ。
逆に言いかえると 律法(法律)とか安全の道が 想像において尊いものとして持たれるのではなく 学問の研究や小説等の芸術活動じたいの中に 要するに生活の中に 矛盾構造としての生きた安全の道が 動態的につちかわれていく。言いかえると 兎の通い道といった実際には死につながる安全の道は じつに死んでいるのであって これによってむしろわたしたちが よみがえっているのだと。
もう一度 虚偽が焼き尽くされるというあのバツの悪い思いを そのまま通過するということをしなくとも ふたたびその思いを促すかに見える教訓を思惟していくことによって むしろ すでに死んだその自己が《復活》するのだと。これが すでに説き終えられているのに まだたしかに暗闇のなかにあって 明るみには出されていない。密教的なものを顕教的なものにする必要がある。それがたしかに 矛盾構造のその動態過程にある人びとの常識であるしかなく 常識であるのだと。
(つづく→2005-11-10 - caguirofie051110